第二話 【始導】
——それより少し前
リョウのハイエースは、思っていたより中が広かった。
後部座席は向かい合わせになっていて、簡易的な撮影機材や
三脚が床に転がっている。
仕事用なのか、内装は無駄がなくて、妙に整っていた。
「やっぱハイエース最強だわ」
タマキが満足そうに言いながら、機材を足で寄せる。
「人も荷物も詰め込める。今回の企画にぴったり」
「“詰め込める”って言い方やめてよ」
ミサキはシートに深く座り直した。
揺れは少ないけど、独特の車内の匂いが少し苦手だった。
運転席のリョウは、ほとんど喋らない。
黒いパーカーにキャップ。
バックミラー越しに目が合うと、軽く顎を引いて視線を戻す。
それだけ。
愛想がないというより、余計なことを言わない人、という感じだった。
「リョウ、こういうの平気なの?」
レイコが聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「別に。行く場所が場所なだけでしょ」
声は低くて落ち着いている。
怖がっている様子はない。
「ほらな、冷静担当」
タケルが運転席の横から笑う。
助手席に足を伸ばして、やたらくつろいでいる。
「こういうとき、感情的になると損するんだよ」
「それ言う人ほど一番楽しんでるでしょ」
ミサキが言うと、タケルは大げさに胸に手を当てた。
「失礼だなあ。俺はロマンを感じてるだけ」
「ロマン?」
「廃病院だよ? 何かあるに決まってるじゃん。歴史とか、噂とかさ」
その言い方が、妙に本気っぽくて、ミサキはテンションの違いに溜息をつく。
後部座席のヒナは、窓の外をぼんやり見ている。
膝の上で手を組んで、誰とも目を合わせない。
いつも通りのおっとりした雰囲気だけど、今日は特に静かだった。
「ヒナ、大丈夫?」
「うーん」
少し間があってから、彼女は言った。
「なんか……空気、変わってきたなーって」
「怖いのとは少し違うんだけどねー」
「はいはい、スピリチュアル担当きました」
レイコが笑う。
派手なピンクのネイルが、スマホの画面をトントンと叩く音を立てる。
レイコは見た目も口調も強気で、いつも誰かを小馬鹿にしている。
今も配信前にも関わらずコメント欄を気にして
何度もスマホの画面を確認している。
誰よりも反応を欲しがっているのが、ミサキには分かった。
「でもさー……」
ヒナは言葉を選ぶように続けた。
「病院っていうより……神社とか、お寺に近い感じがするの」
車内が一瞬だけ静かになる。
「意味わかんないんですけど」
レイコが即座に切り捨てる。
「病院は病院でしょ。霊とかなら分かるけど」
「いや、でもさ」
タケルが口を挟んだ。
「日本ってさ、そういうの混ざってるじゃん。治療と信仰とか」
軽い口調だったけど、言葉は妙に具体的だった。
ミサキは、そのとき初めて、タケルが本気でこの場所に興味を
持っている気がした。
バックミラー越しに、リョウの視線が一瞬だけタケルに向く。
何か言いたそうで、言わない。
やがて、木々が途切れ、フェンスが見えてきた。
「はい、到着‼︎」
タマキが元気よく声を上げる。
そして車は目的地に着いた。
タマキがカメラを回し始める。
「本日の企画はこちら! 東京某所にある“出る”と噂の廃病院で一晩検証!」
「一晩って聞いてない……」
廃病院は、思ったより低く、横に広がっていた。
看板は朽ちていて、名前はもう分からない。
ミサキは胸の奥が、理由もなくざわつくのを感じていた。
この車に乗ってきた六人のうち、全員が同じ場所を見ているはずなのに
見ているものは、きっと同じじゃない。
ハイエースのスライドドアが開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
「さっむ‼︎」
タマキが肩をすくめながら地面に降りる。
廃病院の前、夜の森は静かで、虫の声すらほとんど聞こえない。
時間は午後八時——
「というわけで、皆さんこんばんは!」
もうカメラは回っていた。
ライトが点き、廃病院の汚れた外壁が白く浮かび上がる。
「みなさんご存知!タマキンTVのタマキでーす!」
