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眠れる俺は乙。

 主人公は”俺”が一人称の瀬戸一希せとかずき。中学時代に出会う、茅香ちか実希みき深玖みく美步みほ隅田理乃すみだりのとの会話から、物語りは始まっていく。

<プロローグ>


 ふと、目が覚めた。長い夢を見ていたような気がする。寝ていた時間は、いつも通りでたぶん年相応な気がする。9時間くらいか?

 学校に通っていない休日なんかは、12時間~15時間くらい寝てしまうことはざらだ。


 人は、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すと言う。体と脳を休ませ、疲労回復や免疫機能の調整、成長ホルモンの分泌などで体の回復させる役割を持つノンレム睡眠。その後に、脳内の記憶の整理や、感情の処理のためのレム睡眠に入ると言われる。個人差はあるが、約90分間隔で繰り返すとされる。このうち、夢を見るのは、レム睡眠だ。しかし、一晩に12~15時間も寝ていたら、いつどこがレム睡眠、ノンレム睡眠なのか、分からなくなってしまう。夢も覚えているような、覚えていないような、そんなのばかりだ。

 ちなみに、寝る子はよく育つとも言うが、自分で言うのも何だが、まったく育った気配は無い。まぁ、何てことない、ただ単に惰眠を貪っているだけだ。学業は至って普通。寝て育ったところと言えば、身長、体重……も世間一般、平均的なので、年相応の思考能力を得たと言うところだろうか。


 そう、何を言おう、俺は今、まさに、中二病のまっただ中にある!



<第1節>


 かと言って、俺つええええとかしたり、十字架を掛けていたり、包帯を手に巻いたりはしていない。年相応に、男友達とわちゃわちゃ楽しんで、年頃なので女子にも興味がある。そんな感じだ。

 今日は、昔懐かし、小学校でもめちゃくちゃ流行ったカンチョーしている。皆一斉に中学に上がったが、カンチョーをしていると相手の反応がいちいち楽しい。初々しいわけではないが、羞恥心を感じる反応だったり、時折色っぽく聞こえるものだったりするのだ。「どぅっわあああああ」「おうっ」「んぁっ…!」など、相手も来ることを感じ取っているせいか、日を追うごとに変わる反応に楽しく過ごしていた。

 ある意味、いろんな友人の反応を試していた遊びのツールとして使っていたため、我ながらゲスな性格だなぁとは感じていた。


 「一希かずきさぁ、いつもそんなことしてるけど、面白いの?」

 ――え?面白いからやってるのに決まってんじゃん!

 「なんで?」

 なんで?かあ。

 ストパーでさらさらな長髪をきらめかせるクラスメイトの女子、茅香ちかが聞いた内容だが。はて、急に、なんで?と聞かれても、即興で答えられるものを持ち合わせていない。

 ――なんでだろう?反応が面白いから?それ以上でもそれ以下でも無いんだけどさ。あまり深い意味は無いよ。だってカンチョーだもん。あ、ちなみに、深くするのは指の腹までだよ。一緒にする?

 「いやいいよ、遠慮しとく(笑)」

 笑いながら断られた。なんかちょっとショック。しかし、この楽しさが分からないなんて、女子は分かっていない。相手から反応がどんな風に返ってくるか、これは、いわゆるバイタルチェックのようなものなのだ。と、自分の中で浸っていると、すぐに授業のチャイムが鳴った。



<第2節>


 中学になってから、勉強が難しい。特に、数学と歴史。数学は、数字のやりとりさえ覚えていればいいものだと思っていたが、何故か同じ図形であることを証明したりしないといけない。何故、証明する必要があるのかイマイチ意味不明だが、要するに、数学でも語学力を試されているのである。

 俺はこう見えて、国語は嫌いだ。だって、文章が思いつかないから。誰かの文章をカンニングして、ようやく”ああ、そういう風に書けばいいのか”と一度飲み込んでから書くことが多い。

 文章の読解力もそんなに無い。説明書は読まずにフィーリングで掴むタイプだ。と言うことで、そういえば、国語も嫌いだった。


 歴史は、単純に丸覚えするのが嫌いだし、人間は未来に生きるものだと思っているからだ。と、そこまで言うのはまぁただのエゴで、歴史上の人物すべての人たちに謝らなくてはならないのだが、勉強したくないというのが本音だ。人の名前が覚えられないからね。日本史の登場人物が、皆かわいい名前の女の子だったら覚えるかもしれないけど(そういえば歴史上の人物を女体化したアニメがあったっけ)、現実そうではない。歴史上の登場人物は、大抵男だし、名前も漢字が難しい。世界史に至っては、横文字が理解できない。だめ押しついでに言えば、年号もセットオプションなわけだ。

 こんなの覚えられるわけ無い。という感じで、諦めていた。


 「一希ってさ、嫌いな科目多すぎない?なんか勉強手伝ってあげようか?」

 普段からスポーツをしているのか少し浅黒い面向きで、いわゆるボーイッシュな隣の席の実希みきが言う。意外にもかわいい顔つきで成績も優秀。よく話掛けてくれて、正直俺のタイプではあるのだが、間違ってはいけない。こいつは彼氏持ちだ。友情から来る情けに違いない。ちなみに、彼氏は俺の友人でもあるから、正直に言うと結構気を遣う。

 ――実希は頭良いからいいよな、俺なんてまったく付いていけないわ。どうしたら、そこまでできるのか、試しに聞いてみたいよ。

 「ああ、そういうのは写真記憶的に覚えるんだよ。ページを見て、それで覚える。」

 ――ん??どうやって??

 「こう、教科書開いて見るじゃない?で、ほら、覚わった」

 え?何が?もしかして、今ので!?一瞬過ぎないか?お前さんさすがにそれは、ハードモードすぎないか?俺はそのレベルには無いぞ?

 ――試しに、1つ何か証明してくれないか?ノートの空きスペースだけは、いっぱいあるからさ。

 「いいよ。ここがこうして―――」

 ノートの隙間にスラスラ書かれる文字は、女子の字そのもので、ものすごくかわいらしいものだった。しかも、最後に何かのキャラクター?とハートマークまで書いてくれていやがる。これは、何と言うか、勘違いする。危ない。もうこの場で、好きだ!と言いたい。駄目だ、抑えろ。抑えた。

 しかし、冗談抜きで分かりやすい内容だった。ひと通り教わると、やっぱり普通に天才肌だった。こういうのを、本当の天才なんだなと思った。いやでも、教科書のページ見て一瞬で覚えるのは、さすがに嘘だったでしょ。まぁいいや。

 ――どうやらそちらにおわす方は、天の神様のようですので、拝んでもよろしいでございますか?まぁ、何と言うか、こう、手を合わせるだけだから。

 「なにそれ、私まだ死んでないよ?」

 ――それはそう。長生きして。

 「ありがと。」

 たわいも無かった。



<第3節>


 そんなやりとりをしていると、すぐに部活動の時間になる。各々めいめい自分の部活場所へ向かうこととなる。

 俺は、運動部では無い。何故ならば、球技以外の個人競技が好きなんだが、この中学にはそのような部活が存在しなかったからだ。個人競技の何が良いかって、自分のペースで事が運べることである。陸上競技が一番最適だと思っている。あれこそ一番良いと思う。そして、短距離、100m。特段運動神経が良いわけでは無いが、鍛錬されたすべての筋力を、ただ一瞬の100mに賭けるあの競技は、やっぱり最高に違いない。まぁ、やったことないから想像なんだけど。

 ということで、俺はパソコン部に入っている。世の中は、情報化社会だし、パソコンの知識があっても、パソコンという存在が無くならない限り、今後無駄にはならない。えらく現実的な動機で決めた部活動であった。俺が任されているのは、学校のホームページ作りである。作るとは言っても、すでにあるテンプレートに、文章と挿絵を挿入するだけの簡単なものである。


 さて、今日は、何をしようか。

 実はこの部活、先生が来ず、生徒の自主性に任されている。故に、毎日何をしているのかというと、ネトゲかネットサーフィンをして適当に時間を潰し、下校時刻になったら解散するというルーティンが常態化していた。ただ何となく、今日は、魔が差したのだ。


 ――部長さんさ?うちの中学のホームページって、いつの時代のものよってくらい古いじゃない?これ、刷新しませんか?部活動紹介ページとか作って、より充実させた方が良いと思いませんか?

 「そうだね、確かにそうかもしれないね。どうしよう、勝手に各部活動にずかずか入っていって、写真を撮るのも失礼だし、肖像権とかもあるから、一度、一緒に先生にやりたいことを伝えに行ってみようか」

 おっ、話が早い。いつもは、部内でネトゲしてて、アクシデントがあるとヘッドホン(備品)を投げ捨てる人が、まともなこと言ってる。さすが部長だ。

 翌日、パソコン部顧問の先生に許可を得た。


 サイト構成は、ぼかした挿絵写真に、一文添えておけば問題無いだろう。さて、どこから回るかな?

 「パソコン部から一番遠くの場所にあるところから、写真を撮ってみよっか。そうすれば効率良いんじゃないかな?」

 おお、確かに。じゃ、ここから遠い場所はと言うと…別校舎にある音楽室、吹奏楽部だね。

 ――ちわー。パソコン部でーす。学校ホームページの部活動紹介ページを作るために、顧問の先生に許可をいただいて、サイト写真の素材を撮らせていただくことになりましたー。

 「おお、部活動の写真を撮るんだね!待ってたよ!皆、この写真がホームページで紹介されるから、気合い入れて練習するよ!」

 すぐさま快諾、と言うかうちの顧問から根回ししてもらったんだと思うが、今、了承いただいた音楽の先生兼、吹奏楽部顧問の明るい返事が返ってきた。何と言うか、特段悪い事をしているつもりは毛頭無いんだが、あまりに事が上手く運んだのでついついドキドキしてしまう。ちょー優しい。ありがてぇっす。あざます。

 「声に出てるよ」

 あ、ごめんなさい部長。顔が写らないように後方側から写真撮りますね。

 「ご協力ありがとうございましたー」

 ――やったね、次はどこ行こうか?

