僕の中にあるもの
第五十三話
僕の中にあるもの
指先が、
戦術書の背に触れた、その瞬間だった。
世界が――
青に反転した。
色というより、
濁った水の中に突き落とされた感覚。
音が消える。
床も、壁も、重さもない。
肺が、
空気を拒む。
息を吸おうとして、
喉が動かない。
視界いっぱいに広がる青が、
内側から押し寄せてくる。
――まずい。
手足をばたつかせる。
声を出そうとして、泡すら出ない。
胸が締め付けられ、
思考が、細く、途切れそうになる。
そのときだった。
ふっと、
何かが離れた。
引き剥がされるように、
青が後退する。
次の瞬間、
僕は石の床に膝をついていた。
激しく息を吸い込み、
咳き込む。
空気だ。
重力だ。
世界だ。
「おや。」
聞いたことのない声だった。
「どうやら、魔族の領域に出てこれたようですね。」
丁寧で、落ち着いていて、
場違いなほど礼儀正しい。
「失礼。少々、出口の指定を誤りまして」
人の形が、出来上がる。
そして――
手を差し出した。
まるで、
溺れかけた相手を助け起こすように。
そこで、扉が乱暴に開いた。
「おい! 大丈夫か――」
運び屋だ。
僕を見て、視線が一気に前へ移る。
「……なんだ、お前」
空気が張りつめる。
一拍。
「なんだなんだ?」
「誰呼んだ?」
「将のとこで騒ぐなって――」
気配が増える。
声が重なる。
あっという間に、
周囲は“魔族の空気”に塗り替えられていた。
その中心で、
丁寧な声だけが、少し困ったように続ける。
「これは失礼しました。
どうやら、賑やかな場所に出てしまったようですね」
その中を、軽い足取りが割って入った。
「なになになにしてんのー」
集まっていた魔族たちが、
一斉に道を開く。
翼将だった。
「……将?」
「え、将!?」
翼将が、
ひょい、と人の隙間から顔を出す。
「わ、集まってるじゃん。
なんか面白そうなこと?」
視線が、
室内を一周して――
濁った人影で止まる。
一拍。
「あ」
「あ」
直したばかりの応接間。
豪華とも、雑然とも言える空間。
人間の調度品と魔族の戦利品が、無秩序に並んでいる。
暇な魔族たちが壁際や床に陣取り、
将同士は、向かい合っていた。
「で? なんで来たの」
翼将が、ベッドに腰を下ろしながら言う。
「いやあ、その……」
粘液の将――濁将は、少しだけ姿勢を正した。
「率直に申し上げますと、避難です」
ざわ、と空気が揺れる。
「四名。
光を扱い、空を踏み、水を割り、
常識的な戦力計算が通用しない存在」
淡々とした口調。
だが、言葉の端が、わずかに乱れている。
「私は、彼女たちと直接交戦しました。
――分身ではありますが」
周囲の魔族が、どよめく。
「結果は?」
翼将が、軽く聞く。
濁将は、少しだけ黙った。
「……危険です」
その一言は、
魔族の集まりの中でも、異様に重かった。
「戦力差ではありません。
戦術でもありません」
「存在そのものが、こちらの理屈を壊してくる」
翼将は、そこで初めて表情を変えた。
「へえ」
「だから、距離を取る必要がありました。
可能な限り、遠くへ」
翼将の眉が、わずかに上がる。
「王を滅した者たちではないかと、推測しています」
その言葉が落ちた瞬間。
――僕の中で、
何かが、はっきり繋がった。
あいつらだ、と。
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
急に、汗が噴き出す。
背中が濡れるのに、指先が冷たい。
体温が、下がっていく感覚。
視界の端で、
魔族たちがざわつくのが、遠くなる。
代わりに、
別の光景が、脳裏に浮かんだ。
逃げ込んだ集落。
自分が紙を漁り、
必死に考え、繋いだ作戦。
魔族たちが動き、
包囲が崩れ――
そして。
次々と、消えていった魔族たち。
戦っていた姿ではない。
逃げる間もなく、
消されていった背中。
「……」
息が、うまく吸えない。
あのとき。
自分は、
知恵が役に立ったと、思っていた。
間違っていなかったと、
そう、思いたかった。
だが。
――違う。
