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地図の外側

第二十話

地図の外側


外壁の作業が終わった夜は、いつもより静かだった。

疲れが骨に残っているのに、胸の奥だけが妙に冴えている。


焚き火の匂い。

石が冷える音。

誰かの寝息。


砦は、安定している。

――少なくとも、内側は。


主任に呼ばれたのは、夜が深くなる前だった。

広場の端。火が届かない、影の濃い場所。

そこに倒木が一本、ベンチみたいに横たわっている。


すでに二人がいた。


主任。

そして、守護者。


守護者は外壁のほうを背にして座っていた。

背筋は伸びているのに、肩の力だけは抜けている。

石像みたいに動かないのに――目だけは起きている。


僕が近づくと、守護者はちらりと視線を寄越した。


「来たな」


それだけ。


主任は、いつもの調子で僕の隣の空きを示した。

「ここ。座って」


僕は腰を下ろす。

背中が冷たい。倒木の湿った匂いが服に移る。


少しの間、火のはぜる音だけが続いた。


この沈黙は、責める沈黙じゃない。

――“仕事の前の間”だ。


先に口を開いたのは主任だった。


「今日の外壁。よく持たせたわ」


褒めているわけじゃない。

業務報告の言い方だった。


僕は小さく頷く。

返事を探しているうちに、守護者がふっと息を吐いた。


「……この砦、最近は迷い人が来ねえ」


主任が頷く。

「そうね。あなたが来てから、特に」


僕の背中が少し硬くなる。

僕が来たせい、とは言われていないのに。


守護者は僕を見ず、火を見て言った。


「良いことだ。……ここが落ち着く」


一拍置いて、彼は続ける。


「悪いことでもある」


主任が目を細める。

「外が、静かすぎる」


守護者は肩をすくめた。

重くなりすぎない、やり方で。


「静かな場所は、誰も逃げ込まねえ。逃げ込めねえ。……そういうことだ」


主任は頷いた。言葉を足さない。

この砦で“受け入れ”をやっている彼女が、知らないはずがなかった。


火がはぜる。

その音で、僕は息を吐いた。


守護者が、ようやく僕のほうを見た。


「お前の話だ」


僕の喉が乾く。


主任が促すように言う。

「今さら取り繕わなくていい。聞きたいのは――あなたが“読める”ことじゃないわ」


僕の胸がきゅっと縮む。

それでも、否定できない。


守護者は、僕の肩掛けの紐に視線を落とした。

そこから先は見ない。触れもしない。

ただ、確信だけで言う。


「……その袋」


僕は反射で抱え直しそうになって、止めた。

癖が出る。


守護者は笑った。ほんの少し。


「大事にしてる。ここにある紙束より、ずっと」


主任の目が動く。

僕の懐。僕の手。僕の癖。


僕は口を開く。でも、言葉が出ない。


守護者は責めない声で言った。

「出せ、とは言わねえ。……だが」


一拍。


「何を抱えてるかは、知っておきたい」


主任も頷く。

「あなたが“知”を引き出すなら、その核が何かは大事よ。砦のためにも」


砦のため。

その言い方に、僕は少し救われた。個人を責められていない。


僕は、ゆっくり袋の口に指を入れた。

躊躇はあった。

けれど、二人は待っている。急かさない。


出てきたのは、革で綴じられた一冊だった。

角が潰れ、背は汗と雨で黒ずんでいる。

何度も開いて、何度も閉じた跡。


守護者が眉を上げる。


「……それが、お前の一番か」


僕は頷いた。


「人の文字です。……物語です」


主任が小さく瞬きをした。

「物語」


「……戦いの物語です」

僕は言ってしまってから、胸が痛くなった。


守護者は笑うでもなく、軽く首を傾げた。

「へえ。娯楽か」


僕は首を振る。


「娯楽じゃない。……僕には」


言葉が途切れた。

続ければ、重くなる。

重くしていい場面じゃない。


主任が、柔らかく続きを拾ってくれた。

「あなたが“ここまで持ってきた”理由があるのね」


僕は頷いた。


「弱い者が、強い者を倒す話です」

喉の奥が熱くなる。

「力じゃなくて……知恵で」


守護者がふっと息を吐いた。

どこか呆れたように、でも笑ってはいない。


「……いい趣味だ」


それだけ。


主任が少しだけ前のめりになる。

「その本が、あなたを動かしたの?」


僕はうまく頷けなかった。