 「と言ってもうちの中学の文化部って、吹奏楽部か、我々のパソコン部くらいしか無いんじゃない?だったら、次は体育館と武道場かな。卓球部とバスケ部、バレー部が交互で体育館でやってるらしいよ。あと、武道場は、剣道部と柔道部かな。」

 じゃあ行ってみよう・・・という感じで、ひと通り、写真素材を撮り終えてパソコン部の部室に戻る頃には、すでにもう下校時刻を過ぎていた。会社に勤めていたら、これは残業していることと同じなのではないだろうか?と思った。


 数日後、移動教室での授業のため、たまたま早めの時間に移動して図書室に差し掛かったところ、背後から何者かが勢いよく走ってくる音がした。

 「かずくん!かずくんでしょ?そうだよね!この前、音楽室で写真撮ってたの!」

 ――え、あ、うん。そうだよ、よく覚えてたね。と言うか、君は誰だっけ。

 そう言うと、むすーっと顔を膨らませて。

 「あのとき音楽室に居たんだけど!」

 ――ああ、そういうことね。そうだったね、分かったよ。えっと。あ、思い出した。俺の友達の妹さんの深玖みくちゃんだっけ。どうしたの?

 「深玖でいいよ。かずくんが見えたから、ついこっちまで走ってきた!」

 ――アグレッシブな心は良いことだけど、廊下は走っちゃいけません。

 「――はい。すみません。」

 ――いや、そんなに落ち込まなくても良いよ。これから移動教室だから、また後でね。

 「はい!じゃあまた!」

 深玖ちゃん、本当に俺のクラスメイトの友達そっくりな顔つきしてたなあ。でも、ちゃんと女の子らしくてかわいいし、出るとこ出てて、正直目のやり場に困った・・・目が泳いでるの、完全にバレてたよな。まぁいいや。



<第4節>


 この中学の移動教室は、主に、理科、家庭科、その他選択科目にて利用される。過去には、膨大な生徒数を集約していたであろうこの校舎。昨今の少子化の煽りを受けたであろう我々の世代では、1学年3~5クラスしか無いため空き教室が目立つ。移動教室もその影響の一つで、第1理科室、第2理科室など、第1、第2と各教室が構成されるが、いつもどちらかが埃っぽく、窓を開けて換気することから授業が始まる。どれもあまり使われていない様子だ。

 ついでに、その移動教室を使うのも、1クラスだけで広々と利用することもあれば、選択科目の場合は、2~3クラスから選抜された生徒が合同で利用することがある。今日は、理科の選択科目の授業で、隣のクラスと、職員室を挟んだ一番向こう側のクラスが、合同授業を開催することとなっている。


 俺は、隣に座っている女の子に話し掛けた。

 ――教科書忘れた、持ってる?見せて。

 「いいよ。仕方ないなあ。」

 小学校の幼馴染みの美步みほだ。こいつは、今学年になってクラスが別々になってしまった、”彼氏彼女ゴッコ仲間”だ。昨年までにお互い、本命バレンタインのチョコクッキーと、本命ホワイトデープレゼントを渡し合った仲ではあるのだが、クラスが遠くなり、いつの間にか自然と疎遠になってしまった。

 今日は、その美步が隣に居る。今更言うのも何だが、教科書が忘れたなんて嘘だ。

 ――久し振りじゃん。元気にしてる?

 「なに、世間話から始めるの?教科書忘れたんでしょ?ほら、見てなよ。」

 ――つれないなあ。怒ってるの?

 「違うの。今授業でしょ。誰にでも聞こえる声で喋らないで。」

 「そこ、とりあえず静かにしなさい。」

 理科の先生に叱られた。粛々と授業をこなすのだが、何となくぎこちなく感じる美步に、どうしたの?と聞いてみたが、特に何も反応も無く、この授業は終わった。ちょっぴり悲しい。


 教室に戻るときに、また深玖がこちらに向かって走ってきた。真正面から向かってくる。こいつは犬か何かなのか?しっぽをぶんぶん振っているのが見える気がする。今度はどうしたのかな。

 「授業が終わったから会いに来た!」

 ――そっか、ありがとう。会えて嬉しいよ。でも、校舎も教室の階も違うよね。今も10分休憩だし、よくここまで来れたね。

 「会いたかったから!」

 会いたかった?Why?何故?俺は、何かハーレムモノの夢でも見ているのだろうか?急にモテ期なのだろうか?本心だとすればありがたい話だが、あと5分で授業が始まってしまう。とりあえず、今は時間が無いので一緒に教室まで送ることにした。



<第5節>


 朝のホームルームをしていると、担任から転校生が来るとの話があった。担任の合図に合わせて、教室に入ってきたのは、女子だった。

 「おはようございます、私の名前は、隅田理乃すみだりのと言います。よろしくお願いします。」

 ぱちぱちぱちぱち。教室中に拍手が鳴り響いた。大人しそうな、セミロングの髪には、右側に星形のヘアピンを留めている。とりあえず、空いた席が一番後ろなので、そこに座る。俺は、この前の席替えで窓際の特等席に座っているので、理乃さんが座っている場所からは遠い。

 女子が転校してきたと言うことで、皆大喜び。女子がまずいろいろ話し掛けているようだ。我々男子は、遠くから眺めていた。

 「お前、正直どう思う?」

 どうとは?

 「いや、タイプかどうかだよ。」

 どうなんだろうね?何となくだけど、そういう感情にならないんだよね。どこかで会ったっけ、懐かしい感じがするんだけどさ。どうしてだろう、思い出せないや。

 「え?お前知り合いなのかよー!そういうのは、早く教えろよなー!」

 いや、知り合いかどうかは知らないけど、うん、知らん(笑)。それより・・・えい!(カンチョー)

 「おうっん・・・!」

 たわいも無かった。



<第6節>


 そろそろこの時期は、どんどん気温が低くなっていって、学ランやセーラー服も分厚い冬服になってから相当時間が経っていた。露出が高くなる夏は、人の汗の蒸発の助けもあってか、どうしても教室が蒸し暑くなる。従って、このくらいの季節が一番過ごしやすく、平和だ。寒いのでストーブなんかも出てくる。ファンヒーターではなく、昔ながらの灯油を燃やして暖を取るタイプのものだ。昔、おばあちゃんちに置いてあった、ヤカンを乗せとくと勝手に沸騰する、あのタイプ。ミカンとか、上に置いて焼いてみたりすると案外美味しいよね。

 この学校では、学園祭と言うものは開催されないものの、校内の合唱コンクールと体育大会がある。うちのクラスでは、両方とも好成績を収め、合唱コンクールの表彰状や体育大会時に作成したクラス旗が教室に飾られる。そういえば、体育大会では、俺は100m走に出場して、1位の運動部に続いて、他の運動部を抜かし2位だった気がする。その後は、応援大会でオリジナルダンスを踊った記憶があるな。もはや懐かしさを感じる。


 この時期によく聞かれる会話は、主に進路の話だ。我々3年生の冬は、すでに進路が決まっている。これから進学する高校への受験に向けて勉強をするのは当たり前だが、推薦入学が決まっている者は、これ以上成績を下げない程度の勉強をしたり、遅刻や授業を寝て過ごさない等、これ以上素行を落とさないようにしたりするなど、各々の自己研鑽が欠かせない時期である。

 渦中の俺に至っては、就職率の高い地元の工業高校への推薦入学が決まっており、完全に高みの見物状態だ。


 「ねえねえ、そういえばさ、一希のことで少し時間もらって良い?放課後で、皆帰ってからこの教室で伝えたいんだけど。」

 ―いいけど、何かあるの?

 「ひ・み・つ!」

 なんだか隠す気が無い含みのある言い方だ。何があるんだろう?ドッキリか?実希からの突然の誘いだった。勘違いしてはいけない、あいつは彼氏持ちだ。ん?でも、あいつの彼氏って俺の友達だよな。俺と同じ高校で、推薦で入る予定だったはず。もしかすれば、離ればなれになるかもしれないし、ワンチャン可能性があるかも?などと不埒な想像で何も集中できず、授業なんてもってのほか。すぐに時間経過するのみでなかなか頭の中に入ってこなかったのは、言うまでも無い。

 放課後になった。

 「本当に来たんだね。」

 ――そりゃまあ、呼ばれたし、一応来たよ。内心は、すごくドキドキしているし、きっとこのことは表情に出ていて、相手に完全にバレている。

 「そんなに緊張すると、こっちも伝えづらいじゃん。まずは、落ち着いて。」

 こんなの、落ち着いていられるか。わざわざ教室の窓をすべて閉め切って、扉も閉めている。鍵はしていないが、それは、そうだろう。鍵していたら、俺が何をしたって言い訳できないしな。うん。

 「じゃあ、早速伝えておくね。あのさ・・・。一希のことが好きだって言う女子がいてさ。」

 は?本当に、本当に、そういうやつで合ってるの?嘘じゃなくて?

 「柚季ゆきのことなんだけど。」

 ――あ、うん。知ってた。流れが変わった。いや、俺が一方的に期待してただけなんだけど。

 「好きだって言ってて。一希はどう思ってる?」

 ――すぅぅ~~。ほぉ~~~。

 なるほど、そうか、そう来るか。そういうことか。まったく想像とは違う場所から、急に殴られた気分だ。同時に、現実に戻された気分もあり、数時間前までに妄想していたあれやこれやは、今、どこで呼吸して、今、ちゃんと生きているのであろうか?いや、ただの妄想なので生きてすらいないか。生きていたとしても、もう違うお話に変わったので、この妄想くんとやらは、どこかの世界線にサヨナラしたに違いない。いや、むしろどこかにサヨナラして欲しい。さらば、俺の妄想くん。ん、と言うか、何度も言うが、こいつは彼氏持ちだ。彼氏が居ることに変わりは無い。間違ってはいけない。

 おっと、それよりも。返事をしないといけないんだっけか。


 ――柚季だっけ?何で俺を好きになったの?で、なんで実希がそれを?

 「一希はよく知らないかもしれないけど、あんたって結構明るい性格だから女子からモテるんだよ?」

 ――へ?そうなの?

 変な声が出た。完全に声が裏返っている。

 え?そうだったの?初めて知った。いや、と言うか、それをお前から聞きたくないんだが。お前の口からそんなことを言われたら、実希が好きになるに決まってるじゃないか。少なくとも多少の意識は絶対するぜ。だって、俺、童貞だし。女子とは、正式に付き合ったことが無いし。変な勘違いしちゃうじゃん。

 ――何でまた、急にそんな話をしにきたの?今更感もあるしさ?もしかして、もう卒業だし、進学先も違うから、最後に思い出作りに行ったれってヤケクソな感じなの?

