失われたものの名も知らずに
第五話
失われたものの名も知らずに
遠く離れた森の中で。
名も知られぬ魔族の少年は、
手にしていた薪を落とした。
乾いた音がした。
それだけだった。
怖いわけではない。
悲しいわけでもない。
ただ、
胸の奥に空白ができた。
何かが、抜け落ちた。
理由は分からない。
考えようとしても、言葉が出てこない。
小さな角が、ひとつ、震れる。
風が吹く。
木々が揺れる。
世界は、
何事もなかったように続いている。
それでも――
知らないはずのものを、
確かに、失った気がした。
少年は息を吐き、
落とした薪を拾い直した。
重い。
いつもと同じ重さだ。
抱え上げ、
森を抜ける。
村は、いつも通りそこにあった。
大きな角を持つ者たちが行き交い、
火を起こし、
獲物を解体している。
強い種族だ。
爪は硬く、
身体は人間より強靭、
正面からぶつかれば負けることは少ない。
少年は、
その輪の外を歩く。
誰とも目が合わない。
声もかからない。
迫害されている、
というほど明確な言葉はない。
ただ、
期待されていない。
それだけだ。
少年は薪を積み、
肩に掛けた袋を確かめる。
中に、
本がある。
人間の文字で書かれた、古い本。
何度も読んだ。
もう、ほとんど覚えている。
弱い者たちが、
知恵と技で、
強い敵を倒す話。
ありえない、と笑われる話。
少年は笑わない。
信じてもいない。
ただ、
嫌いではなかった。
そのとき、
村の外から音がした。
最初は、
獣かと思った。
次に、
金属の音が混じる。
声が飛ぶ。
人間だ。
前に出る者たちが、
すぐに動いた。
仕事を捨て、
爪を立て、
正面からぶつかる。
強い。
実際、押している。
人間が後ろに下がり、
陣を組み直す。
「詠唱、通すぞ!」
声が飛んだ瞬間、
空気が変わった。
光が走る。
前にいた者が、
弾けるように倒れた。
一人。
二人。
防げない。
魔法だ。
後衛が、
正確に仕事をしている。
陣形が崩れる。
前衛は強い。
だが、前だけだ。
少年は、
その場にいない。
そこに立てるほど、
強くはなかった。
だが、
完全な非戦闘員よりは、速い。
逃げる準備は、
ずっと前からできていた。
前線が持ちこたえている間に、
非戦闘員が動き出す。
泣き声。
足音。
怒鳴り声。
少年は、
その流れの端にいる。
誰も、
こちらを見ない。
呼ばれもしない。
それでいい。
背を向ける。
走る。
足は動く。
息が詰まる。
それでも、
止まらない。
後ろで、
何かが割れる音がした。
振り返らない。
振り返れば、
終わる。
森に入り、
獣道を抜け、
岩陰に滑り込む。
洞穴がある。
集落が用意していた、
非戦闘員のための避難所だ。
戦いになったら、
ここへ来いと、
そう教えられていた。
中は暗く、
湿っている。
すでに誰かが
いるはずだった。
泣き声や、
息遣いが、
聞こえるはずだった。
奥へ進み、
壁際に身を寄せる。
待つ。
それだけしか、
できない。
時間が過ぎる。
足音は来ない。
声も来ない。
誰も、来ない。
分かってしまった。
ここまで
辿り着けた者が、
一人もいなかったのだと。
外に出る。
村は、
そこになかった。
燃えた跡。
崩れた家。
血の匂い。
守る者が、
もういない。
守られる者も、
残っていない。
少年は歩き出す。
行き先は、
ない。
それでも、
止まれなかった。
胸の奥の空白は、
まだ埋まらない。
それが何だったのかも、
少年は知らない。
ただ――
世界が、
少しだけ軽くなっていた。
つづく