「今日は東京郊外の某所にある、ガチでヤバいと噂の廃病院に来てまーす!」
テンションの高い声が、やけに場違いに響く。
「そして‼︎愉快なチャンネルメンバーがこちら!」
カメラのレンズが一人ずつなぞる。
「まず運転手、冷静沈着‼︎無口担当のリョウくん!」
リョウは軽く手を上げるだけで、何も言わない。
「続いて、今日一番ビビってるであろう介護士‼︎」
「リアクション担当のミサキちゃん!」
「え、ちょっと」
急に振られて、ミサキは小さく手を振った。
「怖いの苦手です……」
コメント欄が一気に流れるのが見えた。
「かわいい」「守りたい」「フラグ立った」
「やめてよ……」
「はいはい、次‼︎ 天然癒し担当のヒナちゃん!」
「よろしくお願いしまーす」
ヒナは少し照れたように笑って、ぺこりと頭を下げた。
「そして、紅一点……いや、三点か」
レイコが鼻で笑う。
「自称最強メンタル‼︎ ツンデレ担当のレイコさん!」
「デレてないし、余裕でしょ。何も出ないって」
そう言いながら、彼女は無意識にミサキの近くに立った。
「そして、そして‼︎ 金髪イケメン‼︎ 頼れる知識担当のタケルくん!」
「どうもどうも。今日はロマンを感じに来ました」
タマキがビデオカメラで皆をひととおり撮影した後
レイコが持つ配信用のスマホに顔を近づける。
「最後に‼︎ そんな個性豊かな皆のまとめ役‼︎ タマキがお送りします‼︎」
拍手と笑い。
軽いノリ。
いつもの配信と変わらない。
ただ、ミサキだけは、廃病院から目を離せずにいる。
建物からは舌舐めずりで見られている気がしていた。
「じゃ、行きましょうか」
タマキがフェンスの扉を押し開ける。
甲高い金属音が夜に響いた。
その瞬間、コメント欄に同じ言葉が何度も流れた。
「音やば」「今の何」
「聞こえた?」
ミサキも聞いた。
フェンスの音じゃない。
もっと低い、遠くで何かが軋むような音。
「今の、聞こえた?」
ミサキが言うと、タケルが笑って肩をすくめた。
「風でしょ。こういう場所は音が反響するからさ」
リョウもその言葉に頷く
廃病院の玄関は、すでに壊れていた。
扉の向こうは暗く、ライトを向けると、床に散らばった紙が照らされる。
「うわ、ガチ病院じゃん」
タマキが一歩、踏み出す。
ミサキは、足を止めた。
理由は分からない。
ただ、ここから先は、配信じゃなくなる気がした。
廃病院の中は、思っていたよりも広かった。
ライトに照らされるたび、白い壁と長い廊下が浮かび上がる。
床には書類やガラス片が散乱していて、踏むたびに小さな音が鳴った。
「カルテじゃん、これ」
タマキが一枚拾い上げる。
「名前とか消えてるけど、年号古くね?」
「昭和……二十年代?」
タケルが覗き込む。
「戦後すぐだな。精神科が多かった時代」
「詳しすぎ」
レイコが眉をひそめる。
ミサキは、廊下の奥を見ていた。
ライトが届かない先が、暗いまま残っている。
暗闇がある、というより、暗さが立っている感じがした。
「ここ、病室かなー?」
ヒナが一つ目の扉を開ける。
中はがらんとしていて、ベッドのフレームだけが残っていた。
天井から垂れ下がった昔の点滴スタンドが、わずかに揺れている。
「風?」
ミサキが聞くと、誰も答えなかった。
揺れは、止まっていた。
レイコが鼻で笑う。
「こんなの、よくあるじゃん。廃墟あるある」
そのとき。
カタン、と音がした。
床に落ちていたカルテが、一枚だけ、裏返っている。
「……今、触った?」
ミサキが言う。
「触ってない」
ヒナが首を振る。
「俺も…」
リョウの声は即答だった。
タマキはカメラを向けたまま、笑ってみせる。
「ほらほら、コメント盛り上がってるぞ」
画面には「今のヤバくね?」という文字が並んでいる。
ミサキは、背中がじわっと冷えるのを感じた。
介護士として、何度も“何も起きてない空間”にいたことがある。
シフトの都合でたまにある夜間勤務、その誰もいないフロア。
でも、ここは違う。
何かが、反応している。
廊下を進むと、受付らしきカウンターが見えた。
カウンターの奥の壁に、紙が貼られている。
色あせた注意書き。
「……“夜間は立入禁止”」
