読める理由
第五十四話
読める理由
応接間は、朝の光が差し込んでいた。
整えられたとは言い難い空間の中央で、濁将は深く一礼した。
「このようにお呼び立てしてしまい、申し訳ありません」
必要以上に丁寧な声音だった。
「翼将から、あなたのことを聞きました。
――人の文字を、読めると」
その一言で、空気がわずかに変わる。
「魔族の中にも、知を扱う者はおります。
ですが、人の言語を“読む”者は、極めて稀です」
濁将は、慎重に言葉を選んで続けた。
「差し支えなければ……
どのようにして、その力を得たのか。
お聞かせ願えませんでしょうか」
問いかけは、命令ではなかった。
詮索でも、試すような響きでもない。
ただ、純粋な興味だった。
僕は、すぐには答えなかった。
考えていたわけじゃない。
どこから話せばいいのか、分からなかっただけだ。
少しして、口を開く。
「……生まれは、リーフォークの集落です」
濁将の視線が、わずかに揺れた。
「存じております。
角を持つ、森の民。……高潔な気質ゆえ、排他的になりやすい」
僕は小さく頷いた。
「僕は、角が小さかった。
身体も、小さかった」
それだけで、十分だった。
「役に立たないって言われました。
戦えない。
守れない。
――残る価値がない、って」
言葉にすると、驚くほど簡単だった。
「だから、期待もされなかった。
見張りも、狩りも、儀式も。
全部、外された」
その代わりに、与えられたものがあった。
「……時間だけは、たくさんありました」
濁将は、何も言わない。
ただ、続きを待っている。
「集落は、時々、人の積荷を襲いました」
淡々と告げる。
「食料。
布。
金属。
……あと、本」
その単語で、濁将の眉がわずかに動いた。
「人の文字が書かれたものですか」
「はい」
僕は頷いた。
「でも、誰も読めなかった。
読めない紙は、役に立たない」
焚き火の音が、頭の奥でよみがえる。
「ほとんどは、燃やされました。
暖を取るための、燃料です」
言葉を区切って、続ける。
「……その中に、教科書がありました」
人の言語を、順に並べて説明している本。
子供向けの、簡単なものだった。
「僕は、それを拾いました」
理由は、今でも分からない。
「期待されてなかったから、誰も止めなかった。
時間があったから、ただ眺めていた」
最初は、絵を見るだけだった。
次に、同じ形の繰り返しに気づいた。
「誰も教えてくれませんでした。
だから、自分で覚えました」
濁将が、静かに息を吸う。
「……独学、ですか」
「はい」
僕は、少しだけ言葉を選んだ。
「全部じゃない。
分からないところは、ずっと分からないままです」
それでも。
「一冊だけ、守った本があります」
濁将の視線が、僕に戻る。
「物語の本でした」
人の英雄が出てくる話。
知らない土地。
知らない生き方。
「それだけは、燃やしたくなかった」
理由は、単純だった。
「……そこに、逃げ場所があったからです」
応接間に、短い沈黙が落ちた。
濁将は、ゆっくりと頷いた。
「なるほど」
その声には、評価も、同情もなかった。
「文字を読む力は、偶然ではない。
必要とされなかった者が、必要を作った結果なのですね」
僕は、答えなかった。
否定もしなかった。
ただ、そうだったのだと思う。
濁将は、少しだけ視線を落とした。
「……高潔な種族に、ありがちな話です」
その言葉は、慰めではなかった。
事実として、置かれただけだった。
僕は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
初めて、
“読める理由”を、誰かに話した気がした。
つづく




