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文字に沈む

第十六話

文字に沈む


書庫は、静かだった。


石造りの砦の奥。

厚い壁と、低い天井。

それなのに、息が詰まる感じはしない。


埃の匂いはある。

けれど、それは長く閉じられた場所のものではなく、

何度も踏み込まれ、掃き清められ、

それでも完全には消えない――そんな匂いだった。


棚がある。

低い棚、高い棚。

木箱に放り込まれた紙束。

背表紙のない本。

紐でまとめられた冊子。


すべて、人間の文字だ。


胸の奥で、何かがひっくり返る。


考えるより先に、手が伸びていた。

紙に触れる。

指先で、文字をなぞる。


――読める。


当たり前のように、

ずっと前から知っていたみたいに、読めてしまう。


最初に手に取ったのは、物語だった。

力を持たない者が、知恵と仲間で強者を倒す話。

何度も読んだ構図。

懐に入れていた本と、よく似た話。


それでも、ページをめくる手は止まらなかった。


次の本。

その次。


戦の記録。

街道の作り方。

崩れた壁の直し方。

保存食の話。

病気の見分け方。

動物の出産に関する覚え書き。


知っていることもある。

知らないことの方が、圧倒的に多い。


時間が、少しずつ溶けていく。


背後で足音がしても、気づかなかった。


「……ここだと思った」


主任の声だった。


いつの間にか、足元に器が置かれている。

温かい匂い。

湯気が、ゆっくり立っていた。


「食事よ」


主任は、少しだけ棚のほうを見た。


「……珍しいわね。

 ここで、そんなふうに座り込むの」


僕は慌てて顔を上げる。


「……すみません」


「謝ることじゃないわ」


主任は棚を見回した。


「文字は分からないけど、

 多いってことだけは分かるでしょう」


頷く。


「ここは、使われてない場所。

 でも、捨てられてもいない。

 だから、掃除だけはするの」


その言い方が、妙に優しかった。


器を持ち、少しだけ食べる。

本を閉じる気にはなれず、

膝の上に置いたまま、またページを開く。


しばらくすると、

低い足音が増えた。


ハク族だった。


四足で歩く、狼に似た体。

何体かが通り過ぎ、

そのうちの一体が立ち止まる。


鼻先をこちらに向け、

本を見て、僕を見て、

首を傾げる。


「……それ、面白いか」


短い問い。


「……はい」


それだけで、ハク族は満足したらしい。

尾を軽く振り、

床に伏せて、目を閉じた。


書庫に、寝息が混じる。


主任はそれを見て、肩をすくめた。


「ここは、戦えない者が長くいる場所だから」


誰も追い立てない。

誰も急かさない。


そういう空気が、確かにあった。


僕はまた、本に戻る。


文字を追い、

知識を拾い、

意味をつなぐ。


視界が、少しずつ滲んできた。


文字が揺れる。

指先の感覚が鈍くなる。


それでも、ページを閉じられなかった。


次の瞬間、

視界が上下に揺れた。


主任の背中だった。


「……すみません」


「いいの」


主任は淡々と言う。


「ここで倒れる子は、あなただけじゃない」


書庫が遠ざかる。


本は、腕の中に残っていた。


「離さないのね」


「……はい」


主任はそれ以上、何も言わなかった。


寝床に下ろされ、

布がかけられる。


本を抱えたまま、

意識が沈んでいく。


ここでは、

眠っている間に、殺されない。


その事実が、

何よりも重く、確かだった。

つづく

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