 「そうじゃないと思うよ。いや、何て言うの?元々好きだったらしいんだけどさー。結局、自分からは恥ずかしくて言えなかったんだって。」

 んー。そう言われましてもですねえ。柚季って、あの大人しい子だよね?確かに、実希とは仲良くしてるなあとは思っていたけどさ。俺には、一切話し掛けてこないし、ちょっと取っつきづらかったから、実は会話したこと無いんだよね。

 ――すまんが、これは本心なんだけどね。そういうのは、友人を通してではなく、直接本人に打ち明けるか、告白するものだと俺は思っているんだ。申し訳ないんだけど、その時点で俺の中からは、選択肢が外れてしまうんだ。

 と言っているが、実際ニヤニヤは収まらない。だって、少なからず、女の子からの好意、しかも明らかに”好き”だと言ってくれている。嬉しいに決まっている。きっと、顔にも出ていて、実希にはバレているに違いない。お前、言ってることとその顔と、全然違うじゃんって。

 「でも柚季、おっぱい大きいよ?一希、おっぱい大きい子好きでしょ?」

 意味不明な駄目押しをしてきた。そこまで食い下がるか。

 ――待て待て、そう来るか(笑)。おっぱいはそりゃあ好きだけど、それは大きくても小さくてもどっちでも好きだぞ。と言うか、俺がおっぱい大きい人が好きってどこで知ったんだ?確かに、グラビアアイドルのあの人とかは好きだが、おっぱいもそうだが、外見が良いんだぞ?でも実際に付き合ったりするような、好きな人のおっぱいなら、別に大きくても小さくても、何でも良いんじゃないのか?あえて言うが、俺は小さくても好きだぞ?あと、今は、おっぱいの話をしていないだろ?だって、おっぱい目的で付き合ってたら、どこかで破綻してしまうじゃないか。

 めちゃくちゃおっぱいの話をしてしまった。ついつい、俺の持つおっぱい観を語ってしまった。恥ずかしい…と言うほどでもないが。


 ―――ガラッ。

 教室が開く音がして振り向いた。クラスメイトの男友達だった。目が合う。刹那、

 ―――ピシャッ。

 閉められた!待って、違うんだ!そういうのじゃない!いや、そういうのだけど、なんか違う!待てって!・・・遅かった。

 「なんか勘違いされちゃったかな?」

 ――おいおいおいおい、お前彼氏持ちだろ?良いのかそんなので。

 その発言も相当危険だぞ?止めといた方が良いぞ?勘違いするからな?なんてったって、俺は童貞なんだからな?童貞なめんなよ?

 「んー、まぁ良いんじゃないかな。」

 ――まぁ信頼関係がアツくて良いことだねえ。まぁ、何と言うか邪魔は入ったけどさ。そんな感じで申し訳ないけど、断っておいてもらえないかな?何だかすまないね。

 「いいよ。伝えとく。でも、断るって事は、一希は好きな子が居るの?教えて。」


 目の前にな。とは、口が裂けても言えない。今でも、実希が教えてくれた数学の図形の証明、忘れずにとっておいている。お前からのハート付きのイラスト込みでな。これでも、結構お前のこと好きなんだぞ?

 あと、以前、俺を追いかけてきた男友達の妹の深玖には、「追いかけるのやめて」と言って以来、俺と廊下でばったり顔を合わせても知らん振り。やっぱりきつく言い過ぎて、嫌われてしまったのだろうか?

 移動教室で一緒になった美步は疎遠のまま。あいつは、クラスが遠いしな、うまくやってるさ。きっと。あんな”彼氏彼女ゴッコ”なんて妙な真似はせず、普通にいろいろな人と恋愛をして欲しいと思う。

 クラスの中立的な立場で居たい茅香については、まったく隙が無くて、告白を許さなかった。たぶん彼女の中では、俺は釣り合ってないんだろう。嫌われているとか、そういうのじゃなく、単純に、誰ともそういう関係になりたくないのだろうと思った。

 そして転校生の理乃?と言う子も居たな。そういえば、あんまりこの子とは話をしなかったし、あんまり記憶に無いな。いつも席の後ろのほうに居た。女子には人気だったらしいし、男子からも若干話している姿を見た。ごめん、俺は特に会話してなかった。

 まぁいいや。振り返ると、いろいろな女子に対して恋愛感情を持ちつつも、特に告白もしないフリーな状態が続いたこととなる。実際、周囲へも、俺自身付き合っている子が居る居ないというアピールもしていないが、男友達としかつるんでいないこの状況から察すれば、彼女が居ないことは明白であろう。

 だから、何故断るのか、という疑問は至極当然であり、断ることによって、こいつは目標が高い男だと勘違いされる可能性もあるが、今回の話は、どうもそうではなさそうだ。俺だって、選択権はある。


 ――今は、好きな子は、居ないかな。でも、これからこの学校で作ることも無いと思う。卒業までそんなに時間無いし、良いなと思う子は、だいたい彼氏持ちだし。まぁ、彼氏持ちだからこそ、その子の顔が輝いて見えるんだろうなとも思うから良いんだけどさ。俺なんて、男友達の中で、やいやいやってるのが丁度良いんだよ。きっと。ついでに、俺の進学先は、工業高校だから、共学だけどほぼ男子校に近い。今彼女作っても疎遠になるだけで、自然消滅すると思うよ。そうなると、せっかく彼女を作ったとしても悲しいじゃん?お互い、ちょうどいい距離のまま過ごすのが、たぶん良いんだよ。きっと。

 「そうなんだ。まぁそこまで言うんならしょうがないっかあー。柚季には伝えとくね。あと、今日はありがとね。先に行ってて。窓開けて、時間置いてから出て行くから。」

 ――おう。今日は、話してくれてありがとう。また、何かあったら教えてよ。

 実希から打ち上げた話なのに、そっけなく終わってしまった。申し訳無いことをしてしまっただろうか?


 そうして、俺らは、この中学を卒業した。



<第7節>


 俺は、今、上場企業に勤めている。有り難いことに、機械部品の設計業務に関わらせてもらっている。いわゆる上流部門ってやつだ。高卒なので入社時の給料は、それなりに安かったが、入社後に積んだ経験を買われ、今では新プロジェクトのキーパーソンとなっている。キーパーソンと言うことで、職位もそれなりに上げてもらい、大学院卒と同等か、それ以上にさせてもらっている。

 機械部品の設計業務は、自分で考えてゼロからモノを作らなくてはならず、また一度作ったモノは、他部署との折衝をすることで、お互いのメリットを盛り込むことができる。その結果を、製品の形状への落とし込みや、部品スペックへの反映などの設計変更を繰り返すことで、ようやく一つの商品ができあがる。自部署の領域と、他部署の領域をうまくマッチさせることで、より良い製品が出来上がり、お客様の満足度につながるから行う行為である。この他部署との折衝が、設計業務の肝となる。


 今、俺は26だ。やってる業務内容としては、設計業務全般であり、周りの人間がだいたい30代後半以上となっている。俺のような若造がここに居るのが、異例のようだ。まあ、それなりに歳の差を感じる事が多いが、正しいものに対しては”YES”と言ってくれるこの会社のありがたい風土のおかげで何とかやっていられる。当然、知識が足りない部分も出てくるが、それは、先輩社員に伺えば問題無し。上司の後押しも厚く、安心して業務できる環境にある。

 ただし、一重に良い話ばかりだけではない。他部署との折衝と、それを反映した部品にするためには、それなりの労力、つまり工数が必要となる。今現在、確かに工数不足となっており、俺の知識量と動きの早さで何とか回しきっている。ただ、それは、就業時間内に収まるとは言えない。残業代として給与補填されるものの、帰宅時間は遅くなる一方だ。その見返りとしての給料は、そこら辺の同い年よりかはあると思っている。その高い給料がモチベーションの一つとなっている。


 そういえば、俺の最終学歴は、高卒である。ほぼ男子校のような、職業訓練校のような、軍隊の養成所のような工業高校を卒業後、引く手あまたの買い手市場だったため、この会社にスルリと入社した。最初は、牧歌的に業務遂行していた。

 しかし、「お前は甘い!」と叱られ続け、2年間、社内出向として、別部署に配属されていた。たまたまその部署は、出張が多く、新幹線をよく利用し、たまに飛行機を使って別拠点まで出向くこともあった。

 時には頭も下げた。他に上司はおらず、自分しか会社の顔を持つ人間が居ないとなると、顧客の怒りの矛先は、当然、俺になる。

 必然的に、その晩の酒は美味しくなる。だいたい、獺祭は欠かせず、北海道へ行ったときに飲んだ男山の寒酒がたまらなく好きで、霧島にカツゲンを注いで腸内フローラを活性化させることにいそしむ毎日だった。


 そのとき、たまたま会社の展示会で出会った女性が居た。


 うちの会社とは他県の別の会社さんで、同業他社に当たる。いわゆる敵情視察に当たるが、どうも挙動不審な様子だ。

 ――こんにちは。もしよろしければ、ゆっくりご覧になってくださいね。

 「ありがとうございます。」「あのこれ、もしよろしければ。」

 いただいたものは、名刺だけではなく、私物携帯の電話番号とメールアドレスだった。あれ?これってナンパ?しかも逆ナンってやつ?


 ―お相手は、木下聖奈きのしたせなさんと言うらしい。美しい響きに感じた。

 ―きっかけ、なんて言うものは、さして大したものではない。

 ―自然と男女の仲になり、彼氏彼女の関係になったのだ。


 ちなみに、彼氏彼女になる際は、俺の方から告白したので完全に受け身だったと言うことではない。また、彼女とは、会社関係で言うと同業他社ではあるが、まったく気にせず接してくれている。

 彼女の趣味は、いわゆるサブカルで、BLなどを嗜む腐女子である。一方、俺の趣味は、こちらもサブカルで男性向けのアニメ、ギャルゲを嗜む逸般的な紳士である。趣味自体は、受け入れる受け入れられないの差はあるものの、同じサブカル趣味としては合致しているので、非常に話しやすいことから、すぐに打ち解けていった。お酒は飲めないので、俺の晩酌をしてくれている。ありがたい存在だ。



 ある日、一本の電話が入る。ナンバーディスプレイには、懐かしい名前が表示されている。



 「もしもし、一希?この電話番号のままで合ってる?」



 ――よお、久し振りじゃねえか。実希。番号そのままだから、合ってるぞ。どうした?