動かした。

救った。

そして――


「……勝てたことがありました」


自分の声が、思ったより小さかった。


「けど、負けました」


主任は黙った。

守護者も黙った。


僕は言葉を足す。


「知識があっても……負ける時は負ける」


胸の奥に沈んでいたものが、少しだけ浮いた。

名前は出さない。

でも、死んだ者たちはそこにいる。


守護者が、ようやく口を開いた。


「敗北の味なら知ってるさ」


軽口みたいに言って、でも目は笑っていない。

守護者は肩をすくめ、続ける。


「勝ち続けた奴は、砦に座らねえ」


その一言で、僕の背中の力が抜けた。

――この人も、負けている。

それが、慰めじゃなく“事実”として落ちてきた。


主任が、少しだけ息を吐いた。

「だからこそ、話をしたいのよ」


守護者は火を見たまま言った。

「知識は、砦を守る。今日それを見た」


主任が頷く。

「外壁は“仕事”だった。生き延びるための、ね」


守護者はそこから視線を上げた。

暗い空。砦の縁。外。


「だが――砦だけが世界じゃねえ」


僕の心臓が跳ねる。


主任が続ける。

「ここは安定してる。守護者がいるから。運び屋が空を回ってるから。遠くを見る者もいる」


「でも、外は違う」

主任の声がほんの少し硬くなる。

「前線は、今も削られてる。日々、減ってる」


守護者が僕を見る。


「お前の“知”は、ここで終わらせるには惜しい」


僕は反射で首を振りかけた。

そんな大層なものじゃない。


でも、守護者は僕が否定する前に言う。


「勘違いするな。称賛じゃねえ」


一拍。


「配置の話だ」


主任が頷く。

「あなたは“戦う者”じゃない。けど、“戦う者を変える者”になれる」


僕の喉が鳴る。


守護者は、軽い調子で言った。

「……前に出ろ、ってことじゃない」


主任が続ける。

「あなたが前に出る必要はない。むしろ、出ないで」


「ただ」

守護者が言う。

「必要なところへ、運ぶ」


運ぶ。

その言葉が、空の影を連れてくる。


僕は反射で砦の上を見た。

そこに運び屋がいる気がした。


主任は最後に言った。

「答えは今いらない。今日は休みなさい」


守護者も頷く。

「腹が減ったら食え。眠けりゃ寝ろ。……それが残るやつの流儀だ」


僕は、頷くしかなかった。


革の本を、袋に戻す。

戻す手が、少しだけ確かだった。


火が静かに落ちる。


主任が立ち上がる。

「今日はここまで。守護者、あなたは――」


「見張りは俺の仕事だ」

守護者が軽く言った。


主任は小さく笑って、去っていく。


僕も立ち上がった。

どこへ行けばいいのか、分からないのに。


守護者は、火を見たまま言った。


「……急がせるつもりはねえ」


その声は、先ほどより少しだけ低い。


「ここに残るのも、一つの答えだ。

砦は今、落ち着いてる。

お前の“知”があれば、なおさらだ」


主任が、静かに頷く。


「私たちは、追い出したいわけじゃない。

むしろ――できるなら、ここにいてほしい」


その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。


守護者は続ける。


「だがな。

砦の外で、同じ“崩れ”が起きてる場所もある。

直せるかもしれねえ壁が、放置されてる場所もだ」


「だからまずは――」

主任が言葉を継ぐ。


「砦の中で、聞いてみましょう。

運び屋に。

遠くを見る者に。

どこで、何が起きているのか」


守護者が肩をすくめる。


「話を集めるだけだ。

決めるのは、その後でいい」


火が、ぱち、と鳴った。


「答えを急ぐ必要はない」

主任の声は、柔らかかった。


「あなたは、もう十分に働いた。

今は――考える時間を持って」


守護者は、最後に僕を見た。


「ここは砦だ。

残る場所でも、戻る場所でもある」


僕は、返事をしなかった。


できなかった。


革の本を、袋の奥で確かめる。

重みは変わらない。

でも、意味だけが増えていた。


砦は、安定している。


だからこそ――

外のことを、考えてしまう。


僕は静かに立ち上がり、

回廊の奥へと歩き出した。


答えは、

まだ、ここにはない。

つづく

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