中岡慎太郎
翌日、かなたが泣き腫らした重たい瞼をあけると、そこにはもう土方の姿はなかった。
食欲はなかったが、貰った朝餉の味噌汁を飲むと、枯れたはずの涙が、また頬を伝う。
涙を拭いながら朝餉を口にしていると、他の隊士が、土方からの伝達を伝えに来てくれた。
どうやら彼は、仕事のために朝早く屯所に戻ったらしい。かなたのことを心配していたが、急な用事で近藤に呼び出されたのだと、その隊士は教えてくれた。
すると、そこに一つの情報が下りてくる。
昨晩、坂本龍馬が襲撃を受けたこと、そして一緒に襲撃を受けた中岡慎太郎が、かろうじてまだ生きているということだった。
どうやら中岡は、土佐藩邸に身を隠して療養しているらしい。
その話を聞いた途端、かなたの足は、自然と土佐藩邸へと向かっていた。
「おい、小僧。何の用じゃ?」
土佐藩邸に着くと、門番がかなたを頭からつま先までじろじろと見定める。
「坂本龍馬さんの知人です。中岡慎太郎さんに会わせてください」
こんなことを言っても、素直に通されるわけがない。
そう思いながらも、かなたは門番に頭を下げた。
「はぁ? そんな者ぁ、ここにはおらん。とっとと帰れ!」
門番はそう言って、追い払おうと持っていた槍をかなたの前に向けた。
それでも、かなたは どうしても諦めきれず、もう一度頭を下げる。
「お願いします! 中村かなたが来た、とお伝えください!」
「しつこい子供やのう!」
そう言って、もう一人の門番が、かなたの体を蹴り上げた。地面に叩きつけられ、体には鈍い痛みが広がる。
それでも、かなたは声を上げず、そのまま額を地につけた。
「お願いします! お願いします!!」
「ほんま、えい加減にせんかえ…」
そう門番がたじろいだその時、低く重い声が辺りに響いた。
「おい、何しゆうがじゃ」
その声に、門番たちは一斉に背筋を伸ばす。
藩邸の奥から姿を現したのは、ただならぬ風格を纏った一人の男だった。
「あっ…後藤様! 騒がしゅうしてもうて、申し訳ございません! 実は、小僧が中岡慎太郎に会わせてくれ言いゆうがですが…そんな者は、ここには居らんと言うとりますに……」
門番が丁寧に説明するも、後藤と呼ばれた男はそれを軽く聞き流し、土下座をしているかなたの前にしゃがみ込んだ。
「そうかえ…おまん、名は何ちゅうがじゃ?」
「中村かなたにございます。以前、坂本さんには大変お世話になりました。昨晩襲撃を受けたと耳に入りまして、ここに坂本さんと最後まで一緒に居た、中岡さんが居られると聞いて参りました…お願いです、どうか会わせて下さい」
冷静に言葉を紡ぐかなたを一瞥すると、後藤は立ち上がり、背を向けて歩き出す。
「ほんなら中村、こっちへ来い」
「え…」
「後藤様! よろしいがですが?! こんな得体のしれん者を入れて…!」
かなたが驚くより早く、門番たちがどよめいた声を上げる。
だが、後藤はそれを制すると、かなたへと静かに手招きをした。
「あ、ありがとうございます…!」
かなたは慌てて礼を述べると、後藤の背を追い、土佐藩邸の中へと足を踏み入れたのだった。
――――
「あの…失礼ですが、名前をお伺いしても?」
門番たちに後藤と呼ばれていた男の背を追いながら、かなたは土佐藩邸の廊下を歩いていた。
藩邸というのはやはり立派なもので、部屋のひと間ひと間が広く、中庭も幾つか設けられている。
書や水墨画、黒漆の文机などが、部屋ごとに置かれていた。
後藤は歩みを止めぬまま、ちらりとかなたを見やる。
「わし名ぁは、後藤象二郎じゃ。土佐藩主の山内容堂様に仕えちゅう者や」
「後藤様…でしたか。あの、入れてくださって、本当にありがとうございます」
本当に中岡に会えるかどうかも分からないまま、勢いだけでついて来てしまった。それなのに、不思議と後藤に対して嫌悪感はなかった。
そんなことを考えていると、後藤が一室の前でぴたりと足を止める。
「ここに、中岡がおる。危ねぇもんは、何も持っちょらんか?」
「は、はい」
「ほいたら中へ入れ。おかしな真似は、絶対するなよ」
それだけ言い残し、後藤は隣の部屋へと入っていった。
かなたは一拍置いてから、中岡がいるという部屋へ足を踏み入れる。
「失礼します」
「……中…村か?」
「中岡さん!」
障子を開けると、そこには床に伏せた中岡の姿があった。
顔色は悪く、息も浅い。この様子を見れば、長くないことは誰の目にも明らかだった。
かなたはすぐに、中岡の傍へと駆け寄る。
「ああ…まさか…最後におまんに…会うたぁ……のう………」
自分の最期を受け入れているような口ぶりに、かなたは思わず目を伏せた。
何も言えずにいると、中岡は床の脇に置かれた紙切れを、弱々しく指さす。
「坂本から…預かっちょった……手紙じゃ」
「え…!」
「昨日…おまんらと別れた後に…託されたがよ。馬鹿な…奴じゃ…わしも…死ぬかもしれんに……」
相当傷が痛むのだろうか、中岡は額に汗を滲ませながら、それでも小さく笑った。
「おまん…わしらぁの…代わりに…この世の出来事を…見届けちゃれ…ほいたら…の…」
そうして、中岡は静かに目を閉じた。
かなたはすぐ身を乗り出し、その息遣いを確かめる。だが、中岡は眠りに落ちただけのようだった。
少し安心して息をついたその時、隣の部屋と繋がる襖が音もなく開く。
「おまん、ほんまに中岡の知り合いやったがか」
そう言って姿を現したのは、後藤だった。
中岡は明け方にここへ運ばれてきてから、ほとんどの時間を眠って過ごしているという。
医者からも、「長くは無い」と告げられていることを、後藤は門扉まで送る道すがら、淡々とかなたに語ってくれた。
土佐藩邸の門が閉まるのを見届けると、かなたはその場に立ち止まり、静かに一礼する。
そして、何も言わぬまま、その場を後にした。