 若干ピリついた空気にならざるを得ない。実は、中学以来まったく会っていない、と言うことは無く、工業高校へ一緒に進学した友人との遊び仲間の数合わせとして、5年くらい前に会ったことがあるからだ。今思えば、なんであいつあの場に来たのかよく分からない。ただ、こいつの交友関係が今どうなっているのか、もしかしたら既婚者になっているかもしれないし、逆に独り身なのかもしれないし、どういう事の運びでこの電話を繋げることとなったのか、気になる。と言うよりかは、内容によっては警戒しなくてはならない。今、俺には、聖奈さんが居るからだ。

 「あのさ、一希にちょっと聞きたいことがあるんだけど。」

 ――どうした?

 「最近、車のテールランプって言うの?が切れちゃってさー。どうしたら直るのかなあって思って、一番適任なの誰なのかなと思って電話してみたら出たから。一希は、そういうの、詳しいでしょ?」

 ――そりゃあまぁ、一応機械設計が本職だし。・・・えっと、それだけ?

 「うん、そうだよ。直せるかな?」

 いや待て、それテールランプ直すだけじゃないやつでしょ。俺、今26だよ?その手には、もう乗らないよ?確かに、中学時代の実希は、憧れの存在だったし、会話も楽しかったから好きだったよ。だけど、何故、今?しかも、会うの?それだけじゃ済まなくなるやつじゃん。

 ――ああ、すまん。人の車をいじるのってさ、ちゃんとした整備工場に頼むほうが喜ばれるよ?ほら、俺がもし実希の車を傷つけてしまっても直せないじゃん?カー用品店でも良いし、ディーラーみたいなところでも良いし、そういう所に行ったら良いんじゃないかな?気まずそうに言ってみた。

 「――――――――うん。そうだね。」

 長い間があったような気がするが、飲み込んでくれたようだ。

 「どこか寄ってみるわ。ありがとう。じゃあね。」

 ――おう、元気にしろよ。じゃあな。


 嵐のようにやってきたが、なんのその。今じゃ台風一過のように晴れ晴れとした気持ちになっていた。お前の、その性格は嫌いじゃない。でも、タイミングが悪かったな。悪く思うなよ。友人としてなら、数年後に、お互い子供もできてから会ってやっても良いからな。そのときに期待するぞ。俺の憧れなんだから、俺の居ないところで輝いていてくれ。


 とか言いながら、特段、何事も無かったかのように聖奈さんと過ごす。日本酒がうまい。富士山の近くで買ってきた、新聞紙で包まれた”にごり酒”がうまい!


 

<第8節>


 28歳になる頃、俺は、聖奈さんと結婚し、式も挙げた。

 場所は、とある政令指定都市のホテル兼結婚式場で、面倒くさがりな俺の親戚連中が来やすいように配慮した。彼女の親戚は、他県の方だったため、ホテルであることを良いことに、前泊してもらうこととした。挙式の半年前くらいから、式場スタッフと念入りに相談した。月1か、もしくは、隔週で通っていた。暑い日のジンジャーエールが、とても美味しかった。

 披露宴では、会社の上司があいさつを読んでくれて、すごく楽しげで幸せなものとなった。


 その余韻を残しつつ、上司の許可を得て、1週間、北海道へ新婚旅行に出かけた。俺は、元々語学力が乏しく、海外が苦手な人間なので、国内でと決めていた。奥さんとなった聖奈さんとも、そう話していて、いろいろ行きたい場所リストを作って、旅行に出かけた。


 一方、会社生活では、進めていたプロジェクトが、さらに競合他社と協業するという、特大プロジェクトに肥大化していた。慢性的に足りていなかった業務量は、より一層足りなくなり、朝7時出社、夜10時退勤を繰り返していた。フレックスタイム制なので、自分で決められるのがポイントだが、ズルズルと残業を繰り返しているのは良くないと感じるが、実際業務をこなすためには仕方がない。とは言え、慢性的に人手が足りていない状況だったのである。

 そんな中、新人採用の子が、俺の居るグループに配属された。我が社は、会社に新人配属される者に対して、教育者としてメンター制度がある会社だ。そのメンター役として、俺が抜擢された。


 俺の相棒となる予定の新人くんは、今春に高校を卒業したばかりの18歳である。18歳高卒、俺と同じで懐かしい響きだ!名前は、古澤ふるさわくんと言うらしい。配属初日から、早速声を掛けてみる。

 ――こんにちは。あなたのメンターの瀬戸です。分からないことがあれば、何でも聞いてね。えっと、キミの名前は古澤くんだったね。よろしくね。とりあえず、今日やることは、そうだなあ……まずは、パソコンの設定からかな?

 「あっ・・・はい。分かりました・・・」

 浅黒く、スポーツをやっていたのかな?海のある県から、水産高校を卒業したらしい。……えっ?なんで水産高校?水産高校から、こんな機械設計の世界に?

 ――何となく噂は聞いたよ。よく設計に配属できたね。俺でも結構人事に懇願して入れてもらったよ。うちの機械が好きだったの?

 「あの、なんでですかね?僕にも分かんないっす(笑)」

 ――まあ、最初なんてそんなもんよな。俺も工業高校卒だからさ、高卒同士で一緒に頑張ろうぜ。


 とは言ったものの・・・。

 ――古澤くん!古澤くん!起きて!今、会社!給料発生してるよ!

 「あ、すみません。」

 ――パソコンって詳しい?どこまでやったことある?パワーポイントとかエクセルは分かるかな?

 「えーっと。スマホばっかり触ってて、パソコンは持っていないので分からないです。」

 ――え?高校の授業でも教えてもらえなかったの?エクセルとかじゃなくても良いよ。あ。えっ。もしかして、パソコン自体触ったこと無い?

 「―――はい。」

 ――まじか~~~~。じゃあ、パソコンの勉強からだ。これは、マウス。右手で動かすと矢印が動くね。矢印をアイコン…小さな絵の上でダブルクリッ…2回ササッと左ボタン押してくれるかな?

 「こうですか?」

 ――もっと速く!もっと!ああ、そうしたら名前の編集になっちゃうから、ちょっと適当な場所をクリックして。はい元に戻ってきて!ダブルクリック!どうだ!

 「できました!」

 ――よし!これがメールだよ。ここに、あなたの業務内容が連絡されます。

 「分かりました。・・・あれ、でも全然何も無いですよ?」

 ――だって新人だもの。メールなんて来ないさ。いきなりこれお願いね、とはいかないよ。こう見えて、うちの会社の設計は、責任が重いからね。

 「分かりました。」

 ――今は、これが開けたことにハッピーを感じていてください。ハッピー!!

 「瀬戸くんうるさい。」

 ――すみません、つい。

 上司の主任につい叱られてしまった。だって、このテンションじゃないと、彼、寝てしまうぜ?しかも、パソコンをまったく触ったことが無いというのも、あながち嘘ではないっぽいし、これ、”このソフト立ち上げて!”とか、”こういうメールを書いて”とか、いちいち言わないとやってくれないですぜ?


 定時のチャイムが鳴りました☆

 ――――俺の業務、何も出来なかったわ。


 「お疲れ様でした。」

 ――お疲れ~。明日もちゃんと来いよ~。あと、夜はちゃんと寝ろよ~。

 「はい。」

 帰っていった……。壮絶な1日だった。

 「瀬戸くんの配属の時よりもすごい子が来たねえ。もしかしたら、1番すごいかもしれない。」

 ――いや待ってください、あそこまで無知の状態で来てないっすよ私(笑)。入社当時でもパソコンくらいは触れていましたし、知識もそれなりにある状態で入社しましたよ(笑)。彼、学校も専門外らしいですし、もはや、どうやって入社したのか謎だらけっすよ。本当によく分からない…。

 「まあまあ。そこまで言わなくても。でも、メンターだし、頑張ってくれないとね。」

 ――まあそうですよね。分かりました。

 こうして、定時後に、ようやく通常業務に入ることが多くなった。あれ?人員は増えてるけど、俺が教育する時間が増えると、工数的には減るんじゃないのか!?

 「おや、気付いちゃった?」

 ――えっと、工数1にできるよう、頑張ります。

 関白宣言だった。



<第9節>


 上場企業に勤めている以上、労働組合というものが存在する。それは、会社側からの不当な労働を受けないように結束をする存在であるが、現代において難しく捉える必要は無く、単純に残業時間はこのくらいにしましょーねー、とか、夏と冬のボーナスをこれくらいにしてあげるから経営者にガツンと言おうー、とか、まぁそんな感じである。


 有名な内容として、36(サブロク)協定というものがある。それは、労働組合と会社側とが結ぶ事業所協定の一つで、使用者は労働組合と協議した上で、社員就業規定で定める就業時間を延長できるというものだ。ひと月の残業時間を45時間から80時間まで超過可能で、その超過回数は1年の間で6回まで。ついでに、年の総残業時間も、360時間から720時間までに延長しても良いですよ、というものである。

 労働組合が存在しない会社では、これが適用されないため、いわゆる過酷死と呼ばれる環境におかれる。さまざまな病に罹るケースも少なくないが、一番回避したいのは、希死念慮だ。つまり、脳ミソを使いすぎることで発生する、人間が持つバグの一種で、脳が休憩を取らせようと必死になりすぎた挙げ句、過剰に作用した脳内成分が、死にたいという気持ちを起こしてしまう事を言う。こうなると、投薬治療の他に選択肢は無い。

 いや、選択肢が無いわけではない。精神科病院というものが存在するので、その病棟に入院し、一切の外部との連絡手段や物などを遮断したり、自分の手足や衣服を使って自死させないように鎖で括りつけることもあるようだ。その場合は、電気治療という手段も平行して行うことがあるらしい。らしい、と言うのは、どこかから聞いた知識だからだ。


 これまでの俺の月残業時間は、概ね60時間をキープしており、繁閑あるので45時間未満とする月もある。ちなみに、そのストレスは缶ビールだったり、第3のビールとして一時流行った発泡酒など、だいたいシュワシュワした何かを1本飲んで発散していた。

 ところが、新人の古澤くんが配属されて、そのメンターを任されてから、36協定ギリギリの80時間未満となることが多くなった。しかし、それは”訳あり”で、出社時間や退勤時間などを誤魔化して、”79.75時間にしました!”と言う事が少なくなかった。と言うか、もはや常態化しており、帰ったら疲れすぎてシュワシュワした何かを飲む気力も無く、また、もし飲んだらアルコールが抜けきらないまま通勤してしまうことへの恐怖が勝ったため、ゆっくり出来る休日しか飲酒しなくなった。


 ――今月の月残業も80時間か。

 そんなことを思いつつ、そろそろ新人くんが配属してから半年が経ち、この会社に配属された者が必ず通る登竜門的イベントである”新入社員向け発表会”に向け、準備をしながらプロジェクト業務にいそしんでいた。

 ちなみに、新人の古澤くんは、半年経った今でも、入社時と変わらず、へっぽこだ。最近、人事主催の”スライド資料の作り方”講座を受けてきたらしいが、チラッと横目に見てみると、まったく社会人向けのスライドになっておらず、と言うか、会社が用意したテンプレートのまま固まってしまっている。

 これは、分からなくて固まっているのか、パソコンが固まっているのか、寝ていて固まっているのか、どれだ?……どうやら、寝ているようだ。まったく。


 ――おはよ。起きて。仕事の時間だよ。上司見てるよ。いいの?

