第32話「霧氷の迷宮、白き吐息と蒼の牙」
氷に包まれた山道を越えた先、霧が渦巻く裂け目のような洞窟の入り口に、ユイたちはようやく辿り着いた。
そこは「霧氷の迷宮」と呼ばれる北のCランクダンジョン。グリュン曰く、初級者向けとは言えない“地獄の入口”である。
「ついに着いたね……」
足元に氷が張り、空気は刺すように冷たい。ユイはマントの襟元をぎゅっと掴み、息を吐いた。吐息が白く凍る。
「ここからが本番です、ユイ様! 私、準備万端でございますよ!」
浮遊しながら胸を張るのは、グリュンの分身――20cmの狼獣人ルーファスだ。小さな体に似合わぬ大声と自信に満ちた仕草が可笑しいが、彼の目は真剣そのもの。
「私が用意した保存食は高タンパク・高カロリー・高魔力補給。小さめですが、栄養は満点!」
「小さめ……?」
ユイが覗き込むと、そこには一口サイズのミートパイやら極小サンドイッチがきれいに詰められていた。明らかにルーファスサイズ。
「……これ、全部あなたのサイズじゃない?」
「……あっ」
ミルが「キュイ……」と呆れたように鳴く。その後ろで、先日洗濯中に布団に押し潰されていたルーファスの姿が脳裏に浮かび、ユイは苦笑を堪えきれなかった。
「食事も掃除も、全部魔法で済ませばいいのに」
「そ、それがですね……魔法で自分だけ快適になるよう調整しておりまして……その、他の方々の温度や湿度は……」
再びミルがため息をつく。
その日の夜、ルーファスがグリュンに魔法伝達で怒鳴られたのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇
迷宮に入る前夜、ユイはミルと焚き火の傍で話していた。
「ミル……あの時、すごく悔しそうだったよね。あんなに、必死に戦ったのに……」
「……キュ」
「でもさ。私たち、契約すればもっと強くなれるかもしれないって、あの時思ったの。……まだ、してないけど」
ミルは黙ってユイの手をぺろりと舐める。その舌先が、微かに温かかった。
――実はもう、ミルの中では準備は整っていた。けれど、まだ言葉にはしない。タイミングを見て、ちゃんと伝える。今はそれだけでいいと。
◇ ◇ ◇
ダンジョンの入り口。
目の前には白い靄。そこに立つだけで体温が奪われるような感覚が広がる。
「では、いざ……入場!」
「うん、行こう!」
ユイとミルが足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。
冷気と共に、辺りが一気に暗くなり、足元には凍った地面が広がった。
ルーファスが魔法光源を展開する。彼の手元に浮かぶ小さな光が、前方をぼんやりと照らす。
「この階層は霧と氷に覆われた迷路です。モンスターはE〜Dランクの氷獣、時折、霧に紛れて不意打ちしてくる者もおります。ご注意を」
道を進むと、すぐに第一の敵が現れた。
――白狼のような姿の霧獣。
足音もなく近づいてきた獣は、背を低く落とし、ユイたちに襲いかかる。
「ミル、右!」
「キュッ!」
跳躍するミル。空中からの斜め突進で獣の視線を逸らす。
ユイは魔力を集中し、手を前に突き出した。
「マジック・スロー!」
彼女のユニークスキル――『再構成』で錬成された氷槍が発射される。これは今、彼女が習得しようとしている新たな応用技。従来の“落とす”から“飛ばす”へと変化させるべく練習を重ねていた。
氷槍は獣の肩を貫いたが、完全には倒れない。
「連続で……!」
だが、魔力消費は想像以上だった。ユイの額に汗が滲む。
「ミル!」
「――ッ!」
俊敏なミルが飛び込んで追撃。獣の喉元に爪を当て、ようやく討伐成功。
「はぁ……なんとか、ね」
ユイの膝が軽く震える。魔力管理がまだうまくいかない。だが、それでも倒しきれたことに確かな手応えを感じた。
――この迷宮は、二人にとってただの修行場ではない。
「生きる力」を鍛える場所。そう、グリュンは言っていた。
ルーファスは浮かんだまま静かに呟く。
「一歩ずつでございます。ですが、一歩が確かならば、いずれたどり着けます。お二人なら……必ず」
白い霧の奥で、次なる敵が牙を研いでいた。
ダンジョンの旅は、まだ始まったばかり――。