第25話:咆哮、届かぬ牙
怒りが、胸を焦がしていた。
助けたはずの羽の生えた獣たちは、あまりにあっけなく、残酷に殺された。
目の前で子を喰われ、親は泣き叫び、そしてそのまま叩き殺された。
それを行ったのは、かつて見張っていた熊型の魔物――いや、“森の主”の一族。
その末端の斥候でありながら、あまりに格が違いすぎる存在だった。
その場を後にしようとしていたその魔物の背に、ユイは叫んだ。
「まって!!」
声が震えた。悲しみと怒りと、悔しさで喉が張り裂けそうだった。
ミルが唸り声を上げ、並ぶようにして構える。
「あなたを……見逃すつもりなんて、ない……!」
背後からの呼びかけに、クマ型の魔物はようやく立ち止まる。
巨体がゆっくりと振り向き、金の瞳がふたりを見下ろした。
瞬間、空気が震えた。
膨れ上がる魔力の圧。ユイの心臓がぎゅっと縮む。思わず足がすくみそうになる。
でも、下がらない。
「ミル……いこう」
ミルが軽く鳴いた。「キュイ」。
それは、決意の音だった。
ユイは鉄の棒を構え、魔力を集中させた。
相手がどれだけ格上でも、今は――負けるわけにはいかない。
「――ライト・インパクト!」
光の魔法を杖代わりにした棒の先から放つ。魔法の衝撃が爆ぜるように飛び、クマ型の魔物の腹を直撃する。
が。
――微動だにしなかった。
「……っ!」
続けざまに放つ。
「ウィンド・スラスト!」
風の刃が十字に交差し、肩口から脇腹を狙う。ミルも同時に側面から突進し、鋭い爪で切り裂く。
それでも。
クマ型魔物の身体には、かすり傷一つ残らなかった。
毛皮すら、乱れていない。
「っ……!」
ユイは息をのむ。
回避はされていない。確実に“当たっている”。
なのに、効いていない。
(通じない……攻撃が……)
ミルが反撃を受ける前に跳躍し、ユイの背後に回り込む。
クマ型魔物は動かない。まるで、様子を見ているようだった。
「この程度か」と言わんばかりの、見下した視線。完全な格下として認識されている。
それが、屈辱だった。
「……まだ、だよっ!」
ユイは自分を鼓舞するように、再構成スキルで短剣を生み出す。
魔力の消耗を無視して、手にした鉄の棒と合わせて左右二刀で突進した。
ミルも後方から跳び、木の枝を踏み台にして角度をつけて斜めから攻撃。
だが――
その一瞬。
クマ型の魔物が、巨体に似合わぬ速さで動いた。
左腕のような前足が、横薙ぎに振るわれる。
「――っミル!!」
ユイが叫ぶより早く、ミルの身体が空中で捕らえられ、弾き飛ばされた。
「ドンッ!!」
木が軋み、幹が裂ける音がした。
ミルが、木に叩きつけられ、地面に落ちる。
「ミルっ!!」
駆け寄るユイ。
ミルはよろよろと立ち上がろうとするが、右脚が完全に力を失っている。体毛は血で染まり、呼吸も浅くなっている。
「キュ……」
「大丈夫……! 大丈夫だから……!」
ユイは震える手で回復魔法を展開する。
「リカバリー・フィールド!」
光の魔法陣がミルの体を包む。骨折の修復は一部追いつかない。だが、最低限の命の炎は戻る。
それでも、ミルはもう戦えない。
ユイの中で、何かが崩れた。
怒り。無力感。恐怖。
そのすべてを握りしめて、ユイは立ち上がる。
「許さない……絶対に、許さない……!」
目の前のクマ型魔物は、なおも笑っていた。
舐めきった、獣の嗤い。
“虫けら”を見る目で、ユイを見ていた。
ユイは足を前に出した。
膝が震える。
喉が乾く。
でも、進む。
(私は……負けない。たとえ通じなくても……あの親子のために……ミルのために……!)
鉄の棒を両手で構えた。
「……全力でいくよ」
その瞬間、ユイの中にチュートリアルの声が響いた。
《ユイ様。危険です。現在の戦闘能力では勝算は著しく低い。全スキル使用を推奨》
(……全部、使って……なんとかする)
《……健闘を祈ります》
ユイは目を閉じ、一つ深く息を吸った。
そして、目を開いたとき――
彼女の魔力が、今までにないほど研ぎ澄まされていた。
――空気が、変わった。
ユイの周囲に漂う魔力が、色を持ったかのように肌を撫で、波打つように地を震わせる。
風が巻き、落ち葉が宙に浮かぶ。光の粒子がきらめき、彼女の瞳に力が宿る。
それを、クマ型の魔物も感じ取った。
初めてその金の瞳が、わずかに細められる。
ようやく、“脅威”として認識したかのように、重い足音を立てて正面へと向き直る。
その巨大な体は、まるで黒曜石の塊のようだ。
「……魔法、全部、使うよ……」
ユイは呟く。誰にともなく、あるいはミルに。あるいは、自分自身に。
「ファイア・ランス!」
燃え上がる赤の魔力が、炎の槍として魔物の胸へと突き刺さる。
――しかし。
爆発のような衝撃が起きるも、クマ型魔物は一歩も動かない。焦げた毛皮が少し黒ずんだだけで、傷もない。
「っ……じゃあ、これなら……!」
ユイは連続して詠唱する。
「アース・スパイク!」
足元から岩の槍が飛び出し、膝を狙って突き上げる。
「アイス・ブラスト!」
冷気を凝縮した氷弾が、側面をえぐるように撃ち出される。
それでも――
まったく効かない。
(なんで……なんで……!!)
魔法が当たっている。命中はしている。
だが、どれも通らない。あまりに頑強すぎる。あまりに巨大すぎる。
魔力の差、身体の密度、そして何よりも経験。
目の前の魔物は、あらゆる意味で“完成されている”。
それを、五歳の少女が打ち崩せるわけがなかった。
けれど。
「まだ、やる!」
ユイは叫ぶ。恐怖を押し殺し、前に出る。
右手に鉄の棒。左手には再構成で作り出した鉛のナイフ。
魔法を重ねがけして、速度と腕力を強化。
「ハイ・ブースト、ダブルエッジ!」
走る。踏み込む。跳ぶ。
回避されないよう、予測不能な軌道で突撃。棒でフェイントを入れ、逆のナイフで斬りかかる。
――それを。
クマ型の魔物は、ただの前足一振りで打ち払った。
まるで、虫を追い払うように。
「うあっ――!!」
吹き飛ばされたユイの身体が、地面を数メートル転がる。
呼吸が止まる。肺に空気が入らない。
それでも、立ち上がる。
「まだ……!」
倒れているミルが、かすかに呻いた。
それだけで、ユイは崩れそうな意識を引き戻す。
(負けるわけには……いかない……)
その時だった。