 「あ、すみません。」

 ――ところでさ、発表会のテーマ決めたの?

 「いや、まだです。」

 えーっと。発表会っていつだったっけ。

 ――え、ちょっと待って。発表会の本番、1ヶ月後だよ!?2週間前には、グループ内で事前発表して評価してもらって、そこから修正重ねて、その後に部長の前で部内発表なんだよ!?日程感分かって言ってるの!?大丈夫じゃないよそれ。今すぐ決めなきゃいけないじゃん。何で今まで相談してこなかったの?俺が言うまで待ってたの?社会人は報・連・相って、いまどきどこでも学ぶじゃん!どうしたのさ?

 「すみません。瀬戸さんが、…あの。忙しそうで…声が掛けづらくて……。」

 ――いや、そら忙しいよ。会社で仕事してるんだもの。でも、古澤くんには、古澤くんの仕事があるでしょ?発表会って言う大事な仕事がさ。俺は、メンターだから、そこを一緒に解決しなくちゃいけないんだよ。キミが立ち止まってても、俺は学校の先生じゃないから気付けないし、何も出来ないんだよ?仕事っていうのは、上司の助けを借りつつも、ある程度は自分で行動するものだからね。まずは、行動しないといけないじゃないか。分からなかったら分からないで――

 「待って瀬戸くん。気持ちは分かるが、まずは落ち着いて。ほら、彼の顔を見てみなさい。ここは私たちに任せていいから、今日はプロジェクトのほうをやってくれないかな?」

 ――いや、でも……。分かりました、今日はプロジェクトのほうに専念します。申し訳無いんですが、少し席を外して、別席で業務しても良いですか?

 「大丈夫だよ。好きなところでやってくれて構わない。お願いするよ。」

 管理職の上司に、諫められてしまった。ここまで感情的に叱りつけるのは、俺史上初めてで、おそらく他の社員も、たたみかける俺の発言にビックリしていることと思う。


 その後、席移動した俺は、イライラしていてプロジェクト業務すら、頭に入ってこなかったので、簡単な作業をこなすことにした。ずっと天井を見ている。天井の板って、なんでこんなにボツボツとした穴が開いているんだろう。

 そんなどうでも良いことを考えながら、時間が過ぎ、やがて定時のチャイムが鳴った。きっと、新人の古澤くんは、もう帰らされてるはずだ。自席に戻るか。

 「テーマどうしましょっかねえ」

 「んー。協業先の標準の違いを突いて、うちの会社とマッチさせる、みたいなのが出来ると満点なんだけど。」

 主任と管理職の上司が相談している。

 ――すんません、今戻りましたー。先ほどは、ご迷惑おかけしました。

 「いやいや、全然なんとも思ってないさ。でもさ、彼の発表会のテーマ、どうしようかなあって皆で相談しててさ。」

 ――んー。そういえば、協業先ってボルトの規格が、海外の規格なんですよね?うちは日本の規格ですけど、その辺の規格差を突いていって、うちと協業先で共同の締結検証が出来るようなツールを作らせたらどうでしょう?ボルトって、機械部品として、基礎中の基礎ですし。設計業務を覚えさせるには、丁度良いかもしれないですし。どう思います?

 「協業先から、情報入手できるとは限らないけど、うちも協業先にもボルト担当の部署はあるから、そことの関係を橋渡しできるようにフォローしていくシナリオにすれば、何とかいけるかもしれないね。」

 ――じゃあ、それでいかがでしょう?何と言いますか、正直、疲れました……。

 「お疲れ様。あれは、さすがに難しいと思ったよ。私たちでも結構手こずったからね。発表会については、今後はこっちが引き受けるから、瀬戸くんはプロジェクト業務をお願いね。そっちの方が、重要だからさ。」

 ――分かりました。そうさせていただきます。あと、今日はもう帰ります。

 「そうだね、お疲れ様。明日も無事に来てね。」


 最近の俺、何だかおかしい気がする。体重が増えていってるのは、きっとアルコールついでに、いっぱい食べるからだろうけど、でも、きっとそうじゃない。言動が、荒っぽいわけでは無いんだけど、たたみ掛けるように相手を追い込んでしまってる気がする。今日もそうだった。もしかしたら、仕事上得た知識とか、そういう性格なのかもしれないのだけれど、ちょっと言い過ぎた気もする。ただ、本人には、分かって欲しいから言ったのも事実。古澤くんには申し訳無いけど、今日のことについて謝罪するのは、やめることにした。


 その後、管理職の上司と主任の力によって、古澤くんの発表会スライドは完成したのだった。突っ込みどころ満載だけど。



<第10節>


 新人発表会は、自部署内のグループ内発表が終わり、いわゆるけちょんけちょんな状態にしてやられた。そりゃそうである。日本語になっていないからだ。会社の資料なので、起承転結は必要ないが、何故そう思ったのかという動機に対して、計画がうまく記載しておらず、また、スライド資料の見え方も勉強不足感が否めない。

 ――ちゃんと上司と主任と一緒にやったの?

 「はい……。でも、あれでした。」

 そう言う古澤くん。何故、駄目だったのかを分かっていない様子だった。

 ――あのさ。俺が修正すると、俺の資料になってしまうから、自発的に作って欲しいんだけど、こことこれは、こういう――――

 「はい。」

 もはやYESマンである。はい、しか言わんぞこいつ。

 ――きっとね?上司と主任がここまでしかしない理由はね?この文章表現をしてしまうと、上司もしくは主任の資料になってしまうからだよ?そこは分かってほしい。自分なりの文章表現にすること。もう半年経ってるし、いろんな会社の資料を読んだよね?そうしたら、こういう風にまとめた方が良いな、何て言う共通点が分かってくるよね?どう思う?

 「はい。」

 ――いや、はい、ばかりじゃ分からないのよ。キミの意見を聞いてるのさ。

 「あ、はい。あの……。すみません、分かりませんでした。」

 ――そっか、分からなかったんだね?じゃあ、その状況を上司と主任にも伝えて、もう丸写しさせてもらいなさい。

 「分かりました。」

 ちゃんと言うかな?不安しかないんだけど、信じるしかないか。でも、何故かよく分からないけど、自席にずっと張り付いてるな。これ以上言ってパワハラだの何だの言われたくないし、あとは、新人くんがやらないと意味が無いんだよ。早く、上司か、主任の場所に行ってね…。―――――その後、彼、古澤くんは、自席から移動することは無かった。



 ―――訪れた新人発表会当日。


 今年の新人はどんな発表するんだろう?とワクワクしながら、部内の同僚他社員が、ホール型の会議室に集まってくる。俺も逆の立場だったら、そう思いながら会議室に入室するだろう。

 だが、今の俺は、緊張感どころか、強くピリついた状態となっていた。誰からも大きな指摘無く、つつがなく終わりますようにと願っていた。


 発表会は、部内の新人4人に対し、各新人間でジャンケンなりで決めた発表順としている。発表時間7分、質疑2分、入れ替え時間1分の合計10分となっており、最後に部長から総評をいただくこととなっている。果たして、古澤くんは7分持つのだろうか?

 発表会の司会進行役、時間測定役、議事録担当役は、各メンターが担当する。俺は、司会進行役に抜擢されている。なお、新人とメンターは、発表前までとなり同士になって着席し、発表時になると新人が壇上に上がって説明するスタイルとなる。質問は基本的に新人が応対するが、難しい専門的な内容については、メンターが補足しても良いことになっている。しかし、まったく何も答えられない場合は、部長からの厳しい総評を受けるほか、メンターにも指導が入る。


 ――それでは、XX年度新入社員向け発表会を開始いたします。まずは、○○グループの△△さんの発表となります。皆さん、拍手をお願いします。

 古澤くんは、3番目となっている。最初は一番緊張するし、最後はトリと持つことになるので、これもハードルが上がる。我ながら良いポジションを得たじゃないかと、褒めてやった。

 ――では、質問の時間とさせていただきます。質問のある方は、挙手をお願いします。…はい、部長。どうぞ。

 「あ、どうも部長をやらせてもらってる金原きんばらです。えっとね、まず聞きたいことがいくつかあるんだけど、この問題を見つけたきっかけがよく分からないんだけど、もう一度教えてもらえないかな?」

 あ…。今日の発表会、発表者のレベルに合わせずに、ガチで攻撃してくるタイプだ。これはやばい……。ほら見ろ、隣で古澤くんが振るえているじゃないか…。

 「はい。これは――――――」

 答えた。この子すごいね、部長も意外そうな表情を浮かべている。得点制ではないが、結構高得点を得たに違いない。


 そうこうしているうちに、俺が担当する古澤くんの出番が来た。

 ――それでは、○○グループの古澤さんの発表です。拍手をお願いします。

 ぱちぱちぱちぱち――――――――ん?古澤くんの反応が無い。ポインターを右手に握りしめたまま、スライドが動かず、本人は棒立ちしていた。

 ――古澤くん!始まってるよ!ページめくって!書いてあること読んで!

