濁将
第五十一話
濁将
海面が、
盛り上がった。
波ではない。
押し上げられるように、
粘度のある水そのものが形を作っていく。
胴体。
腕。
脚。
人の形。
最後まで残っていた“顔”が、
内側から引き寄せられ、
ゆっくりと出来上がる。
歪んだ輪郭。
締まりのない口元。
そこでようやく、声が落ちた。
《改めまして》
船上に、意味の分からない音が響く。
《我は、魔族四将の一人》
一拍。
《――濁将でございます》
シェリスが、ライム色の飲み物を口に運びながら、
きょとんとした顔で首を傾げた。
「……今の、名乗った?」
リラは槍を構えたまま、
ただ圧を測っている。
オリヴェットは無言。
弓を引く気配だけが、静かに張りつめる。
フィロだけが、
その言葉の意味を理解していた。
「四将……だと?」
共通語。
低く、短く。
それだけで十分だった。
空気が変わる。
リラが一歩、前に出る。
オリヴェットの弓が、完全に引き絞られる。
――理解させすぎない。
――悟らせない。
フィロは、あくまで“察した”動きだけを取る。
《無駄な抵抗は、おやめください》
フィロだけが、目を細める。
《これ以上の損耗は、望んでおりませんので》
粘液の身体が、わずかに揺れる。
《と言いますか……》
一瞬、言葉が詰まった。
《この辺り、仲の良い者も居りまして》
《普通に、やめていただけると……大変、助かります》
その声音は、妙に丁寧だ。
《ですので》
間。
《私の分身が、直々にお相手いたしましょう》
――分身。
海が、割れた。
真下から引き裂かれるように、
水面が左右へ押し退けられていく。
だが、船は落ちない。
光の球が、
いつの間にか船全体を包み込み、
浮かび上がったまま、空中で静止していた。
軋みもない。
傾きもない。
ただ、
“そこに在る”。
《なるほど》
濁将の声が、波間に溶ける。
《ここまで戦える者が揃っていては、この程度では倒せませんか》
海面に立つその姿が、
指先をわずかに持ち上げた。
《では――こちらは、いかがでしょう》
空が、歪む。
船を中心に、
円を描くように、
巨大な津波が立ち上がった。
囲う。
包む。
逃げ場を塞ぐ。
その瞬間――
白い閃光。
フィロが踏み出し、
水面を蹴り、
光の剣で濁将の身体を両断した。
一刀。
だが、
切り裂かれたはずの身体は、
崩れず、
分かれた。
二つに。
《そのような攻撃では》
二体の濁将が、
同時に口を開く。
《ただ、あなた方が不利になるだけですよ》
《では、改めまして》
《――海中で、踊っていただきましょう》
津波が、落ちる。
だが――
船は、揺れただけだった。
大きく、
激しく、
だが、壊れない。
光の球は歪まず、
軋まず、
耐え切る。
《……これも》
濁将の声が、わずかに間延びする。
《駄目でしたか》
《ならば》
海面が、沸騰する。
分身が、増える。
十。
二十。
数え切れない。
水しぶきが、
鋭く尖り、
無数の槍となって、
船へ切っ先を向ける。
《これならば――》
「――うぜええええええええ!」
シェリスの叫びが、
濁将の言葉を喰い潰した。
「こちとら眺めてるだけでいいんだよ!」
「いちいち! こっちに! ちょっかい! かけてくんな!」
「ほんっとうぜえぞ! おまえ!」
リラが一歩、近づく。
宥めるために。
止めるために。
だが――
その刹那。
光が、広がった。
背から。
翼。
禍々しく、
神々しく、
空を覆い、
島影すら呑み込むほどの、
光の羽根。
視界が、
光で埋まる。
《……これは》
濁将の声が、初めて揺れた。
「さっさと消え去れよ」
低く。
「ゴミ」
翼から、
光の触手が放たれる。
一本。
十本。
百。
分身に、突き刺さる。
《分身を叩いたところで意味がないと――》
言葉が、途切れた。
分身が、
しぼむ。
一体、また一体。
水に還ることすら許されず、
光に溶けて、消えていく。
《……これは》
濁将の声が、静かになる。
《魔力そのものを、吸収している……?》
間。
そして、
《……これは》
《無理ですね》
丁寧に。
はっきりと。
《盛り上がったところ失礼かとは存じますが》
《到底、敵いそうもありませんので》
《ここは一度――失礼いたします》
存在感が、薄れる。
魔力が、引いていく。
海が、
元の高さに戻る。
波が、
穏やかになる。
そこにはもう、
濁りも、
敵意もなかった。
ただ、
静かな海だけが残っていた。
つづく




