アクアイア
第五十七話
アクアイア
数日が過ぎていた。
砦でも、戦場でもない。
けれどここは、間違いなく魔族の拠点だった。
整えられた屋敷の影で、鍛錬の音が鳴り、
遠くでは誰かが笑い、誰かが怒鳴っている。
僕はというと、
いつものように、暇な魔族たちに囲まれていた。
「なあなあ、その紙に書いてあるやつ、昨日のと違うやろ」
「字ぃ並べるだけで何が変わるんや?」
「読めるだけで偉そうにすんなよー」
適当に受け流しながら、返事をする。
ここでは、それでいい。
戦いに出るわけでもなく、
作戦を考えるわけでもない。
“今はまだ”。
そんな空気の中で――
声をかけられた。
「少し、よろしいでしょうか」
振り向くと、濁将が立っていた。
相変わらず丁寧な物腰で、周囲の喧騒から一歩引いた位置にいる。
「私の領域が落ちたことは、既にご存じの通りです」
淡々とした声。
だが、その奥には焦りが滲んでいた。
「この事実を、他の将にも伝えなければなりません。しかし――」
濁将は一度言葉を切り、周囲を見回す。
「私自身が動けば、再びあの者たちを引き寄せる可能性がある」
あの者たち。
ARK。
その単語を出さずとも、胸の奥がざわつく。
「そこで、あなたの首にある“アクアイア”です」
視線が、僕の胸元に落ちる。
「それは、私が世界各地に設けた転送の出口です。
出口が移動すれば、私もそこへ現れることができる」
つまり――
僕が動けば、濁将も動ける。
「協力していただけませんか」
丁寧な言葉。
押し付けるような響きはない。
けれど。
「……僕より、他の誰かが持った方が確実じゃないですか」
思わず、そう返していた。
「僕は、ただ読めるだけで」
「戦えるわけでもないし、判断を誤るかもしれない」
責任から逃げたい、というより――
巻き込むのが怖かった。
その瞬間。
「はーい、そこストーップ」
軽い声が割り込む。
振り返るまでもない。
「それはキミの。人に渡すとか考えなくていいから」
翼将が、腕を組んで立っていた。
「拾った時点で所有権は確定」
「それ、似合ってるし」
「他の誰か? ないない」
有無を言わせない調子。
けれど、責める色はない。
濁将が、改めて僕を見る。
「……引き受けていただけませんか」
その言葉に、すぐ返せず――
僕は、運び屋を見た。
運び屋は、少しだけ肩をすくめて言う。
「お前の役割は、『繋ぎ手』だ」
「繋ぐなら、俺はどこへでも連れて行く」
「それが、俺の役割だ。」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
「……分かりました」
声が、思ったより静かに出た。
「僕にできることなら、やります」
その瞬間、肩の力が抜ける。
濁将は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
翼将は、満足そうに頷く。
「じゃ、決まりね。次は、どうやって探すかだね」
そう言って、背を向けた。
視線の先には、
文字を集めた、あの部屋がある。
逃げ道は、もうなかった。
けれど――
逃げなくていい理由も、そこにはあった。
つづく