 「あ、はい。」

 もたついている。明らかにド緊張していることが、見て分かる。ここでいつもの悪い癖が出てしまったか。

 古澤くんは、時間内に発表終了できなかった。まだ長くなりそうだったので、部長と上司にアイコンタクトしつつ、司会進行役である俺は発表中断させた。

 ――えっと、発表の最中ではありますが、時間を過ぎましたので、質疑に移らさせていただきます。質問のある方は挙手をお願いします。はい、部長、どうぞ。

 「まず、時間内に発表する練習はしましたか?」

 「はい。しました。」

 「それだったら、大勢の中で緊張するのは、仕方の無いことだから、今度こういうことが無いように慣れていこうね。」

 部長と目が合った。軽く会釈するしか無かった。

 「内容のほうなんだけど、一言で言うと、何がしたいと思いましたか?」

 あ、それ禁じ手や……。何度も彼に聞いたやつ。でも、一番重要だから、聞かなくちゃ意味が無い。仕事は自分で取ってくるものだし、自分から動かないと意味が無いから。

 「あの…、えっと…。主任とメンターの人から聞いたんですけど、今、協業先の部品と検証方法が違うみたいで…。」

 「うん、それは分かったよ。まぁ、主任とメンターから聞いたって言うのは、聞かなかったことにするけど。」

 だから、なんで俺に目配せしてくるんですか!

 「検証方法が違うと、どうなると思う?」

 「――――――どうなる、ですか…。分かりません。」

 ――すみませんが、見てられないのでメンターの瀬戸から補足説明いたします。我々が日々の日常業務で利用している検証方法ですが、協業化することによって、協業先の検証方法にも則らざるを得ず、設計責任を持つ我々の工数として、単純に2倍の工数が必要となります。だって、2社分の検証をしなくてはなりませんからね。でも、我々には、そんなリソースはありません。彼には、自分からそこに気付いてもらい、統合する案を考え、立案し、2社のボルト担当間で実施いただけるような手はずを考えていました。これは、我々のグループだけではなく、全社的にハッピーになれる案件です。もしかすると、発表会自体は、残念なものとなったかもしれませんが、この案件は、自分の仕事量が抑えることができる可能性を持つものです。お手数ではありますが、我々だけでなく、皆さんも彼のサポートをいただきたく、時には、お手とお知恵をお借りさせていただきたく存じます。よろしくお願いいたします。以上です。

 「分かりました。瀬戸くんがそう言うなら、そうしましょう。」

 ――ありがとうございます。恐縮です。

 古澤くんのほうを見ると、顔を真っ赤にしながら俯いていた。いや、ここまでキミを弁明した俺を労ってくれよ。まぁいいや。


 ――それでは、時間になりましたので、部長からの総評をお願いします。

 古澤くんの総評は、ボロクソだった。そりゃあ、あの内容だもの。理解できている人間が居るのか、逆に居たら不思議なくらいだ。そのくらい、発表会になってもスライドの完成度は、新人であるという色眼鏡で見たとしても、全然駄目なものだった。

 彼の席上資料は、当然のごとく修正されることはなく議事録に添付され、社内システムで人事部門へ報告されることとなった。


 その夜、新人の古澤くんが退勤した後に、上司と主任と俺で反省会をしていた。喪失感しか無い、何も今後につながらないものだった。実は、この”新入社員向け発表会”は、次年度の個人目標に掲げる内容となっており、要するに、今この発表会をもって、彼の個人目標が採択されたわけだ。

 そして、発表会が終わったと言うことは、年度が替わる時期である事を意味する。ようやく、彼のメンターから外れることができるのだ。


 何故だろう。彼のメンターを降りることができるというのに、何も嬉しくない。と言うか、無感情である。いや、むしろ、心の中が、ワラワラとざわめいている。




 帰宅後、俺は、枕に向かっていた。




 ――何で俺がここまで言わなくちゃいけないんだ!


 ――何で俺がここまで庇わなくちゃいけないんだ!


 ――何で俺がここまで仕事しなくちゃいけないんだ!


 ――何で俺ばっかりこんなに仕事しなく社いけないんだ!


 ――何で俺はこんなに疲れなくちゃいけないんだ!


 ――何で俺はこんな無知のクソガキ相手に仕事を教えにゃならんのか!


 ――何であいつは会話すらできないのか!


 ――何でいつも寝てるんだあいつは!


 ――何でのうのうと生きているんだ!


 ――それと比べて俺は何でこんなに仕事をしているんだ!


 ――何で俺ばっかり仕事をしてるんだ!


 ――うあああああああああああああ!!!!!




 叫び、泣いていた。


 すでにお腹に子を宿している聖奈さんが、びっくりしながら背中をさすってくれている。だがしかし、効果は見られない。気休めにもなっていない。何故ここまで感情が爆発してしまったのか。




 ――しに…たい。死にたい!


 ――俺は今何で生きているんだ!


 ――こんなに大変なのは何でだ!


 ――死にたい!死にたい!死にたい!死にたい!




 「死んじゃだめ!」


 聖奈さんが一生懸命に叫ぶ。




 「死んじゃだめ!絶対にだめ!」


 「死んじゃだめだよ!」


 「死んだら何もなくなっちゃうよ!」


 「おとうさん死なないで!こっち来ちゃだめ!」


 「死んじゃだめだから!」




 聖奈さんが、俺を抱いて泣き叫んでいた。



 ―――――ふと、おとうさんと聞こえたが、誰の声だったんだ?何だか懐かしい声だったが。



 ――分かった、ありがとう。一緒に泣いてくれて、ありがとう。止めてくれて、ありがとう。

 「ねえねえ、駅前に精神科の病院、あるらしいよ?」

 ――精神科!?精神科って何やるの!?怖いから行きたくないんだけど。

 「でも、今の状態見ていたら、とても普通じゃなかったよ?一度行ってみよ?」

 ――んー。考えとくよ……。


 翌日、休日だったこともあり、頭の中で整理できた。

 精神科の病院に行こう。余っていた有給休暇の消化がてら、しばらく会社を休むこととした。



<第11節>


 そこは、近所の駅から徒歩2分の好立地にある、精神科のクリニックだった。クリニックなので、病院としてはそんなに大きくはない。耳鼻科とか眼科とか、そのくらいの規模の診療所で、ただ、普通の診療所と違うところは、常にヒーリングソングがBGMとしてながれていることだった。

 妻の聖奈さんが、クリニックに予約の電話を入れたところ、すぐに受診できる空き状況だったこともあり、試しに行くこととなった。


 まずは、クリニックのカウンセラーに、俺の誕生から今までの経歴と、現在起きていること、そして、感情的になって”死にたい”と連呼したことを伝えた。すごく丁寧な臨床心理士に聞き取ってもらっているようで、安心と、心が安堵したのか、涙が出てきた。

 そして、数時間後、精神科の医師との面談が始まった。医師の名は、西脇と言うらしい。お菓子のトッポのような顔つきをした、一見すると隙が無さそうに見える人だ。そこで伝えられた内容は、次の通りである。


 ・病名:うつ状態

 ・診断:1ヶ月の休職が必要と判断する。


 どうやら、”死にたい”という希死念慮と、社会生活に支障を来す(会社に行ってない)ことから下った判断だという。ただ、”うつ状態”と言う中途半端な名前なのは、”実際に死のうとしていないから”と言うことらしい。つまり、包丁がどうとか、紐を見たらどうとか、そういうことを言い出したら”うつ病”に昇格するらしい。ということは、まだ軽傷なのかな?と思いきや、そういうわけでもないようで、重度でも”うつ状態”と判断することもあるらしい。


 まあ、とにかく、投薬治療が始まることとなった。

 これまで嗜んでいたお酒は、一切飲めなくなる。うつ病の薬が脳に作用する薬であるため、アルコール成分はそれを増強させてしまうと言う。つまり、昏睡状態になる可能性を秘めている。さすがに、死にたいと言いつつも、本当に死ねるかと言えば、それはNOなので、残念ではあるが、お酒は金輪際断つこととした。


 会社を休んで1ヶ月が経った。

 投薬治療と言いつつ、まずは睡眠薬でよく寝て、気分が晴れなければ頓服薬を飲むというものだったが、睡眠薬のみの投薬で何となく疲れも取れた気がして、会社復帰を希望した。精神科の医師は、渋々であるが、投薬治療を続けたまま一時復帰することとなった。



 そのころ、妻の聖奈さんは、臨月を迎えており、今は病院の産婦人科で闘っている。俺は、付き添い希望を出したところ、もう看護師から呼ばれてしまった。


 ―――いよいよ出産である。


 呼ばれた病室へ向かうと、戦場そのものだった。

 妻を中心に、医師と看護師が合計5~6名ほど居る。どうも話を聞いていると、すでに破水していて、頭は見えるものの、ヘソの緒を首に巻いた状態になっているようだった。いきみを促すと首が絞まってしまうようで、そう、それはいわゆる難産のようだった。ただし、そこに居た男性医師は、ここの病院の医長らしく、確かに経験豊富そうに見える。

 ――聖奈!頑張れ!ほら、今息吸って!

 ――今だ!いきんで!

 「~~~~~~~~っ!!!」

 医師は、何か器具を取り出している。後から聞いた話だが、頭に吸盤の付いた器具をつけて、体を回転させているらしい。そうして、ヘソの緒を首から解いているようだ。

 ――聖奈!ペースが自分でも分かるだろ?ほら、今は休憩。

 となりの看護師の受け売りだ。こういうのは、”波”があるらしい。

 ちょうど今、看護師から目配せがあった。

 ――ほら今!いきんで!

 「~~~~~~~~~~~っ!!!」

 もう一人の男性医師が、妻のお腹を押し、出産を促す。

 「~~~~~~~~~~っ!!!」



 「んあ~っ!んあ~っ!んあ~っ!んあ~っ!」



 生まれた。あれ?赤ちゃんの泣き声って”おぎゃ~”とか”ばぶ~”じゃないの?

 と、くだらない事を思っていると、カンガルーケアのため、聖奈の胸元に生まれたての赤ちゃんを乗せる看護師。あ、そうだ、カメラ!撮るんだった!このために買ったんだもの!

 ――バシャバシャバシャバシャ

 思い出したかのように、一眼レフを手に取って写真を撮り始めた。


 「お父さんはこちらへ!」

 ――お父さん?

