三話
日も沈んだ頃に突然やってきた王女を、マナスヴァーミンは戸惑いながら迎えました。
自慢の黒髪も乱れて、慣れない靴で走ったせいでころんで服の裾も土で汚れています。
「こんなに焦るなんて君らしくもない。何かあったのかい。とりあえず上がって、大したものはないけど、お茶くらい出すよ」
シャシプラバーは、まっすぐ愛しい人のほうを見て言いました。
「いいえ、それには及びません。
……結婚が決まりました。もう会うことはできなさそうです。」
えっ、という短い驚きが、マナスヴァーミンの喉から漏れました。
「どういうことだい。」
「父が勝手に結婚相手を決めてしまったのです。いままでは一人で出かけることも許されていましたが、結婚が決まってからはそうはいかないでしょう。
お父様は面子を気にされるお方ですから。」
「そうか、さびしくなるね」
「お礼のこと、最後までできなくてすいません。」
「そんなこと、気にしなくても……」
王女は、好きなひとの手をとって、愛しそうに自分の頬にあてました。
若い娘のなめらかな肌から生温い体温が伝わってきます。
シャシプラバーは、マナスヴァーミンが今まで見た中で一番みすぼらしい格好でした。
いつも幾重にもつけて綺麗な音を鳴らしている腕輪もなく、服を飾る縫い付けられた鏡のかけらもありませんでした。
それでも、月下の流し目が今まで見てきたどんな宝石より輝いて、王女を美しく見せていました。
マナスヴァーミンはごくりと生唾を飲み込みました。
「私、あなたのことが好きでした。愛しています。ずっと一緒にいたいと、さらっていってはくれぬかと、どれほど願ったかしれません。
……もはや、それも叶わぬ夢ですが。」
返事を聞くのが怖くなって青年の手に指輪を握らせると、シャシプラバーは矢継ぎ早に言葉をかさねました。
それは、銀の指輪でした。あしらわれた飾りは月光石。
彼女の異名にちなんで、成人の祝いに父が作らせたものです。
「これは私の指輪です。持ち出せるなかでは、一番上等なものです。
どうかもらってください。
大事にしてくれとは言いません。売り払っても構いませんから」
マナスヴァーミンの返事も聞かずに、王女は足早に立ち去りました。
青年は少しの間追いかけもせず佇んでいましたが、しばらくすると、何かを決意したように、どこかへ向かいました。
※
青年が辿り着いたのは、ある酒場でした。店主に金を渡し、用を言うと地下の酒蔵に案内されます。
棚をずるりと動かせば、金銀宝石に、怪しい薬がたくさんの異空間が飛び出します。
その真ん中に、男が座っていました。
「ムーラデーヴァおじさん、元気してた?」
青年が声を掛けると、男は顔を上げました。
なんの特徴もないのが特徴ともいえる男でした。少し長めの荒れた黒髪に日焼けした浅黒い肌をしています。
こんな異様な空間にいるというのに、普通を保っているのが異常でした。
それに、歳の頃もよくわかりません。
超然とした雰囲気をまとってるわけというよりは、そんなことを気にさせない、というほうがあっていました。
あと、酒瓶を持っていました。顔も赤いし、息も臭い。上機嫌なのはいつものことですが、多分……いや、絶対に酔っ払っています。
男はヘラヘラと笑って、マナスヴァーミンに返しました。
「おう、マナス坊やじゃねえか、どうしたよこんな遅くに、家出なら宿は貸してやるぜ。」
「急ぎの用なんだ。ねえおじさん、お願いがあるんだ。」
彼はマナスヴァーミンと十数年来の知り合いでした。
真面目なバラモンだらけの身内に飽き飽きしていたころ、路上で寝泊まりしていたおもしろそうなおじさんをみつけたのがきっかけでした。
少し悔しいことに、シャシプラバーに語った話の半分は、実はこのひとからの受け売りだったのです。
マナスヴァーミンは、ちらと壁一面のいろと香水瓶に入った薬たちに目をやりました。
酒のような液体状のもの、白い軟膏、丸い錠剤型のものまで種類がありました。
これらはすべてが巷の薬屋に売っているような、普通のものじゃありません。
痺れ薬に眠り薬なんて、ほんの序の口。
実際はもっと恐ろしく、もっと面白い、秘伝の薬が紛れ混んでいるのです。
「おれを女にしてくれる?
大盗賊のムーラデーヴァなら、そんなことへっちゃらでしょ?」




