潮に乗る
第二十二話
潮に乗る
港町は、
静かだった。
焼け落ちた家屋は修復され、
砕けた風車も組み直されている。
二度と壊れないと誓うように、
というより――
壊される理由が、
もうこの町には残っていないという顔だった。
港は動いている。
荷は積まれ、
船は出入りし、
人は行き交う。
魔族に怯える気配はない。
それが、
この町が「終わった」証だった。
「なあ、あれ何だ?」
通りの一角で、
シェリスが足を止めた。
蜜の匂いが、
風に混じっている。
棒に絡んだ黄金色の菓子。
照り返しに、
彼女の目が輝く。
次の瞬間、
手が伸びた。
「――」
声が上がる前に、
机の上に硬貨が置かれる。
「失礼した」
短く、低い声。
フィロは視線を上げず、
商人の前に立っていた。
商人は一瞬だけ口を開き、
硬貨を見て、
何も言わずに引っ込める。
その間、
シェリスの手首は、
静かに掴まれていた。
「次はない」
囁くような声。
逃げ道のない距離。
「次は――
牢の中で考えることになる」
シェリスは、
蜜の棒菓子を雑に掴んだまま、
べたつく指を見て舌を出す。
「ちぇ……」
フィロは手を離し、
そのまま歩き出した。
港町の情報は、
表に出ているものだけでは足りない。
二人が向かったのは、
荷役の合間に人が集まる食堂と、
昼間から酒を出す店だった。
船乗りは多くを知っている。
だが、
語るのは“確かな話”だけだ。
「この辺りの海は、静かだ」
「向こう岸は、
最近きな臭い」
「島伝いに行けば、
寄れる港はあるが……
あまり長居はするな」
どれも断片的で、
曖昧だ。
だが、
それで十分だった。
フィロは、
話を遮らない。
肯定も、
否定も、
しない。
ただ、
覚える。
その横で、
シェリスは落ち着きがない。
置かれた杯を勝手に嗅ぎ、
干してある網に指を突っ込み、
知らない言葉に首を傾げる。
そのたびに、
フィロの視線が飛ぶ。
「触るな」
「戻せ」
「離れろ」
短い言葉だけで、
行動を制限する。
それでも、
完全には止まらない。
「なあ」
「この町、もう終わりなんだろ?」
突然、
シェリスが言った。
「魔族、いねえし」
フィロは、
少しだけ考えてから答える。
「終わった、ではない」
「追う必要が、なくなっただけだ」
その言葉に、
店の隅で飲んでいた男が、
小さく頷いた。
「その通りだ」
「ここは、
もう“残り物”しか流れてこない」
「本命は、
海の向こうだ」
港は、
世界と繋がっている。
船が集まり、
人が集まり、
情報が集まる。
だからこそ、
ここにいる。
フィロの視線は、
自然と海へ向いた。
水平線の向こう。
霧の奥。
魔族がいるなら、
そこにもいる。
それは、
最初から分かっていた。
「で、次どこ行くんだ?」
シェリスが欠伸をする。
「戻る」
「リラたちと合流だ」
「船の話も、
向こうが集めている」
シェリスは、
不満そうに口を尖らせた。
「つまんねー」
「帰ったら、
またロブスター頼め」
フィロは、
歩きながら答える。
「仕事次第だな」
小さく、
笑ったようにも見えた。
港町は、
変わらず動いている。
だが――
彼女たちはもう、
この場所を見る必要がなかった。
視線は、
すでに海の向こうにある。
港の一角、
人の流れから少し外れた場所に、
一隻の船が停泊していた。
大きくはない。
だが、
波を越えるための形をしている。
船首の影で、
リラが荷を抱えて立っていた。
縄を肩にかけ、
木箱を持ち上げる。
それだけで、
周囲の視線が集まる体格だ。
「……重くないんですか?」
船員の一人が、
半ば本気で尋ねる。
リラは、
少し困ったように笑った。
「えっと……
いつも、こんな感じなので」
その返答に、
船員は何も言えなくなる。
船の脇では、
オリヴェットが静かに動いていた。
言葉はない。
ただ、
船底。
帆柱。
甲板の継ぎ目。
視線だけで、
一通りを確認している。
船員が釘を打つ手を止めると、
その動きも止まる。
何かを言われたわけではない。
だが、
促されているのは分かる。
作業が再開される。
それを、
オリヴェットは最後まで見届け、
一歩下がった。
問題なし。
そこへ、
二つの足音が近づいた。
フィロと、
シェリス。
リラが顔を上げる。
「あ、戻りましたか」
「どうだ?」
フィロが短く問う。
「船は、使えます」
「急ぎの航路にも、対応できるそうです」
「……ただ」
一瞬、
言葉を選ぶ。
「海の向こうは、
噂が多くて」
フィロは頷いた。
「こちらも、同じだ」
そう言って、
シェリスを見る。
「お前は?」
「船員が、
酒の席でいろいろ喋ってた」
「島伝いに、
嫌な話が増えてるってよ」
言い方は雑だが、
中身は的確だった。
オリヴェットが、
船を一瞥する。
問題ない。
フィロは、
一つ息を吐いた。
「……決まりだな」
船員に合図を送る。
荷が積まれ、
縄が外される。
港の喧騒が、
少しだけ遠ざかった。
シェリスが、
甲板の縁に腰をかける。
「なあ」
「また、
山越えか?」
フィロは、
海を見る。
「今回は、
越えるのは海だ」
「その先にも、
仕事がある」
シェリスは、
一瞬だけ黙り、
それから笑った。
「ま、
暇よりマシだな」
リラが、
少し緊張した声で言う。
「……本当に、
向こうに行くんですね」
「行く」
迷いはない。
オリヴェットは、
すでに船の中央に立っていた。
逃げ場。
視界。
動線。
すべて、
自然に収まっている。
船が、
ゆっくりと岸を離れる。
港町は、
すぐに背後になる。
守るべき場所ではない。
戻る理由もない。
視線は、
前へ。
海の向こうへ。
彼女たちは、
まだ知らない。
同じ夜、
別の場所で――
別の火が灯っていることを。
つづく