 「あなたの事ですよ!」

 ――あ、そうか。俺がお父さんか。

 タオルで赤ちゃんの体を拭き、感染症予防の点眼をする。そして、目の前に、バケットが載せられた重量計に赤ちゃんを置いて、体重測定を始めた。その間、ビデオカメラも回している。ちなみに、今の俺の手には、右手に一眼レフ、左手にビデオカメラが構成されている。

 ――3249グラムの女の子!

 なんと!標準的!でも、今の時代からしたら、大きい方なのかな?計測し終わると、そのまま看護師さんが何かの用紙にスラスラ書いていく。決まった資料なんかがあるのだろう。次に、軽く体をお湯でゆすぐ。いわゆる、産湯うぶゆだ。

 最後に体を拭き、帽子をかぶせられる。左右の角付きだ。

 「ほらこうして帽子をかぶせると、あらかわいい。」

 ――おお、ほんとだかわいい。

 あらかわいい。のイントネーションが独特で素敵だ。


 ――触っても大丈夫ですか?

 ゴム手袋をする看護師に、ダメ元で聞いてみると、

 「いいですよ。」

 あっさり許可を得られた。ほっぺた、おてて、あんよ。すべてぷにぷにで、かわいい。どうしたら、こんなかわいいものができあがるのであろうか。いや、できないから、子供はかわいいのか。

 「抱っこもしてみますか?こうして――――」

 か、軽い!!3キロってこんなに軽かったっけ?いやしかし、この3キロは、どこかフヨフヨしていてすぐに壊れそうだから、しっかりと抱えていなくてはいけない。命の重みってやつだ。


 そうして、ひとしきり、生まれたばかりの娘に触れて、スヤスヤ眠る姿を見た後、妻の聖奈の居る処置室へ向かった。そこには、真ん中には、戦場の中闘い抜いた後で変わり果てた聖奈と、片隅に食事とドリンクがポツンと置かれていた。そういえば、今は、朝だった。たぶん、これは朝食だと思われる。図らずして2人きりになっているが、別段、変な気は起きない。何故ならば、疲れ果てた妻を目の前にしているからだ。心配でならない。

 ――お疲れさま。大変だったね。

 「いや、確かに疲れたっちゃ疲れたけど、何かすごかったよね。血はドバドバ出るし、男の先生はいっぱい来るし、お腹はぎゅうぎゅう押されて痛いし。看護師さんには、破水したときの羊水かけちゃって申し訳無い気分だよ。」

 ――まあ、それはしょうがないと思うよ。どうしようもないと思う。

 「最初、生まれたとき、どっちに似てるって思った?」

 ――正直、どっちに似てるか分からん、ってのが感想だよ。

 「やっぱりそう思った?私もカンガルーケアで顔を見たときに、どっちに似てるんだろう?って思ったよ。でも顔はあんまりしわくちゃというわけではなかったし、お猿感も案外無かったかな。」

 ――それはそうかも。確かに、顔は、しかめて泣いてたけど、猿ではなかったな。

 「あー。今、すっごい放心状態だよ。そこの飲み物取ってくれる?なんか、自由に食事取って良いらしくてさ。」

 ――これ?はいよ。お茶だけで良い?

 「あー、うん。今お腹の中に入らないから。」


 その後、俺と聖奈さんの両親が来て、生まれた赤ちゃんの顔を見に来た。元々、俺が事前に電話を入れていたもので、案外到着まで早かった。両方の両親とも、目が糸のようになって喜んでくれているようだ。

 妻は、直に個室へ運ばれ、生まれた子供と一緒に過ごす事になった。いつの間にか、日に日に親戚が集まり、パーティー状態になっていた。


 「名前は決まったの?」

 ――そうだね、もう決まってるよ。


 ――理乃だよ。

  「理乃だよ。」


 この子の名前は、理乃りのとして、正式に戸籍受理、登録された。

 この子の事をいつの間にか、”りーちゃん”と呼ぶようになった。



<第12節>


 今、俺はもうアラフォーに突入していた。数字で言えば、35になったところだ。このくらいの歳になると、ちょっとやそっと動いたくらいじゃ、体重は落ちなくなった。加えて、運動する機会も特段無いため、痩せる気配は無い。

 会社生活はと言うと、実はあれから1~2年おきに、1年くらいの長期の休みを取っており、プロジェクト業務の第一線からはすでに外されている。現在は、グループ統括の管理職の仕事を分けてもらい、グループ内予算の策定や、社内での年間計画などの策定を主の業務としている。とは言え、上司である管理職が目を光らせており、非常に業務量を抑えられている。他の管理職からは、早くプロジェクト業務を任せたい旨を言われているらしいが、病が落ち着いてから引き渡すため、私の方で面倒を見させて欲しいと言ってくれている。が、今も三度みたび、休暇申請をしている。


 だいぶ前、俺が”うつ状態”で休んだのが、会社中で大問題となった。あの日以来、代わりになる人物が登場しなかったせいか、人材派遣を2人、中途採用を2人を追加補填するなどして対策したそうだ。しかし、完全な解決には至らず、キーパーソンの入れ替わりによる周囲の目もあり、業務遂行にはだいぶ慎重に事を運ばざるを得なかったようだ。

 そして、残念ながら、俺がメンターを務めた新人の古澤くんは、俺が休んでいる間に会社を辞めたそうだ。同僚社員に聞いてみたら、突然、ひっそりと居なくなったらしい。


 その後、俺は”うつ病”となり、今では”双極2型障害”と診断名がコロコロと変わっている。どうやら、今まで頑張りすぎたせいか、脳へのダメージが多かったようだ。うつ病の薬で気分を持ち上げたものの、今度は、気分が上がりすぎて、お金を使いすぎたり、何かをやっていないと気が済まない状態になった。一般的に、躁状態と思われる自覚症状が発生したということになる。単なる軽躁状態であれば良かったものの、度重なる妻との諍いにこりごりとなり、”妻を殺したい”気持ちが湧いてしまった。

 よって、自覚症状ありとのことで”双極2型障害”の診断名が付いて休職し、投薬の種類を変えて、自宅療養を勧められている。


 今となっては、睡眠薬が欠かせない。自然に眠れるときもあるが、だいたい浅い眠りで悪夢を見る。悪夢というのは、何者かに追われる夢だったり、高所から落ちたりするような、そんな夢である。起きると、だいたい汗をかいていて、息もはあはあ言っている。

 適切な睡眠薬があることで、睡眠導入を促す事ができ、悪夢を見るケースも減らす事ができる。また、現在は、脳が休眠を欲しているようで、日中も眠気がひどい。1日12時間ほど寝ている事が最近多くなってきた。


 会社を休んでいる最中は、健康保険の手当で生活する事となっている。よって収入が少ないため、妻の聖奈が、給与補填のためにパートに出かけている。子供は、娘の理乃、りーちゃんが、保育園年長でそろそろ小学校に上がるタイミングだ。




 ある日の夜、夢を見た。




 「一希さぁ、いつもそんなことしてるけど、面白いの?」

 ――え?面白いからやってるのに決まってんじゃん!

 「なんで?」

 なんで?かあ。急に、なんで?と聞かれても、即興で答えられるものを持ち合わせていない。

 ――なんでだろう?反応が面白いから?それ以上でもそれ以下でも無いんだけどさ。あまり深い意味は無いよ。だってカンチョーだもん。あ、ちなみに、深くするのは指の腹までだよ。一緒にする?

 「いやいいよ、遠慮しとく(笑)」

 笑いながら断られた。なんかちょっとショック。




 あれ?




 「一希ってさ、嫌いな科目多すぎない?なんか勉強手伝ってあげようか?」

 ――実希は頭良いからいいよな、俺なんてまったく付いていけないわ。どうしたら、そこまでできるの?

 「ああ、そういうのは写真記憶的に覚えるんだよ。ページを見て、それで覚える。」

 ――ん??どうやって??

 「こう、教科書開いて見るじゃない?で、ほら、覚わった」

 え?何が?もしかして、今ので!?一瞬過ぎないか?お前さんさすがにそれは、ハードモードすぎないか?俺はそのレベルには無いぞ?

 ――試しに、1つ何か証明してくれないか?ノートの空きスペースだけは、いっぱいあるからさ。

 「いいよ。ここがこうして―――」

 ノートの隙間にスラスラ書かれる文字は、女子の字そのもので、ものすごくかわいらしいものだった。しかも、最後に何かのキャラクター?とハートマークまで書いてくれていやがる。これは、何と言うか、勘違いする。危ない。もうこの場で、好きだ!と言いたい。

 ――どうやらそちらにおわす方は、天の神様のようですので、拝んでもよろしいでございますか?まぁ、何と言うか、こう、手を合わせるだけだから。

 「なにそれ、私まだ死んでないよ?」

 ――それはそう。長生きして。

 「ありがと。」

 たわいも無かった。




 え?




 「かずくん!かずくんでしょ?そうだよね!この前、□□□で写真撮ってたの!」

 ――え、あ、うん。そうだよ、よく覚えてたね。と言うか、君は誰だっけ。

 そう言うと、むすーっと顔を膨らませて。

 「あのとき□□□に居たんだけど!」

 ――ああ、そういうことね。そうだったね、分かったよ。えっと。あ、思い出した。深玖みくちゃんだっけ。どうしたの?

 「深玖でいいよ。かずくんが見えたから、ついこっちまで走ってきた!」

 ――アグレッシブな心は良いことだけど、廊下は走っちゃいけません。

 「――はい。すみません。」

 ――いや、そんなに落ち込まなくても良いよ。これから移動教室だから、また後でね。

 「はい!じゃあまた!」

 深玖ちゃん、本当に女の子らしくてかわいいかったなあ。




 ん?何だこれは?




 ――□□□忘れた、持ってる?見せて。

 「いいよ。仕方ないなあ。」

 ”彼氏彼女ゴッコ仲間”の美步だ。本命バレンタインのチョコクッキーと、本命ホワイトデープレゼントを渡し合った仲だ。今日は、その美步が隣に居る。今更言うのも何だが、□□□が忘れたなんて嘘だ。

 ――久し振りじゃん。元気にしてる?

 「なに、世間話から始めるの?□□□忘れたんでしょ?ほら、見てなよ。」

 ――つれないなあ。怒ってるの?