「当たり前じゃん」
タマキが笑う。
その下に、もう一枚。
手書きの文字。
「……“地下には入るな”」
タケルが、それをじっと見ていた。
「地下、あるんだ」
ミサキは、なぜか胸がざわついた。
そのとき、ヒナが言った。
「ねえ……今、誰か呼ばなかった?」
全員が、動きを止めた。
「呼ぶって?」
レイコが聞き返す。
「名前、じゃないんだけど……」
ヒナは首をかしげる。
「呼ばれた気がしたのー」
ミサキは、喉の奥がひくっと鳴るのを感じた。
確かに、何かが、下から上がってくる気配があった。
でも、音はしない。
匂いも、ない。
ただ、空気だけが、少しだけ冷えた。
「気のせいでしょ」
タケルが、軽く言った。
「こういう場所、そう感じやすいんだよ」
その言葉で、場は動き出した。
誰も、地下への階段が、最初から“そこにあった”ことに
疑問を持たなかった。
廊下の空気が、張りつめたまま動かなくなっていた。
誰も喋らない。
ライトの円だけが、壁をなぞっている。
そのとき。
《——テレテレテン♪ 》
誰かのスマホから着信音が鳴った。
「ひっ‼︎」
ヒナが小さく声を上げて、胸元を押さえる。
「びっくりしたぁ……」
スマホの画面が光っている。
「誰?」
レイコが周囲を睨みながら早口で聞く。
「上司からだー……」
ヒナが苦笑いして、小さく手を上げる。
「はぁ?」
タマキが間の抜けた声を出す。
「え、今?」
「ごめーん、ちょっと出ていいかな?」
ヒナは申し訳なさそうに言って、廊下の端に寄った。
「もしもし……はい。え、今ですか?」
声が、急に仕事モードになる。
ミサキは、その様子を見て、少しだけ現実に引き戻された。
廃病院。
配信。
でも、仕事の電話は、どこにいても鳴る。
「はい、明日の現場ですよね……資材の件は…もしもし? …あ、はい。」
ヒナは、電波が悪くて不鮮明な会話を壁にもたれながら話している。
「え? 数、足りてないですか?」
建築資材。
ミサキは、ヒナがそういう会社に勤めていると聞いたことを思い出した。
普段はのんびりしているけど、仕事の話になると、意外ときちんとしている。
「もしもし? あ、はい。確認します。はい……はい……」
通話が続く間、場の緊張が少しだけ緩んだ。
「なんだ、仕事かよー」
タマキが肩を落とす。
「ビビって損した‼︎」
「ほんと」
レイコとリョウも、ようやく笑った。
ミサキは、笑えなかった。
ヒナの背後。
ライトが当たっていない壁のあたりが、妙に暗い。
というか黒い。
影がある、というより、影が伸びている感じ。
ヒナは気づいていない。
「……はい、分かりました。じゃあ折り返します」
通話が終わる。
「ごめんねー、仕事だー」
ヒナは片目を閉じ、スマホを持った手を合わせて、こちらに戻ってきた。
「資材の発注ミスらしくてさー」
「社会人だねえ」
タケルが軽く言う。
「真面目な人ほど、こういうとこで呼ばれるんだよ」
真面目。
無垢。
呼ばれる。
ヒナが歩き出した瞬間、ミサキは、背後の暗がりから、一歩、何かが引いたような気がした。
見間違いだと思いたかった。
通話を終えたヒナは、スマホをポケットにしまいながら言った。
「ごめん、ちょっとだけ静かなとこ行ってくる」
「また?」
ミサキが思わず聞き返す。
「上司に折り返ししないと。電波、ここ悪いからー」
確かに、さっきから配信の映像も時々乱れている。
「すぐ戻るからさー」
ヒナはそう言って、ライトを持たずに入り口方向へ歩き出した。
「ちょ、ライト――」
言いかけて、ミサキは口をつぐんだ。
ヒナはもう、曲がり角の向こうだった。
「大丈夫でしょ‼︎」
タマキが言う。
「大人なんだから」
「でも……」
「はいはい、過保護」
レイコが遮る。
そのまま、全員が別の方向を向いた。
ほんの数分。
受付周辺を撮ったり、カルテを覗いたり、他愛ないやり取りをしていた。
「ヒナ、まだかな?」
ミサキが言ったとき、誰も即答しなかった。
「すぐ戻るって言ってなかった?」
「言ってた」
リョウが短く答える。
ミサキは、さっきヒナが消えた方向を見た。
廊下は、同じ形の扉が並んでいるだけで、区別がつかない。
「ちょっと呼ぶ?」
