潮の向う側
第三十七話
潮の向う側
その頃――
風の向こう側では、
別の仕事が、静かに進んでいた。
集落は、
谷を一つ挟んだ先にあった。
煙は見えない。
灯りもない。
それでも、
生き物の気配だけが、
低く、濁ったように溜まっている。
フィロは足を止めた。
視線を動かさず、
隣に立つ影へ、短く言う。
「オリヴェット。」
オリヴェットは頷き、
そのまま地を蹴る。
羽音は残らない。
木々の影に溶けるように、姿が消えた。
待つ間、 誰も口を開かない。
シェリスは、 オリヴェットが置いていった簡易の背当てに腰を下ろし、
脚をぶらつかせる。
落ち着きはない。
だが、油断もない。
爪先が、
いつでも跳ねられる角度で止まっている。
リラは盾を下ろし、
背から槍を抜いた。
石突きを地に軽く当て、
持ち替える。
呼吸が、わずかに変わる。
風の向き。
土の匂い。
遠くで、何かが擦れる音。
やがて――
戻ってきた。
オリヴェットは、
フィロの前で立ち止まり、
首を縦に振る。
それ以上はない。
フィロは一瞬だけ目を閉じ、
小さく息を吐いた。
「問題ない」
それは報告ではなく、判断だった。
「ここで待機する」
命令でも、確認でもない。
決定だった。
シェリスは背当てから降り、
軽く伸びをする。
リラは槍を握り直し、
視線を集落へ向けたまま動かない。
集落は、
まだ気づいていない。
新大陸に足を踏み入れた日のことだ。
港は、
騒がしくはあったが、活気というより“せわしなさ”が勝っていた。
荷を下ろす者。
叫ぶ者。
怒鳴られる者。
誰もが急いでいるのに、
どこか滞っている。
「うわ、臭っ」
船を降りるなり、 シェリスが鼻をつまむ。
「魚! 油! あとこれ、絶対腐ってんだろ!」
「あまり騒ぐな。」
フィロは即答だった。
「ここは港だ。臭いの一つや二つある。」
「二つじゃねえよ! 三つはある!」
シェリスが食い下がるが、
フィロはすでに視線を前へ向けている。
港の奥、
宿屋の前で人だかりができていた。
壊れた馬車が二台。
車輪は歪み、
荷台は引き裂かれたように砕けている。
その脇で、
数人の男が地面に座り込んでいた。
包帯。
血の染み。
呻き声。
リラが、息をのむ。
「……襲撃、ですね」
「だろうな」
フィロは頷き、
そのまま歩き出した。
「お、おい! 話聞く前に飯! 飯だろ!」
シェリスが叫ぶ。
次の瞬間、
視界が浮いた。
「お?」
オリヴェットが、
シェリスの脇を抱え、
軽々と持ち上げていた。
足が宙を蹴る。
「おい! 降ろせ! このバカぢからがっ!」
オリヴェットは何も言わない。
ただ、
動かない。
シェリスは腕をばたつかせたが、
無駄だった。
「……オリヴェット頼んだ。」
フィロが小さく言う。
フィロとリラは、
宿屋の前で話を聞いていた。
「魔族です」
怪我人の一人が、
唇を噛みながら言う。
「ここ最近、よくやられる。
積荷だけ狙ってくる」
「数は?」
「それなりに多い。
けど、速い。
それと……強い」
フィロは、
壊れた馬車を一瞥した。
「この辺りの護衛は?」
「薄い。
本国に要請は出してるが……」
男は首を振る。
「間に合わないでしょう」
物流は止められない。
だが、守る手は足りない。
沈黙が落ちる。
フィロは、
その沈黙を破った。
「請けよう」
男が目を見開く。
「……本気ですか?」
「状況は理解した」
淡々とした声だった。
「被害が続けば、街は先に死ぬ。
増援を待つ間、穴を塞ぐ者が要る」
リラが、 一瞬フィロを見る。 そして、頷いた。
「私たちで、対応できます」
背後で、 シェリスが叫ぶ。
「はぁ!? まだ飯も食ってねえのに!?」
オリヴェットに抱えられたまま、
じたばたする。
フィロは振り返らない。
「後で食わせる」
「ふざけんな!」
誰も聞かなかった。
だが、 誰も迷ってもいなかった。
こうして、 ARKは新大陸で仕事を続けている。
それが、
数刻後の“待機”へと、
つながっていく。
つづく




