第44話 深淵に灯るもの
氷の霧は、静かに薄れつつあった。
戦いの終焉とともに、霧氷の迷宮もその沈黙を取り戻していた。
──そして三人は、ついにその地へ辿り着く。
白く凍てついた階段を、ゆっくりと降りる。
足元に響く足音は、やけに静かだった。
「……ここが、10階層の奥、最終層……」
ユイが呟いた。
その先に広がっていたのは、いままでとは明らかに異なる空間だった。
天井も高く、空気も動いている。そしてなにより、“霧が存在していない”。
「おかしいわね……この迷宮は、霧氷が満ちているのが特徴だったはずなのに……」
ルミの警戒心が高まる。
迷宮の支配領域に異変が生じているのは、間違いない。
「この階層……妙に、温かい……?」
ユイが、そっと床に触れる。
氷ではなく、岩肌。霜すら張っていない。
「ルーファス、ここ……本当に同じダンジョンなの?」
「いえ、雰囲気も構造も、ここだけ“切り離された空間”のように見えます。地脈の流れもまるで別……いえ、逆流しています」
ルーファスは視線を奥へ向けた。
中央に、古びた石造りの台座が見える。
その上に載っていたのは──
「……なにこれ……?」
ユイが手を伸ばそうとするが、ルーファスが静かに制止する。
「待ってください、ユイ様。それは……“残滓”です。恐らく、この迷宮の“核心”だったものの痕跡」
「もう……壊れてるの?」
「壊された、可能性が高いです。人工的に、もしくは──外部からの干渉で」
重苦しい沈黙が場を支配する。
この迷宮は、誰かに“破壊された”のか。
「まるで……力だけ奪われて、空っぽになった箱みたい……」
ルミの言葉に、ユイが思わず振り返る。
──迷宮の最奥で得られるはずだった報酬も、知識も、何も残っていない。
ただひとつ。
空間の中心に、ぽつりと光が瞬いた。
「……?」
ユイが気づく。
その瞬間、空間が微かに歪んだ。
次の瞬間、目の前の空間に刻まれたように──“紋章”が浮かび上がる。
氷の紋章。
それはヒュドラの心臓部で見たものと、まったく同じ意匠だった。
「ルーファス! これって……!」
「っ……残留魔力ですな。ですが……これは、“あの時のヒュドラの核”ではありません。似ているが、格が違う……これは、“転送用の紋章”」
その瞬間、空間の中心に、ぽたりと落ちた“黒い雫”。
それは魔力でも、霧でもなかった。
何かもっと、原初的で“禍々しい気配”を帯びていた。
「なに、これ……」
ユイの中で、契約の力が反応する。
彼女の胸の奥で、淡い金の光が震え始めた。
(ちがう。これは──危ない)
身体が自然に、後退しようとする。
そのときだった。
“視られた”という感覚。
何かがこの場にいて、ユイたちを“確かに見ている”。
それが現れることはなかった。
けれど、明確に“接触”の痕跡だけが残された。
それは予兆。
この迷宮の最深で、何者かが“意図的にヒュドラを再生させていた”可能性を示す証。
「これは……単なる試練じゃなかったのね」
ルミの声は、低く震えていた。
そしてユイもまた──その異常さに気づいていた。
このダンジョンは“調律されていた”。
誰かが、彼女たちをここに導いたようにすら思えるほど、すべてが整っていた。
(次に待つのは、もっと……)
「戻ろう」
ユイの声に、ルーファスとルミが頷いた。
「まずは報告と、整理を。……そして次の対策を」
霧氷の迷宮、踏破完了──
だが、その裏で蠢く気配が、確かに存在した。
決戦の幕は、すでに上がり始めているのかもしれなかった。




