根づくもの
第二十三話
根づくもの
砦の朝は、以前と変わらない音から始まる。
石を運ぶ音。
水を汲む音。
どこかで、獣の鳴き声。
それでも――
確かに、少しだけ違っていた。
外壁の一角で、ネム族たちが集まっていた。
崩れかけていた場所ではない。
すでに直した、その“続きを”やっている。
「……この向きだった」
誰かが、石を持ち替える。
昨日、図を見ながら組んだ角度。
それを、覚えている。
別の個体が、何も言わずに位置を合わせる。
修正は少ない。
迷いもない。
僕は、少し離れた場所で、その様子を見ていた。
本は、開いていない。
紙も、広げていない。
それでも作業は進む。
――覚えている。
それが、分かった。
「……そろそろ、体を動かしなさい」
背後から、声が落ちてくる。
振り向くと、主任がいた。
腕を組み、僕を見下ろしている。
「ここ数日、書庫に入り浸りよ」
「目の下、少し落ちてる」
言い方は淡々としている。
でも、責める調子じゃない。
「必要なのは分かるわ」
「知識が役に立つことも、もう皆、知ってる」
主任は、外壁の方へ視線を向けた。
「だからこそよ」
「今は、見ているだけでいい」
「動いている場所に、立ちなさい」
「覚えるのは、文字だけじゃないわ」
僕は、何も言えなかった。
反論する理由も、否定する気もない。
ただ――
言われて、初めて気づいた。
ずっと、同じ姿勢だったことに。
「……分かりました」
そう答えると、主任は小さく頷いた。
「無理は、させない」
「でも、止まり続けるのも違う」
それだけ言って、歩き去る。
残された僕は、砦の中を歩いた。
外壁。
広場。
水場。
どこでも、同じ光景がある。
誰かが、誰かに教えている。
言葉だったり、身振りだったり。
図を描く個体もいる。
文字がなくても、伝えようとしている。
――もう、全部を引き出さなくてもいい。
そんな感覚が、胸の奥に残った。
そのときだった。
足元で、気配が動く。
よちよちとした足取り。
低い位置からの視線。
ハク族の赤子だった。
昨日より、少しだけ動きが安定している。
それでもまだ、危なっかしい。
僕の靴先に鼻先を押しつけ、
くん、と短く鳴いた。
「……」
どうすればいいのか、分からない。
視線を上げると、少し離れた場所に母体がいた。
ハク族の母体。
こちらを見ている。
だが、何も言わない。
止めもしない。
赤子が、もう一歩近づく。
小さな体が、僕の影に入る。
僕は――
ほんの一瞬、迷ってから。
そっと、手を伸ばした。
撫でる、というほどでもない。
確かめるように、頭の毛並みに触れるだけ。
温かい。
思ったより、しっかりしている。
赤子は、きょとんとしたまま、
鼻先を僕の指に押しつけた。
それだけだった。
僕は、すぐに手を引っ込めた。
何も言わない。
何も、していない。
ただ、触れただけだ。
「……この子は、覚えてる」
静かな声がした。
ハク族の母体だった。
「あなたの匂いを」
それだけ言って、赤子を呼ぶ。
赤子は、素直に母のもとへ戻っていった。
去り際、
一言だけ、落とされる。
「……あんたが、ここにいてくれてよかった」
それ以上は、ない。
僕は、その場に立ち尽くした。
胸の奥で、
何かが、ゆっくり沈んでいく。
重いわけじゃない。
熱いわけでもない。
ただ、確かにそこにある感触。
僕は、砦を見渡した。
動いている。
覚えている。
続いていく。
僕がいなくても。
――まだ、外には行けない。
でも、
いつか、行くことになる。
そんな予感だけが、
静かに残っていた。
つづく




