風に乗る
第二十六話
風に乗る
目を覚ましてから、
いくつかの夜が過ぎた。
倒れていたあいだに、
砦は、また少しだけ形を変えていた。
井戸の縁には、新しい石が組まれている。
以前は歪んでいた輪郭が、今は水面を正しく囲んでいた。
水を汲む者の手つきも、
どこか慣れている。
干し肉は、
風の通り道を選んで吊るされていた。
塩の加減を間違えたものは、
次の日には外され、
漬け直されている。
壁際の一角には、
小さな畑ができていた。
石を除け、
土を均し、
まだ頼りない芽が並んでいる。
どれも、
僕が直接やったことじゃない。
文字を読んだ。
図を見せた。
言葉にした。
それだけだ。
あとは、
皆が覚え、
皆が続けた。
砦は、
僕がいなくても回る。
それが、
少しだけ寂しくて、
少しだけ、誇らしかった。
広場に向かうと、
もう影はあった。
翼を畳んで、
風の流れを読んでいる。
運び屋だ。
気づいたのか、
首だけをこちらに向けた。
「来たか」
それだけ。
僕は、
うなずく。
「……約束だから」
運び屋は、
ふっと息を吐いた。
強引な笑い方だった。
「だろ。
じゃなきゃ、待たねえ」
その声を合図にしたみたいに、
人が集まってくる。
守護者。
主任。
外壁を直したときにいたネム族。
干し肉を吊るしていた者。
そして――
ハク族の親子。
母親の足元で、
小さな影が揺れる。
あの日生まれた命が、
もう、よちよちと歩いている。
僕を見ると、
短く鳴いた。
近づいてきて、
足元に鼻先を寄せる。
撫でると、
温かかった。
母親が、
静かに頭を下げる。
言葉は、少ない。
それでも、
ちゃんと伝わった。
守護者が、一歩前に出る。
「待て」
低い声。
運び屋が肩をすくめる。
「何だよ。
今さら止める気か?」
守護者は答えず、
主任を見る。
主任は、
一度だけ息を整えた。
それから、
僕に向き直る。
「あなたには、
まだ渡していないものがあるわ」
広場が、
静まる。
「ここに来たとき、
あなたには“役割”がなかった」
責める声じゃない。
確認する声でもない。
事実を、
丁寧に置く声。
「でも、
あなたがいたから、
繋がったものがある」
水。
食べ物。
知識。
命。
「だから、
皆で考えたの」
主任は、
周囲を一度だけ見回した。
守護者も、
ネム族も、
ハク族も、
黙っている。
「あなたの役割は――」
一拍。
「繋ぎ手」
その言葉は、
静かに落ちた。
でも、
確かに重かった。
僕は、
すぐに返事ができなかった。
繋いだ覚えなんて、
なかったから。
ただ、
文字を読んだだけだ。
主任は、
そんな僕を見て、
少しだけ柔らかく笑う。
「自覚はいらないわ。
役割って、そういうものよ」
守護者が、
短く言う。
「行け。
外を見ろ」
「戻る場所は、
ここにある」
運び屋が、
翼を広げた。
風が、
広場を抜ける。
「ほら。
背中、貸すぞ」
強引な声。
でも、
逃げ道は残していない声。
僕は、
一度だけ、砦を見た。
外壁。
井戸。
畑。
人と、
魔族と、
生き延びたものたち。
そして、
生まれたもの。
深く、
息を吸う。
「……行ってきます」
誰かが、
何かを言ったかもしれない。
でも、
風がすべて攫っていった。
翼が、
大きく打たれる。
風が、
一気に持ち上がる。
運び屋は、
前を向いたまま言った。
「落ちるなよ」
一拍。
「……しっかり掴まってろ」
少しだけ、声が軽くなる。
「繋ぎ手」
その呼び名が、
風の中に溶ける。
砦が、
遠ざかる。
世界が、
広がる。
僕は、
何も答えなかった。
ただ――
背中に、しがみついた。
つづく