 「違うの。今□□でしょ。誰にでも聞こえる声で喋らないで。」

 「そこ、とりあえず静かにしなさい。」

 □□の先生に叱られた。粛々と□□をこなすのだが、何となくぎこちなく感じる美步に、どうしたの?と聞いてみたが、特に何も反応が無かった。




 これ、どこかで見たことある。

 ―――でも、何でか、思い出せない。




 「ねえねえ、そういえばさ、一希のことで少し時間もらって良い?放課後で、皆帰ってからこの教室で伝えたいんだけど。」

 ―いいけど、何かあるの?

 「ひ・み・つ!」

 なんだか隠す気が無い含みのある言い方だ。何があるんだろう?ドッキリか?実希からの突然の誘いだった。

 「本当に来たんだね。」

 ――そりゃまあ、呼ばれたし、一応来たよ。

 「そんなに緊張すると、こっちも伝えづらいじゃん。まずは、落ち着いて。」

 こんなの、落ち着いていられるか。わざわざ教室の窓をすべて閉め切って、扉も閉めている。

 「じゃあ、早速伝えておくね。あのさ・・・。一希のことが好きだって言う女子がいてさ。」





 ―――――ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー………。





 急に、景色が暗転したとともに、頭の中に巨大なノイズ音が響き渡った。




 程なくして、徐々に明るく白い空間が広がる。



 そして、目の前に、突如ぼんやりと、一人のボーイッシュな美少女の姿が現れた。






 ―――実希……なのか……?





 ―――俺は、実希のことが、好きだった?






 「――――おとうさん!!――――おとうさん!!!」



 「おとうさん!だめ!こっちに来ちゃだめ!こっちに来ちゃだめなの!!」



 ――この声は……?もしかして、理乃?りーちゃんなの?りーちゃん、どこに居るの?





 「おとうさん……ひぐっ、こっちにきちゃいやなの……。」



 ――何?待って、りーちゃん。何で泣いてるの?急にどうしたの?ここはどこ?何でりーちゃんがいるの?こっちに来ちゃ嫌ってどういうことなの?教えて?りーちゃん。





 「おとうさんは、このひとをみちゃだめなの。」



 ――そうなんだ。





 「おかあさんと、いっしょにいなくちゃいけないの。」



 ――おかあさん?ああ、おかあさんね。りーちゃんの。おかあさんか。





 「おとうさんは、おかあさんといっしょなの。」



 ――うん。それは、聞いたよ。





 「おかあさんと、なかよくしてほしいの。」



 ――おかあさんって、何だっけ?誰だっけ?おとうさんは俺のことだよね。おかあさんって何のことだったっけ。





 「おかあさんは、おかあさんだよ。」



 ――え? ん……いっ………。


 急に頭痛のような、よく分からない痛みのような目まいのようなものが襲ってくる。






 「おかあさんだよ。ほら、いつもいっしょにいるよ。」



 ――待って、りーちゃん。分かる、分かってるよ。ちょっと待ってね…。





 「おとうさん、なにもわかってない。おかあさんだよ?おかあさんは、おかあさん。」



 ――りーちゃんは、何を言っているんだ?





 「おかあさんは、せな。だよ。」



 ――せな?あっ!聖奈!聖奈だ!!



 その瞬間、急激に目の前に発生した渦巻きのようなものに吸い込まれ、暗転した。どうやら、気を失ったようだ。




<第13節>


 ふと、目が覚めた。長い夢を見ていたような気がする。寝ていた時間は、いつも通りでたぶん年相応な気がする。最近だと、よく寝て10時間くらいか?

 

 人は、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すと言う。体と脳を休ませ、疲労回復や免疫機能の調整、成長ホルモンの分泌などで体の回復させる役割を持つノンレム睡眠。その後に、脳内の記憶の整理や、感情の処理のためのレム睡眠に入ると言われる。個人差はあるが、約90分間隔で繰り返すとされる。このうち、夢を見るのは、レム睡眠だ。しかし、一晩に10時間も寝ていたら、いつどこがレム睡眠、ノンレム睡眠なのか、分からなくなってしまう。夢も覚えているような、覚えていないような、そんなのばかりだ。


 いや、そんなことはどうだっていい。さっき見た夢。夢?あれは、夢なのだろうか?すごくリアルな夢。夢と言うよりも、昔の学生時代の追体験のような、そして、成長した娘の姿。高校生に上がるくらいの、未来の娘だ。あれは、夢だったんだろうか。

 ハッとして横を見渡すと、当然のごとく、幼い顔のりーちゃんと、妻の聖奈も寝ている。今は朝6時になるところだ。エアコンの暖房をかけっぱなしにしているのでさほど寒くは無いが、冬ではあるので、少し肌寒い。それはそうだろう、俺は季節関係無く、いつも半袖で寝ているからな。元日から1週間が経過した、そんな休日の朝だった。


 後で、りーちゃんに聞いた話である。

 「ゆめ?んふふ~。おもち食べたのなら見たよ~?」

 どうやら、りーちゃん本人とは、リアルな場で会っているわけでは無いらしい。そうしたら、あの成長したりーちゃんと思われる子は誰だったんだ?そして、何のために、あんなものを見させられたのだろうか?


 「そうだ、このまえ、あるいてじんじゃにいったでしょ~?そのときに、おねがいしたんだよ~」

 ――神社でお願い?何のお願い事をしたの?

 「おとうさんとおかあさんがすきだから、ずーっといっしょにいられますよーにって。」

 俺は、ついハッとした。となりに居た聖奈も同じ反応をしていた。もしかしたら、俺の病気が悪化して、聖奈とよく諍いを起こしていたことを、りーちゃんは、仲が良くないと思って、よく見ていたのかもしれない。いや、確かに、その時は、喧嘩するくらいには仲は良くなかったんだけど。まあ、それは置いといて。

 そして、それを回避するように神に願った、ということになるのか。


 ――りーちゃん、ごめんね。心配掛けてごめんね。本当に、ごめんね。

 「おとうさん、なんでないてるの?いいよぜんぜん。」

 しばらく、娘を抱きしめて、俺は泣いていた。


 ――聖奈、ちょっといい?

 「ど、どうしたの?」

 ――いや、ビビらなくて良い。と言うか、俺の方がビビっている。今日、休日だよね?これから、初詣に行った神社、もう1度行ってみない?

 「あ、分かった。私もそうした方が良いと思ってた。準備しよ?」


 到着したこの神社は、本年2度目に見る場所だ。ひときわ目立つ朱色の鳥居で、木々や社の装飾などが、よく手入れされているように見える。

 この前に行った床屋のおじさんから聞いた話だが、この神社は、元々、県外にある神社の分社にあたるらしいが、この地域の成り立ちから、分社化されたと聞いた。

 元々この地域は、田畑の多い地域だった。同時に工業地帯でもあったため、高度成長期頃、ここから少し離れた場所に大規模工場ができた。しかし、工場で働くと言うことは、住む場所が必要ということになる。そこで、この地域の田畑は、自治体が買収し、ベッドタウンとしての役割を持たせるために、宅地化した経緯があるという。この国は、信仰心もそれなりにあるため、神社仏閣も参入した。その結果として、今ここに居る神社が建立されたわけである。

 ここの神社は、元々、学業成就、商売繁盛、厄除け、縁切りなど、そんなに物珍しいものは無い。至って普通の神社だ。



 今日は、ここで、お礼を言わないといけない。



 ――皆そろった?100円玉入れるよ。2礼2拍手1礼だからね。いくよー。


 チャリン。ぱんぱん。


 ―――先日は、娘の願いを叶えていただき、ありがとうございました。今後は、娘に心配かけぬよう、心掛けていきます。




 その瞬間、心臓がドクンと脈打つような感覚に襲われた。





 ――――――そなたが、そう願うならば、そのように致そう。子を大事にするのだぞ。子は大切だぞ。そなたも小童こわっぱ同然だが、そなたよりも大事であることに気をつけなさい。叶えた願いは、受け取った。もうよいぞ。




 ハッとして横に目をやると、聖奈とりーちゃんが、いつまでそうやってるの?と言う感じで見ていた。


 ――あ、ごめんごめん、神様とお話ししてた。ごめんね、すぐ退かなきゃね。


 つい嘘付いて言ってしまったが、いや、これは、あながち嘘ではないぞ。ここの神様らしきもの?と会話してしまった。いや、どちらも一方的に、喋りっぱなしだったので、会話には入らないか。いやいや、そんなことどうでもいい。脳ミソに、直接話し掛けてくる感じだった。テレパシーってやつ?


 どうして、こんなにも妙な事が続くんだ?




<エピローグ>


 ここから先の話は、特に何も無い。と言うのは、何ら平和な日常を過ごしているからだ。いや、病気は治っていない。引き続き、”双極2型障害”と言う診断を受けており、今も休暇申請中の身である。しかし、精神科の医師によると、確実に快方には向かっていってるらしい。


 これは後日談になるのだが、元旦の初詣と、その1週間後に行った神社は、他県の神社から分社化したと言った。噂によると、子供の願いをとことん叶う事で有名で、かつ、ネット上には、根も葉もない嘘の情報だとは思うが、「夢に良く出てきます」「私もそんな事がありました」「本当に不思議ですよね!」のようなやりとりが、散見されている。何と言うか、いろんな意味で神格化されていることで有名な神社らしかった。


 だったら、何故、ここの神様は、学生時代を追体験させるような事をさせたんだろうか?これは俺なりの推論だが、簡単な事だ。たまたま俺の過去の記憶の中では、学生時代が一番輝いているように感じていたんだ。でもって、それをリアルな体験としてあぶり出しているだけだろうと思った。確かに、学生時代、こと中学時代では、俺は結構モテていたらしい。もう過去に出会った女子の話はしないが、その中学時代の女子本人がそう言っていたんだから、間違いでは無かったのだろう。


 となれば、あとは簡単さ。

 俺に託された今後の人生は、過去の未練は捨てて、愛する妻の聖奈と、愛する娘の理乃に捧げること。そして、誰からも心配されず、できる限り幸せな家庭を築いてみせることだと。



終わり。(以下余白)

 ここまで3万字ほどの長文を読んでくださり、お疲れさまでした。稚拙な文章でしたが、いかがでしたでしょうか。感想や、この認識はどうなの?等の疑問がありましたら、気軽にお問い合わせください。お待ちしております。

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