あいつらだったからだ。
自分が何をしようと、
あの場にいれば、結果は同じだった。
胃が、きしむ。
「おい!」
運び屋の声が遠い。
床に落ちる感覚の前に、
世界が暗転した。
気づいた時、風の音がしていた。
空は見えない。
影だけが落ちている。
石のベンチ。
そのそばに、巨大な影。
「……起きたか?」
レイヴァだった。
巨体が、静かに浮かんでいる。
胸が、温かい。
呼吸が、自然に入る。
半透明の膜が、ゆっくりと閉じたり開いたりするたび、
空気が柔らかく撫でられる。
触れられている感覚は、ほとんどない。
けれど、
胸の奥のざわつきだけが、少しずつ沈んでいく。
「怪我はあらへん」
断言だった。
「せやけどな、
これは身体の問題ちゃう」
レイヴァは、僕の顔を覗き込む。
「溜めすぎや」
僕は、言葉を失った。
横のベンチで、運び屋がこちらを見ている。
翼を畳み、静かに。
「倒れた理由、ちゃんとある」
レイヴァは続ける。
「怖かったんやろ」
ぽつりと、落ちた。
「怖いって言うたらあかん、思てた?」
「……逃げた」
それだけだった。
でも、止まらなかった。
「みんな……消えた
僕だけ……」
息が乱れる。
指が、膝の上で絡まる。
「知恵があるって、
そう思いたかった」
「うまくやれたって、
信じたかった」
声が、低くなる。
「でも、違った」
「……あの人たちは、
僕の作戦なんかなくても、
全部、壊せた」
フェッロ像が、視界の端に入る。
「僕は……
あのとき、生き残っただけで」
「そのあとも、
戦術書を避けて」
「生活の本ばかり読んで」
「見ないふりを、してました」
沈黙。
風の音だけが、広場を流れる。
レイヴァは、急かさない。
ただ、
少しだけ距離を縮めた。
「そらな」
「怖いもんは、怖い」
「賢い子ほど、
先が見えてまう」
運び屋が、ぽつりと口を開いた。
「……あの時」
僕を見ないまま、言う。
「お前、必死だったな」
「後ろも振り返らず、
逃げる道ばっかり見ていた」
一拍。
「……そういうことだったのか」
低い声。
レイヴァは、ふっと笑う。
「ほな、ええやん」
「吐き出せたやろ」
「逃げたことも、
怖かったことも」
「それでも、
ここに座っとる」
フェッロ像を、ちらりと見上げる。
「立ち止まることと、
逃げ続けることは、別や」
「今は、止まっとるだけ」
「ほなら、
次に歩く方向を考えたらええ」
僕の胸の奥で、
何かが、静かに落ち着いていく。
完全ではない。
だが、
初めて、向き合った感覚だけは、確かにあった。
運び屋が、立ち上がる。
「……戻るか」
「ここ、冷える」
僕は、深く息を吸った。
「……はい」
フェッロ像の影の中で、
ゆっくりと、立ち上がる。
運び屋の背中に乗せられ
静かに、寝床へ運ばれていく。
広場には、
石像と、風の音だけが残っていた。
レイヴァ族は翼を伏せ、
静かに地に留まっている。
そこへ女フェッロがやってきて、
ベンチに腰を下ろした。
「将の話、聞いてきたわ」
「……まあ、想像通りだったけどね」
レイヴァは、
小さく息を吐く。
「せやろなぁ……」
少し考えてから、
穏やかに続ける。
「あの子な、かなり内に溜めるタイプや」
「平気な顔してても、胸の奥でずっと我慢しとる」
女フェッロは、肩をすくめて。
「じゃあさ」
「今までみたいに、あんまり構わない方がいいの?」
からかうような、軽い口調。
レイヴァは首を振った。
「逆やわ」
「放っとく方が、ようない」
「話しかけて、絡んで、
しょーもない事でもええから関わったり」
女フェッロは、
石像を見たまま、少し声を落とす。
「……あの子、これからもっと辛い場面に行くって」
「将も、そう言ってた」
レイヴァは、ゆっくり頷く。
「せやろな」
「せやからや」
「その時は、話聞いたったらええ」
「泣いても怒っても、受け止めたらええ」
一拍置いて、
「オトナなんやからな」
女フェッロは、
小さく息を吐いて、苦笑する。
「……そうね」
「そういう役目、回ってくるわよね」
風が吹き、
像の影が静かに揺れた。
つづく




