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文字の届くところ

第十九話

文字の届くところ


外壁の崩れは、

音で知らされたわけではなかった。


最初に気づいたのは、

砦の外に伸びる影の形が、

昨日とわずかに違っていたことだった。


午前の光は高く、

空は澄んでいる。


それでも、

外壁の一角――

人が近づかなくなって久しい場所で、

石の積み方が、ずれていた。


「……また、落ちたか」


誰かが、そう言った。


責める調子でも、

驚く様子でもない。

確認するような声だった。


砦では、

外壁が少し崩れることは珍しくない。


長く放置されていた場所だ。

添え木を当て、

落ちそうな石を避けて通る。


それで、今までは足りていた。


けれど――

その日は違った。


僕は、

外壁の前で立ち止まった。


崩れたのは、

表面の石だけではない。


奥の組み方が、

歪んでいる。


崩れた先は外が見えている。

壁の役割を果たしていない。


本来、

重みを逃がすはずの石が、

互いを押し合っていた。


石は、

置かれているだけだった。


組まれてはいない。


気になった僕は

書庫に必要そうな文字を探しに行った。


僕が戻ってきた時には作業は、

自然と始まった。


誰かが崩れた石をどかし、

誰かが外に積み直す。


特別な号令はない。


ネム族が、

石を運ぶ。


一つ持ち上げるたびに、

息が上がる。


重い。

だが、持てない重さではない。


人が米袋を担ぐように、

慣れた動作で、

ただ時間がかかるだけだった。


ハク族が、

四足で瓦礫の隙間を抜け、

小さな破片を外へ運び出す。


シャル族は、

高所から全体を見ている。


落ちそうな石があれば、

短く音を立てて知らせる。


守護者は、

外壁の中央に立っていた。


石に触れ、

力を込める。


ぐらついていた壁が、

一瞬だけ動きを止める。


完全に直すわけではない。

崩れを、先延ばしにする。


それだけで、

作業は続けられる。


僕は、

一歩引いた位置にいた。


壁を直しているわけではない。

石を運んでもいない。


代わりに、

紙を広げていた。


書庫から持ち出した、

外壁補修の記録。


人間の文字。

人の手による走り書き。


挿絵に描かれた台。


僕は頁に視線を落とし、

そこに描かれた形を、

頭の中でなぞった。


それから、

広場を見渡す。


石の塊が、

目に入った。


平らに削られた台座。

角度のついた溝。

鉄の楔が、錆びたまま打ち込まれている。


僕は、

それを眺めるだけで、すぐには近づかなかった。


「……それ、何?」


声をかけてきたのは、

石を運んでいたネム族の一体だった。

息を整えながら、

それを指で示す。


「……使い方は、わからない」

僕は正直に答えた。


ネム族は少し驚いた顔をした。


「前から、ここにあるわ。

 座るのにちょうどいいから」


実際、

別のネム族がその端に腰を下ろし、

水袋を飲んでいる。


僕は、

もう一度、よく見た。


形が整いすぎている。

自然にできたものじゃない。


「……少し、待ってください」


それだけ言って、

僕は書庫から持ち出した紙束を開き、

その場で補修に関する頁を開いた。


図。

石の断面。

組み方。


……書いてある。


「石は、

 積む前に整えよ」


声に出して読んだ。


「形を揃えず積むは、

 崩落を早める」


喉が鳴る。


「整える場所として、

 石工台を用いよ」


――石工台。


「……これを」


僕は、

本を開いたまま、

台の上に広げる。


「ここに、書いてあります」


ネム族たちは、

文字ではなく、

図を覗き込んだ。


「……削ってる?」


「はい」

僕は、

頁を指でなぞる。


「積む前に、

 ここで形を整えるって」


ネム族は、

自分の腕を見る。


「持つのは、できる」


「……ええ」

僕はうなずいた。


「だから、

 運ぶだけじゃなくて……

 ここで、整えるみたいです」


しばらく、沈黙。


「……やったこと、ないわ」


「僕も、ありません」


それは嘘じゃない。


「書いてあるだけです」


ネム族は、

少し考えてから、

主任の方を見た。


その視線を追うように、

主任がこちらに来る。


僕は、

本を閉じなかった。


閉じられなかった。


主任は、

石工台と、

開かれた頁を一瞥する。


文字は読めない。

でも――

意味は、察した。


「……それで?」


主任の声は落ち着いていた。


僕は、

頁をめくる。


「石を積む前に、

 ここで整える、そうです」


「積み直すんじゃなくて……

 組み直す、みたいです」


主任は、

周囲を見回した。


石を運ぶ者。

休んでいる者。

守護者の位置。


「……使われていなかった理由は?」


「……たぶん」

僕は少し言葉を探す。


「文字が……伝わってなかったから、だと思います」


主任は、

一瞬だけ目を伏せた。


そして、

静かに言う。


「じゃあ、

 今から使うわ」


その声に、

ネム族たちが動き出す。


石が置かれる。

道具が集められる。


僕は、

一歩下がった。


本を、

胸に抱えたまま。


何も、していない。


ただ――

文字を、引き出しただけだ。


「……ここ、違う」


指でなぞる。


壁の角度。

石の向き。


「この段、

本当は内側に倒す」


声は、

大きくなかった。


聞こうとする者だけが、

拾う程度の音量。


ネム族の一体が、

近づいてくる。


「……それで、いいの?」


僕は、

すぐに答えなかった。


紙を見る。

壁を見る。


「……たぶん」


自信はない。


ただ、

書いてある。


「こうしないと、

水が溜まるって」


ネム族は、

一度、壁を見た。


それから、

別の個体に声をかける。


石が、

一つ動く。


組み直される。


完全ではない。

だが、

歪みは減った。


主任と守護者が、

並んで立っていた。


外壁を前に。


言葉は、聞こえない。


主任が、

外壁の一部を指す。


守護者が、

頷く。


それだけだった。


だが――

その直後、

動きが変わった。


戦える者も、

戦わない者も、

同じ場所に集まる。


石を運び、

支え、

並べ直す。


役割は違う。

力も違う。


それでも、

同じ壁を直している。


守るためでも、

守られるためでもない。


ここにいるために。


時間は、

静かに過ぎた。


崩れは止まり、

外壁は挿絵のように形を保った。


完璧ではない。

それでも、

以前よりは確かだった。


僕は、

紙を畳んだ。


何も、成し遂げていない。


石を運んだわけでも、

指揮を執ったわけでもない。


ただ――

文字を、読んだだけだ。


それでも、

壁は、

少しだけ、元の形に近づいた。


作業が終わると、

誰かが水を配り、

誰かが座り込む。


砦は、

またいつもの顔に戻った。


主任が、

僕のそばを通り過ぎる。


立ち止まり、

短く言った。


「……助かったわ。」


それだけだった。


理由は、語られない。


だが、

僕は分かった。


これは、

褒め言葉ではない。


仕事に対する、

一言だった。


僕は、

何も返さなかった。


ただ、

紙を握り直す。


その重みが、

少しだけ、変わった気がした。


外壁は、

今日もそこにある。


そして、

砦もまた、

そこに在り続けている。

つづく

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