「大げさだって‼︎」
タマキが笑いながら、声を張る。
「ヒナー‼︎ 電波入ったー?」
返事はなかった。
もう一度。
「ヒナー⁉︎」
遠くで、何かが落ちる音がした。
ガラスが割れる音にも似ているけど、はっきりしない。
「……今の、ヒナ?」
ミサキの心臓が、嫌な速さで打ち始める。
「探しに行こう」
リョウが言った。
全員が、同じ方向へ歩き出す。
そのとき、ミサキは気づいた。
ヒナの足音を、誰も聞いていない。
行くときも。
戻るときも。
まるで、最初から、音を立てていなかったみたいに。
ヒナの名前を呼びながら歩くうちに、ミサキは自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
廊下は同じ景色の繰り返しで、進んでいるのか戻っているのか分からない。
「絶対こっちだって」
タマキが先頭で言う。
「さっき音したし」
「音って、どんな?」
レイコが聞く。
「……なんか、落ちた音」
誰もそれ以上、突っ込まなかった。
ミサキは、床を見た。
埃は積もっているのに、足跡がない。
自分たちの分しか。
ヒナの靴は、柔らかいソールだったはずなのに。
「…みんな…止まって」
タケルの声で、全員が足を止めた。
「なに?」
「音、聞こえない?」
耳を澄ます。
何も聞こえない。
なのに——
静かすぎる。
その先に、階段があった。
地下へ続く階段。
最初から、そこにあったはずなのに、今、初めて見た気がした。
「……ヒナ?」
誰かが、そう言った。
階段の入り口に、影がある。
ライトが当たって、形になる。
—— 人だ。
膝をついている。
手を、合わせている。
「……やめて」
ミサキの声は、震えていた。
近づくにつれて、分かってしまう。
姿勢が、おかしい。
首が、折れている。
時間が、止まった。
次の瞬間、レイコが叫んだ。
「無理! 無理無理無理!!」
悲鳴が廊下に反響して、何度も跳ね返る。
「なにこれ……なにこれ……」
タマキが後ずさりする。
カメラはまだ回っていた。
コメント欄が、異常な速さで流れている。
「やらせ乙」「演出?」「ガチ?」「救急車呼べ」「配信切れ」
ミサキは、ヒナの顔を見られなかった。
代わりに、手を見た。
両手を広げて、強く合わせられたままの手。
自分の意思じゃない。
そう思った。
「……配信、止めたほうがいい」
リョウの声は低く、はっきりしていた。
「今すぐ……」
「でも——」
「いいから!」
タマキの指が震えながら、画面を操作する。
その瞬間。
タケルが、壁を見ていた。
地下の壁に描かれた、円と線の模様。
祝詞やお経のような、読めそうで読めない漢字がひたすらに
書かれている、お札ではなく壁に直接だ。
他のみんなはパニック状態でそれどころではない様子。
ミサキもパニックではあるが、それを見てしまった。
配信が、切れた。
ライトが一つ、消える。
闇が、戻ってくる。
その中で、ミサキは思った。
——これで終わりじゃない。
——これは、始まっただけだ。
——そう思わせる光景が目の前にある。
「……警察、呼ぶ」
ミサキは震える手でスマホを取り出した。
画面には、圏外。
「嘘でしょ……」
「俺もダメだ」
「こっちも!」
全員が口々に言う。
ここに来るまで普通に繋がっていたはずなのに。
「外出よう」
リョウが言った。
その瞬間だった。
パチッ。
一つ、ライトが消えた。
「ちょ、なに?」
パチ、パチッ。
連鎖するように、光が落ちていく。
「やめて、やめて!」
レイコの声が裏返る。
最後の一灯が消えたとき
闇が、音を飲み込んだ。
「誰かいるの⁉︎」
「ミサキ⁉︎」
「タマキ⁉︎」
声が重なって、位置が分からない。
—— 足音。
走る音。
何かが倒れる音。
「みんな落ち着け‼︎ 動くな‼︎」
タケルの声がした。
でも、それが最後だった。
—— 次の瞬間
その声が、途切れた。
また一人。
また一人。
名前を呼んでも、返事がない。
ミサキは、息ができなくなった。
そして
—— 暗転 ———
気を失ったわけではない。
唐突に何も感じなくなったのだ。
みんなの気配も。
自分の五感も。




