第29話:目指すは北、始まりの迷宮
小屋の窓から射し込む柔らかな光が、静かな室内を淡く染めていた。
寝台に横たわるユイは、まだどこか身体の芯に残る疲労感を抱きながら、天井の木目を見つめていた。魔力の枯渇による反動は重く、回復魔法をいくら重ねても、内側からくる虚脱感が消えることはない。ミルも隣のクッションで丸くなり、浅い眠りを繰り返していた。
あの戦いの代償は、大きかった。
ふいに、軋むような足音が聞こえた。やがて、グリュンが姿を見せる。いつもの長杖をつきながら、無理を押して歩く様子だった。
「調子はどうじゃ、ユイ。……まあ、顔を見る限りではまだ本調子とはいかぬか」
ユイはかすかに微笑み、小さく頷く。
「うん、でも……ミルも、少しずつ良くなってきたよ」
「それならよい」
グリュンは深く息をつくと、静かに座った。
「さて。今日は大事な話がある。お主らの、これからの話じゃ」
その言葉に、ユイの背筋が自然と伸びる。ミルも耳を動かし、目を開けた。
「前に言ったな、“節目”だと。……ユイ、おぬしはあと三年で八歳になる」
「うん……」
「人間の魔力量というのは、成長期にこそ最も伸びる。とくに八歳までは、いかに魔力を練り、扱い、器を広げるかが鍵となる。今ここで積む経験が、十年先、いや人生そのものを左右する」
ユイの顔に、自然と緊張が走る。
「おぬしには、それだけの資質がある。そして、支えるミルもな。だからこそ――次なる修行の場を用意した」
グリュンは、壁にかけられた古い地図を広げた。
北の山脈の端に、白く囲まれた印がある。
「“霧氷の迷宮”と呼ばれる場所。Cランクのダンジョンじゃ。雪と氷に閉ざされた地形、魔物の属性は氷系と風系が中心じゃろう。厳しい環境と、今までとは異なる敵。おぬしらには丁度いい」
ミルがぴくりと反応した。耳を立てたまま、じっと地図を見ている。
「まずは北。次に南に位置する“紅焔の谷”(Bランク)、その後は西の“古代樹の回廊”(同じくBランク)……そして最後は、東の“虚空の神殿”。あそこはAランク。正直、そこは踏破できまい。だが、それでいい」
「……順番に、強くなっていくために?」
「うむ。森の主に対抗するには、そのくらいは最低限必要になる。……いや、それでも足りぬかもしれん」
ユイは唇を噛んだ。
思い返す。森の中でのあの戦い。あれはまだ“斥候”にすぎなかった。それでも、自分たちはギリギリだった。
その“本体”が動く時――
「……グリュンは、森からは離れられないんだよね」
「その通りじゃ。わしは番人。森を離れるわけにはいかん。……じゃが、出発の時には“代理”を紹介する」
「代理?」
「うむ。詳しいことは、その時に伝えよう」
――分身。
ユイにそう名乗ることになる存在。
だがその詳細は、今は語られなかった。
それが、“決意”を鈍らせぬための、老獣人のささやかな優しさだった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ユイはベッドの上でミルの柔らかな背を撫でながら、そっと囁いた。
「……私、もっと強くならなきゃだよね。ミルを守るためにも。自分を守るためにも。そして……森を守るためにも」
ミルは「キュ……」と弱く鳴いた。けれど、その声はどこか落ち着いていた。まるで、何かをすでに決めているような――そんな響きだった。
(……契約したんだ、ミルと。きっと、もう私は一人じゃない)
魔力の共鳴を感じる。
あの戦いの直後、確かにミルと意識が繋がったような感覚があった。あれは、ただの偶然ではない。きっと、何かが変わった。
“共感”。
グリュンが言っていた。契約とは、魔力の繋がりであり、信頼の証だと。
(ミル、ありがとう。絶対、守るから)
小さな誓いを胸に、ユイは目を閉じた。
出発まではあと一ヶ月。
その間にできることは限られている。
それでも。
この痛みを乗り越えて、きっと自分は――
強くなれる。
そう、信じていた。
静かな夜。
森は凍てついた静寂の中で、少しずつ季節を変えていこうとしていた。




