林信太郎
林信太郎は茶屋の隅に腰を下ろし、帳面を前に頭を抱えていた。
帳面といっても大したものではなく、今朝食べたものや、その日の簡単な出来事を書き留める、いわば日記のようなものだ。
新選組の監察方として勤め始めてから、早くも数年。現在の林は、伏見地域の駐屯所に常駐している。
(...しまった)
そして、林がここまで頭を抱えている理由は、一ヶ月の出来事を本部へ報告するために、駐屯所で管理されている『行事記録帳』の存在にあった。
伏見地域を共に担当している、もう一人の監察方・村上清が、その記録を任されているのだが、彼はとにかく几帳面で、しかも容赦がない。行事記録を一日ごとに細かく書き留めるのが村上のこだわりで、自分がほんの些細な出来事でも思い出せずにいると、彼の鋭い眼光が容赦なく胃の奥へ突き刺さるのだった。
それを避けるため、こうして日記をつけていたのだが、運悪く昨日の朝稽古後から朝餉の支度までの、ほんの短い時間の出来事を書き忘れてしまっていた。帳面には、その欄だけ空きがあった。
これでは、せっかくの休みだというのに、思い出そうとするだけで一日が終わってしまいそうだ。
(それだけは避けたい...)
林は一度気持ちを落ち着けようと、湯のみに手を伸ばし、茶を一口喉へ流し込んだ。温もりとともに、ふっと息が抜ける。日記帳をぱたりと閉じると、心を決めた。
(...外へ出るか)
考えても思い出せないものは、どうやっても思い出せない。それなら、あてもなく歩いてみれば、何かの拍子に記憶が戻るかもしれない。あるいは大事件にでも遭遇すれば、自分の朝の行動など、村上はどうでもよくなるだろう。
そう開き直ると、林は勘定を済ませ、何事もなかったかのような足取りで店を出た。
大きな川でも眺めて気分を変えようかと、林は宇治川へ向かって歩き出す。いつも使っている近道の小路へ入ったところで、突き当たり付近に人だかりが出来ているのが目に入った。
早速事件かと思い不謹慎にも浮き足立つが、林はその中の一人の背中を見た瞬間、ぴたりと足を止める。その男が着ている羽織には、『見廻組』と書かれていた。
林は咄嗟に物陰へ身を隠す。幸いにも今は隊の羽織を着ていない。新選組だと悟られる心配はないが、相手が見廻組となると、自然と身構えてしまうのが新選組隊士の性なのだ。
林は息を潜めたまま、様子を探るようにそっと陰から顔を出す。
よく見れば、彼らは「人だかり」というより、顔見知り同士が集まっているようにも見えた。見廻組の羽織を着ているのは一人だけで、他の者たちが本当に同じ組織の人間なのかまでは判断できない。
だが、その羽織の男が中心となり、周囲の男たちへ何かを伝えている様子は確かだった。
林は目を閉じ、わずかでも聞き取れないかと耳を澄ませる。
「......みや...か...も......」
(か、も...?)
距離が思った以上にあり、はっきりとは聞き取れない。それでも、彼らの周りの空気でただならぬ話であることだけは伝わってくる。
さらに聞こうと身を乗り出したそのとき、話が終わったのか、男たちはそれぞれ別々の方向へと歩き始めた。
(まずい!)
林は慌てて身を隠していた場所を離れ、近くの見知らぬ長屋へと駆け込む。高鳴る鼓動の中、甲高い声が耳を突き抜けた。
「ありゃ!あんた誰や?!」
「あっ...!」
どうやら飛び込んだ先は年老いた夫婦の家だったらしい。二人は林を見るなり驚き、手にしていた漬物をぽろりと畳に落とした。
その光景を目にした瞬間、林はハッと顔をあげる。
「そうだ!朝稽古の後は、ぬか床を混ぜていたんだ!」




