灯りが消えなかった夜
第十七話
灯りが消えなかった夜
夜明け前、
砦の空気が、わずかにざわついた。
騒ぎではない。
怒号も、警戒の声もない。
ただ、
普段より足音が多く、
声が低く抑えられている。
僕は寝床から身を起こした。
眠気は残っていたが、
胸の奥が、静かに引っ張られるような感覚があった。
外に出ると、
砦の奥から声が聞こえた。
低く、
短く、
押し殺された声。
ひとつではない。
重なっている。
嫌な予感がして、
体を起こした。
ハク族の住まいは、
砦の中でも少し奥まった場所にあった。
四足の体に合わせ、
床は低く、天井も抑えられている。
中に入った瞬間、
空気の重さで状況は分かった。
母体は横たえられていた。
体を丸めることもできず、
首だけがわずかに傾いている。
呼吸は浅く、
胸の上下が小さい。
周囲には、
同族の個体と、ネム族が数体。
声をかけ、
背を撫で、
それでもどうしていいか分からず立ち尽くしている。
主任は、すでにそこにいた。
入口に立ち、
場を一度見渡してから、淡々と告げる。
「長いわ。
体力が、かなり削られてる」
それだけだった。
周囲の個体が、
鼻先を寄せ、
体を擦り、
短い声で励ましている。
「……がんばれ」
「もう少しだ」
言葉は少ない。
だが、そこに焦りが滲んでいた。
僕は、
その場に立ったまま動けずにいた。
頭の中に、
断片的な記憶がある。
でも――
それを、ここで使っていいのか分からなかった。
誰も、
僕を見ていなかった。
それが、
逆に背中を押した。
僕は、踵を返した。
書庫へ走る。
棚の間を抜ける。
灯りは少ない。
文字は、ほとんどが人のものだ。
覚え書き。
手記。
用途不明の断片。
探して、
探して、
見つからない。
焦りだけが募る。
そのとき、
背後に、やわらかな光が差した。
「……何を探しているの」
主任だった。
小さな灯りを掲げ、
棚の影をゆっくりとなぞっている。
「……出産の、覚え書きです。
獣の……四足の個体についての」
主任は、すぐには返事をしなかった。
灯りを少し高く掲げ、
棚全体を静かに照らす。
「……急いでいる顔ね」
一拍置いて、続ける。
「焦ると、文字は逃げるわ。
でも、時間がないなら――
私が明かりを持つ」
「あなたは、探しなさい。
見落とさないように」
その声は落ち着いていて、
命じるでも、促すでもない。
“役割を分けただけ”の口調だった。
その横で、
気配が近づく。
ハク族の一体が、
静かに鼻を鳴らしていた。
僕の腕。
胸元。
懐。
そこに鼻先を寄せ、
くん、と匂いを嗅ぐ。
そして、
いくつか並ぶ箱の前で足を止める。
「……ここ、もう見たか?」
低く、確かめるような声だった。
箱を開ける。
紙束。
荒い文字。
挿絵。
――これだ。
僕は、ようやく息を整え、
ページを開いた。
戻ったとき、
母体の表情から、
はっきりと力が抜けていた。
意識はある。
だが、
耐えるための力が残っていない。
僕は本を開いたまま、
主任の前に立つ。
僕は本を開いたまま、
主任の前に立つ。
言葉が、喉で止まる。
主任は、
一度だけ紙面に視線を落とし、
すぐに顔を上げた。
意味を追っている様子はない。
ただ、位置を確かめただけだ。
「……読むのね」
短く、そう言った。
僕は、息を整え、
開いた頁に視線を戻す。
「――呼吸が、乱れ始めたら、
間隔を空けて支える、と……」
声に出すと、
文字が現実の動きに変わっていく。
「力の強い個体は、
押さえすぎるな、とあります」
主任は、即座に視線を走らせた。
「あなた。
手が震えてないわね」
ネム族の一体を指す。
「あなたは、力が強すぎる。
後ろに下がって」
僕は、続きを読む。
「……落ち着いている個体を、
左右に。呼吸を合わせる、と」
「……そっち。
呼吸が安定してる。
ここ」
矢継ぎ早に、
場が動き始める。
僕は、
本を持ったまま一歩下がった。
何も、していない。
ただ、
書いてあることを、
声にしただけだ。
時間が、過ぎる。
やがて――
かすかな音。
弱く、
しかし確かな、声。
小さな体が、
震えながら、息を吸う。
ハク族の周囲に、
低い歓声が広がる。
主任が、
静かに息を吐いた。
「……よかったわ」
誰かが泣いた。
誰かが座り込んだ。
僕は、
本を閉じた。
自分が何をしたのか、
まだよく分からなかった。
その後、
書庫で読みかけのページを開いたまま、
僕は眠ってしまった。
気づいたときには、
柔らかい寝床の上だった。
主任が、
灯りを落としながら言う。
「今日は、ここまでね。
体も、頭も使いすぎてる」
扉が静かに閉まる。
棚の上に、
本が並んでいるのが見えた。
文字が、詰まっている。
まだ、
知らないことがある。
その感覚だけを胸に、
僕は目を閉じた。
つづく




