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まどろむ風の中で

第二十五話

まどろむ風の中で


気づいたとき、

天井が違っていた。


石の色が、柔らかい。


鼻先に、

温かい匂いが触れた。


「……」


声を出そうとして、

喉がひりついた。


視線を下げる。


そこに、

小さな影があった。


ハク族の赤子。


まだ丸い体で、

よちよちと不安定な足取り。


僕の服の端に、

鼻先を押し付けている。


温かい。


ただ、それだけで、

胸の苦しさが少し引いた。


少し離れた場所に、

母親がいた。


座ったまま、

こちらを見ている。


警戒でも、

不安でもない。


静かな目。


「……目、覚めたのね」


主任の声だった。


近くの壁際に立っている。


「少し、無理をしたみたい」


責める調子はない。


「外の話を聞いたあとだったわ」


僕は、

何も答えなかった。


答えられなかった。


赤子が、

小さく鳴いた。


母親が、

それを見て、

ほんの少しだけ目を細める。


「この子、あなたのそばにいたがるの」


主任が言う。


「理由は、分からないけど」


赤子が、

僕の指先に触れた。


柔らかい。


生きている。


その感触が、

胸の奥で、何かをつなぎ止めた。


――まだ、終わっていない。


そう思えたのは、

たぶん、その温度のおかげだった。


僕は、

天井を見上げたまま、

ゆっくり息を吸った。


今度は、

ちゃんと吸えた。


外は、

静かだった。


でも、

ここには、

確かに命があった。


それだけで、

今は十分だった。


赤子は、

しばらく指先を嗅いでから、

満足したように母親のほうへ戻っていった。


小さな背中。

よちよちとした歩き。


――生まれた。


それだけで、

奇跡みたいなものだ。


僕は、

ゆっくり上体を起こした。


頭はまだ重いが、

意識ははっきりしている。


「……起きていい?」


誰にともなく、そう言った。


主任は一瞬考えてから、

小さくうなずいた。


「歩くのは、まだよ」


その言葉に従い、

壁に背を預ける。


そのとき、

影が一つ、近づいてきた。


天井の高い場所から降りてきた、

羽音の気配。


運び屋だった。


「目、覚めたか」


声は低く、

いつもより少しだけ静かだ。


僕は、

うなずいた。


「……さっきの話」


運び屋は、

赤子と母親のほうを一瞥し、

それから視線を戻した。


「聞いてたな」


否定はしない。


「上から見ると、分かる」


運び屋は言う。


「ここに来る途中、

 生きてる集落より、

 焼けた跡のほうが多い」


言葉は淡々としている。


だが、

その“数え方”が残酷だった。


「逃げたやつもいる」

「隠れたやつもいる」


一拍。


「……でもな」


運び屋は、

僕をまっすぐ見た。


「生まれなかったやつは、

 空からでも、見えない」


その一言で、

胸の奥が、きしんだ。


「生き延びる場所がなくて」

「逃げる前に、終わって」


運び屋は、

拳を握ったりはしない。


怒りも、嘆きもない。


「数にもならない」


それが、

一番重かった。


僕は、

自分の手を見る。


さっきまで、

そこに赤子の温度があった。


「……砦は、守られてる」


運び屋が言う。


「守護者がいる」

「主任もいる」

「知識も、根づき始めてる」


それは、

肯定だった。


「だから、

 ここは、しばらく大丈夫だ」


僕は、

顔を上げた。


運び屋は、

その先を言わない。


ただ、

視線を外へ向ける。


壁の向こう。

空の向こう。


「外は、違う」


その言葉だけで、

十分だった。


赤子が、

小さく鳴いた。


母親が、

やさしく喉を鳴らす。


守られた命。


今、ここにあるもの。


僕は、

胸の奥で、

まだ言葉にならない何かが

ゆっくり動き出すのを感じていた。


「俺が見てきた世界を、

お前も見ろ」


僕は、何も答えなかった。


それは、決意ではない。


使命でもない。


ただ――

知ってしまった者の視線だった。


外を、

見てしまった者の。

つづく

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