第2話:老獣人と、あたたかな日々のはじまり
――ぽたり、と何かが額に落ちてきた感触で目を覚ました。
(……ここは?)
視界はまだぼやけているが、柔らかな天井の木目と、ほんのり煙草のような香りが鼻をかすめた。
体は動かしづらく、重たい。けれど、硬くない布と、ぬくもりに包まれている。
(あの森じゃない……?)
ぼんやりと目を動かすと、傍らには大きな獣人の顔。
白い髭に覆われたその顔が、こちらを覗き込んでいた。
「……目を覚ましたか、よかったのう。もう駄目かと思ったぞ」
言葉はなぜか理解できた。知らない言語なのに、意味が頭に入ってくる。
(補助スキル……“全言語理解”か。これが働いてるのね)
けれど、そんな思考もすぐに揺らぐ。体を少しでも動かすだけで、筋肉がぎこちなく、指も口もろくに動かない。赤ちゃんとは、かくも不自由な存在だったか。
(……前世の記憶が残ってるだけに、これはキツい)
口を開けようとしても、うまくいかず、声にならない吐息が漏れるだけ。
しかし、その様子を見て、獣人――グリュンは、にっこりと笑った。
「腹が減っとるな? ほれ、これはどうじゃ?」
彼は小さな木の器を手に取り、中から温かい液体を口元へ運んでくれた。
ほんのりと甘い草の香りと、薄いミルクのような味。
(スープ……か。というか、食べ物って、飲むしかできないのか……)
流し込まれる液体にむせそうになりながらも、必死に飲み下す。
(ちょっと。神様、赤ん坊仕様のチュートリアルとかないの? この状態で“なんでも作れる”とか無理ゲーでしょ……)
* * *
それからの数日は、まさに“もどかしい日々”だった。
グリュンは老齢ながらも世話上手で、毎日木の実や温かいスープを与え、布で拭いてくれた。
時折、薪を拾いに外へ出ていくが、そのたびに「ちゃんと見ておれよ」と小さく声をかけていくのが印象的だった。
(この人……すごく優しい。けど、言葉はまだ話せないし、身体も自由に動かない)
そんなある日。
グリュンが外出中、ふと、自分の中でムズムズとした感覚が芽生えた。
(……何かを、作ってみたい)
スキル――《創造》を思い浮かべる。
けれど、そもそも“何か”を組み立てたことがなければ、完成品は生み出せない。
(それでも……なにか、やってみたい)
イメージで、木の積み木のようなものを想像する。四角くて、軽い、小さなもの。
【スキル《創造》を使用します】
【魔力残量:2/50】
【指定された構造に必要な魔力量:8】
【出力結果:不完全構造体】
(……っ!?)
空中に小さな光が浮かび、それがぱたりと落ちた。
触れてみると、まだらに歪んだ、白っぽい粘土のような塊だった。
(これが……未完成の、“積み木”?)
そしてその直後、急激な倦怠感が身体を襲う。
(うっ……眠……い……)
身体が重くなり、視界が揺れる。
【魔力枯渇症状:軽度】
【魔力再充填のため、自律的休眠を推奨】
(なんでそんな冷静なナビっぽい口調なのよ……)
意識が落ちていく中、最後に見たのは、帰ってきたグリュンの驚いたような顔だった。
* * *
目を覚ました時、グリュンは私の傍で、薪を削りながら座っていた。
「よう眠ったのう。何かしたな? 妙な光が部屋に差し込んでおったぞ」
ごまかしようもなく、ただ小さく「うー」と唸るだけだった。
(……ごめんなさい、でも、初めてだったから)
ただ、あの時――魔力を使った時の感覚は、確かに記憶に残っていた。
魔力という力が、自分の内に確かに流れていること。
けれど、その力には“限界”があること。
(わたし、魔力少なっ……)
体が成長すれば、魔力も増えるらしい。
そう言っていたのはチュートリアルの説明だ。
【※補足:魔力の回復には休眠(睡眠)状態が最も効率的です】
(なるほど、つまり赤ちゃんの“よく寝る”って、魔力回復にも都合がいいのね)
さらに――
(もしかして、“分解”スキルなら……魔力、使わないのでは?)
おもむろに、グリュンが床に置いていた壊れかけの木のスプーンに視線を向けた。
(《分解》)
その瞬間、空気が静かに震え、スプーンが木片と繊維に分かれていった。
(……できた。でも、疲れない)
【ユニークスキル《分解》使用】
【このスキルは魔力を消費しません】
(バグスキルって、こういうことか……)
すぐに再構成をしようとしたが、今度は魔力が足りなかったらしく、木の繊維がばらばらになって消えていく。
(うーん、まだ完成させるには遠いか)
だが、確かな手応えがあった。
私は確かに“創れる”。
* * *
その夜。
布団代わりの毛皮に包まれながら、私はグリュンが口ずさむ子守唄を聞いていた。
懐かしくも優しいその声は、まるで前世の祖父を思い出させる。
「ユイ……ユイよ。名は、ユイじゃな。」
耳元でそっと、そう囁かれた。
胸が、じんわりとあたたかくなる。
こうして、私は老獣人との穏やかな生活を、少しずつ始めていった。
まだ何もできない、けれど“できるようになる”ための第一歩を、確かに踏み出して。
それが、私の物語の始まりだった。