第五話 【孤独】
「……違う…違う……」
リョウが、何度も呟く。
「俺は、守ろうと……」
手が、震えている。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か、分からない。
ミサキが、声をかけようとした瞬間。
リョウが、顔を上げた。
その目は、見開いて、どこも見ていない。
「……呼ばなきゃ、会えないんだろ?」
タケルが、一歩下がる。
「リョウ、聞くな」
「呼べば、レイコとまた話せる、かも」
リョウの口が、知らない音を作ろうとする。
ミサキは、初めて確信した。
次に壊れるのは——
リョウだ。
そして、呼ぶ役は、まだ決まっていない。
リョウの口が、音にならない音を作り始めた瞬間。
ミサキは、耳を塞ぎ、強く目を閉じた。
聞かない。
見ない。
考えない。
介護士として、認知症の患者が錯乱したときの対処方法。
その決してやってはいけないことを知っている。
それは、正面から受け止めること。
「……リョウ」
今も、とめどなく思考に浮かんでくる、知らない名前は呼ばない。
語尾を、落とす。
「今は、話さなくていいから」
リョウの動きが、一瞬止まった。
タケルが、その隙に前に出る。
「ミサキ、下がれ」
だが遅かった。
リョウは、タケルを“見た”
「……知ってたくせに」
声が、二重に聞こえる。
「全部、知ってて……」
リョウが、タケルに掴みかかった。
——怒鳴り声。
——倒れる音。
「やめて‼︎」
ミサキが叫んだ瞬間、ライトが弾けた。
とたんに訪れる ————闇。
誰かが、どこかへ引きずられる音。
「ミサキ‼︎」
タケルの声。
だが、次の瞬間には聞こえなくなった。
そして静寂、ゆっくりと顔を上げる。
気づくと、ミサキは、また一人だった。
地下は、さっきよりも広く感じる。
いや、違う。狭い。
壁が、距離を詰めてくるような感覚。
「…絶対に…呼ばない」
自分に言い聞かせるように呟く。
もう懐中電灯は無い、ポケットから頼りない充電残量のスマホを取り出す。
スマホのライトは、点けっぱなしにしない。
暗闇に目を慣らす。
視界の端で、動くものを追わない。
今は、もう頭に浮かんでこない。
言葉にならない音、知らない名前。
だが聴いてしまった、知ってしまった。
その音を、名前を、考えない、呼ばない。
今は自分でも驚くほどに冷静だ。
生存本能というものなのだろうか。
さっきまでの広い空間からさらに進んだ通路の先で、床が変わった。
コンクリートではない。
触感がある。
踏みしめると、わずかに沈む、だが土ではない。
「…泥? …いや……生き物…?」
声に出さず、そう理解する。
壁には、無数の“跡”
——手形。
——足跡。
——額を押しつけた跡。
すべてが、祈りの形をしていない。
逃げようとした痕跡だ。
天井を見上げて、ミサキは理解した。
ここは、祀る場所ではない。
見せる場所なんだ。
外なるものは、信仰を必要としない。
必要なのは——認識。
——見た。
——聞いた。
——呼んだ。
それだけで、こちら側に“繋がる”存在。
だから、日本神話は、その類を物語にしなかった。
名を与えなかった。
存在しなかったことにした。
それでも、完全には追い出せなかった。
「だめ…」
考えてるより先に、小さく自分の言葉が思考を遮った。
理解の外すぎて何が良いのか悪いのかも分からない。
深く考えれば考えるほど悪いことが起きそうな気持ちでいっぱいになる。
今はタケルと、リョウを探しだして、ここから脱出することだけを考えよう。
一人になってからもうどれだけ歩いただろう。
—— 数時間?
いくら人の足でも、数時間も歩ける地下空間なんてあるものなのか。
暗闇と孤独が恐怖を超え、そして冷静とも違う感覚を目覚めさせてくる。
すると奥に、裂け目があった。
空間の裂け目のような、蜃気楼のように揺らぐ。
そこに、何かが“いる”
形は、定まらない。
—— 目がある。
だが、数えられない。
—— 首がある。
だが、繋がっていない。
それなのに、こちらを把握している、見ている。
ミサキの中で、また言葉にならない音が浮かびかける。
——呼び名。
——意味。
——音。
「……違う、だめ」
ミサキは、背を向けた。
逃げるのではない。
拒否する。
存在を、完結させない。
その瞬間。
裂け目が、わずかに縮んだ。
怒りではない。
失望でもない。
ただ、機会を失ったという感触。
ミサキは、震える足で歩き出す。
——呼ばない。
——見ない。
——意味づけない。
それが、人間に残された唯一の対抗手段な気がした。
足音がする。
規則的ではない。
引きずるようで、時々、跳ねているような。
ミサキは、立ち止まらなかった。
気配は背後からだ、あの裂け目の方向から。
止まると“向き合ってしまう”
「……ミサキ」
私の名前。
ハッキリとした、リョウの声。
背中が、ぞわりと粟立つ。
呼び返さない。
振り向かない。
「……聞こえてるよねぇ?」
距離が、縮まる。
「タケルはさぁあぁ」
一瞬、声が揺れる。
「……連れていかれたよ」
ミサキの足が、わずかに止まりそうになる。
だが、止まらない。
「名前、教えてもらったんだぁ」
リョウの声が、二重に重なる。
「正確には、“近い音”だけど」
壁に、背後からの薄い影が映った。
人の形をしている。
だけど、関節の数が合わない。
「レイコもさぁ」
影が、揺れる。
「……呼べば、ちゃんと来る」
ミサキの喉が、ひくりと動く。
だが、言葉は出さない。
ミサキは、足早に角を曲がった。
その先に、開けた空間。
壁一面に、文字のような傷。
人が、爪で刻んだような跡。
リョウが、壁に寄り掛かり立っていた。
いや、立たされていた。
背中が、壁に“縫い付けられている”ように見える。
目は、合わない。
だけど、分かる。
見られている。
後ろの気配も消えてない。
まだ、いる。
目の前のリョウ、背後の気配のリョウ、同時に話しかけてくる。
「……なんで、呼ばないんだ?」
リョウが、笑う。
「呼べば、楽になるのにぃ」
ミサキは、一歩だけ下がる。
「……リョウ」
名前を、呼んでしまった、応えてしまった。
空気が、震えた。
リョウの顔が、歪む。
喜びとも、苦しみともつかない表情。
「……今の、惜しかったなぁ」
ミサキは、歯を食いしばる。
もう、二度と呼ばない、応えない。
「……介護士、だっけ?」
リョウが、唐突に言う。
「だったらさぁ」
冷静なリョウからは見たこともない、悔しいような悲しいような表情。
「……看取ってよ」
その言葉は、人間の声だった。
ミサキの胸が、強く締めつけられる。
でも、答えは決まっている。
ミサキは、目を閉じた。
「……ここには、誰もいない……」
言葉を、空間に溶かす。
——認識しない。
——役割を与えない。
ゆっくり目を開くと、さっきよりも視界が広く感じる。
背後のリョウの影が、周囲の影に溶けて薄くなる。
壁の傷が、意味を失った線に戻る。
「……あぁ?」
リョウの声が、初めて戸惑う。
ミサキは、静かに後退する。
もう背後の気配も希薄に感じる。
——見ない。
——呼ばない。
——そして。
——看取らない。
それは、残酷な選択。
だけど、私が生きるための選択だった。




