第35話:契約の証と、新たな一歩
セーフティエリアの空気は、どこかしら凛と張りつめていた。
契約が完了した後、ルミ――かつてのミルは、ふたたび獣の姿に戻ってユイの足元で丸くなっている。けれど、その存在は確かに変化していた。
ユイ自身も、変わったと感じていた。
体の芯に熱のようなものが宿っている。魔力の流れは滑らかに、そして力強くなり、呼吸に合わせて自然と練られていく。指先に魔力を集めるだけでも、以前の何倍もの制御と出力ができた。
「ユイ様、本日の訓練はいかがなさいますか?」
ルーファスが手帳のようなものを手にしながら、いつもの執事口調で尋ねてくる。だがその腕には、さっきまで着ていた服と一緒に洗濯されていた自分自身の尻尾の跡が残っていた。ふわふわの白毛が少し縮んでいる。
「その前に、洗濯の件は……ルーファス、次から魔法使おう?」
「わ、わたくし、自力で干すことに誇りを……あっ! 洗濯物に潰されたのは誤算でございます、はい……」
ほんの数分前、セーフティエリアの隅で山のような洗濯物の下敷きになり「もごごっ……ユイ様ァ……」と呻いていたのは記憶に新しい。
そんなルーファスに、ルミは尻尾をぱたんと打ちつけて冷たい視線を向ける。
「それより……戦ってみようよ」
ユイの言葉に、空気が少し変わった。
ルミが起き上がる。黄金の目が静かに光る。
「――契約後、初めての戦闘になるね」
「キュイッ!」
ルミはひと鳴きし、鋭く頷く。
◇ ◇ ◇
六階層――それは第五層までの常識が通じない、別世界だった。
まず、温度が違った。薄く凍りついたような空気に、霧がたちこめている。足元は滑りやすく、天井からは不規則な氷柱が垂れていた。
「転倒注意、ユイ様。ここは滑ります」
ルーファスが手を伸ばし、氷の上に魔法で簡易マットを展開する。ほんの一瞬の操作だが、動作に一切の迷いがない。
そこに――
氷の奥から、複数の赤い目が灯る。
「……来た!」
ユイは咄嗟に魔力を練る。反射的に空気が震える。
霧の中から現れたのは、三体の爪を持つ狼型の魔物。毛皮の一部が氷に覆われ、動きが機敏かつ鋭い。分類でいえばCランク級の中位魔物。
「こっちは任せて。ルミ!」
「了解!」
返事とともに、ルミの姿が霧の中に消える。風のような速さだ。しなやかな体が音もなく跳躍し、霧の中の一体を強襲する。爪の一閃が氷の毛皮を裂き、血が飛ぶ。
だが、敵はそれでも立ち向かってくる。
「ユイ様、後方から!」
「わかってる!」
ユイは「再構成」を展開。
手のひらに魔力を収束させ、形を与える。以前は“落とす”しかできなかったその魔法が、今は“放つ”こともできる。
「マジック・シュート:スパイク!」
光の矢のような魔法が飛び、敵の足元に直撃する。凍った床が割れ、バランスを崩した狼型魔物が倒れる。
「そこ!」
ルミがすかさず飛びかかり、喉元に一撃を加える。
ルーファスも、反対側で氷の障壁を展開しつつ、魔力弾を打ち込む。
「我が仕えし主に道を開け、『ライト・バースト』!」
光の球が敵を打ち、怯ませる。
戦闘は、数分と続かなかった。
三体は連携の隙を突かれ、全て倒された。
静寂が戻る。
ユイは、ゆっくりと息をついた。
「……わたし、強くなったんだね」
「はい。成長の成果でございます」
ルーファスは小さく頷く。そして――ふわりと落ちてきた氷柱に頭をぶつけた。
「ぬ、ぬぁっ!? ああっ、いや、今のは計算内……!」
尻尾が震えている。
ルミは呆れたようにため息をついた。
◇ ◇ ◇
セーフティエリアの焚き火で、三人――いや、二人と一匹は、静かに休んでいた。
戦闘で得た素材は丁寧に保管され、ユイの圧縮袋にしまわれている。
ルーファスが小さな鍋にスープを用意しながら、ふと口を開いた。
「本当に……頼もしくなられました。あと三年でどれほど強くなられるか、私も楽しみです」
ユイは、火を見つめながら答える。
「うん。でも……今でも、少し怖いよ。これからもっと、強い魔物が出てくるんだもんね」
「その恐れを忘れぬ限り、あなたは決して折れません」
ルミがユイの膝の上に頭を乗せた。
「私たちは、もう一人じゃないから」
その言葉が、ユイの胸に温かく響いた。
そして彼女たちは、次なる階層――第七階層へと、静かに歩を進めた。