藤堂平助の悩み
「...はぁ」
何度目のため息だろうか。
藤堂平助は屯所の中庭から空を眺めながら、もう一度深く息を吐いた。
ここ数日、何も考えられない。食事は喉を通らず、仕事にも身が入らない。さすがに、このままではまずい。そろそろ部下どころか、上の連中にまで見限られてしまうかもしれない。そんな考えが頭をかすめる。
けれど、それすらも長くは続かない。胸の内はそれ以上に、別のことでいっぱいだった。
「どっちかなんて...選べねぇよ」
静かな声が風に紛れて消える。
そして、藤堂はまたひとつ、ため息を落とした。
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藤堂の様子がおかしいと、かなたが聞いたのは翌朝のことだった。
たしかに最近は、朝も夜もご飯をおかわりをしなくなったし、なにより、"あの"藤堂が永倉に飯を横取りされても、何も言わなかったのには少し驚いた。よほど悩みごとがあるのだろうか。もしや伊東に何か言われたのでは...。もう少し早く話を聞くべきだったかもしれないと、かなたは小さく後悔した。
というのも鈴木から聞いた話によると、伊東は近いうちに新選組を離れるつもりらしい。
史実では翌年、御陵衛士として隊を抜けることになるのだが、かなたが歴史を変えてしまったせいか、少し早まっているようだった。
昼を過ぎ、藤堂率いる八番隊が巡察から戻ってきたと聞き、かなたは最近彼がよく居ると言われている中庭へ向かった。
噂どおり、藤堂は縁側に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げている。その姿は、いつもの明るい彼とはまるで別人のようだった。
「...平助くん?」
「......お、かなたか」
藤堂は返事をするがその返事はどこか上の空で、身体だけが無意識に反応しているようだった。
かなたは心配になり、藤堂の隣に腰を下ろす。
「あの...何か悩み事でもあるの?」
普通ならこんなストレートに聞けないのだが、かなたの事情を知っている藤堂だからできる事だ。
「んー...ちょっとな」
その言葉に、かなたの胸がざわめく。やはり伊東が関係しているのだろうか。かなたは思わず口を開いた。
「あ、あの...何か悩んでいるなら聞くよ?」
「あぁ、ありがとな」
それでも藤堂の目は虚ろなままで、どこか遠くを見ているようだった。そんな姿に、かなたは気持ちが逸る。
「平助くんはこの新選組には必要な存在だし、近藤さんや土方さん達だってとても信頼してる。もちろん私も!だからその、新選組からは出て行って欲しくは無いというか.......」
「そうだよな...でも最近の俺の態度にみんなうんざりしてるかもしれないし...仕事を疎かにするようじゃだめだよな」
「そ、それは仕方ないよ!どっちを選べばいいかなんて、難しい問題だし....」
藤堂にとって伊東は師でもある。なにかと恩もあるだろうし、どちらかを選ぶのは容易いことではない。かなたとしては、やはり友人でもある藤堂には残って欲しい。
「そうだよなぁ、どっちかなぁ。選べねぇよ....」
藤堂は頭を抱え、唸り声を漏らす。
「平助くん....」
かなたが肩に触れようとしたとき、藤堂は勢いよく立ち上がった。
「あー!どっちも選べねぇ!八百屋のお千代ちゃんか、蕎麦屋のお花ちゃんか!」
「え?」
一瞬、思考が止まる。そんなかなたをよそに、藤堂は縋り付くような目でこちらを見た。
「なぁ、かなた。どっちがいいと思う?」
「どっちって....もしかして、最近元気が無かったのって、女の子のことで悩んでたの?」
「そうだけど?」
「なーんだ」
思わず肩の力が抜ける。この時期に恋で悩んでいるとは、誰も思うまい。心配して損した。
「なんだとはなんだよ。俺にとっては一大事だぞぉ!」
「私はてっきり、伊東さんに『一緒に新選組を抜けよう』って、誘われたのかと思ってたよ」
「えっ、伊東さん出ていくのか?」
「うん。多分近々って鈴木さんが言ってて...」
「そうなのか....」
どうやら、その反応からするに藤堂も知らなかったようだ。
「だから私は平助くんが、伊東さんに付いていくかどうするかで悩んでるのかと思って...」
「馬鹿。伊東さんに付いていったら、お千代ちゃんにもお花ちゃんにも会いづらくなるだろ。しかも、新選組を出ていったら長くは生きられそうにないしなぁ」
「...どういうこと?」
かなたは意味がわからず、つい聞き返してしまう。
「伊東さんは、何かと人との間に亀裂を生む性質だろ?だから、命を狙われるかもしれねぇ。そうなったら、新選組にいる方がよっぽど安全だぜ」
確かに、今の新選組でも危険が無いわけではないが、局中法度が軽くなった今、史実の新選組と比べればよほどの事がない限りは安全だろう。それに人斬り集団と呼ばれてはいるが、現実では人斬りなどほとんどせずに捕縛が主なので、恨みを買うこともそんなに無い。
「じゃあ、もし伊東さんに付いてこいって言われても行かないってこと?」
「そうだな。それよりも.....」
藤堂は急に顔を引き締め、真剣な眼差しでかなたを見つめた。
「なぁ、かなた。お千代ちゃんもお花ちゃんも、中々振り向いてくれないんだよ!どうしたらいいと思う?」
そもそも両方に振り向いて貰うという時点で間違っているが、そこは一旦置いておこう。
「...振り向いて欲しいなら、ちょっと面倒くさいこともやらないといけないよ?」
「おう!なんでもやってやるよ!」
その言葉を聞いて、かなたの胸にもやる気が灯る。
「よし!じゃあ、土台を整えないとね!」
「土台?」
「そう。基礎はしっかり作っておかないと!準備するから少し待ってて!」
そう言ってかなたは立ち上がると、自室へ戻って何やらごそごそと準備を始め、藤堂を井戸端へ連れてきた。
「まずはこれで歯を磨いて」
「なんだこれ」
「歯磨き粉だよ。買ってきたものに少しお酢と緑茶の粉を混ぜたの」
歯垢を落とすには酢がよく、香りづけには茶の粉が効く。
歯を磨き終えたら次は洗顔。ぬるま湯に灰汁を溶かして顔を洗い、米ぬかで包み込む。現代でいうパックだ。
少し時間を置いて、手でくるくると汚れを落としたら、何も混ぜていないぬるま湯で流す。そして、ヘチマ水と米のとぎ汁を調合した、かなた自作の化粧水を肌に馴染ませる。
「そのあとはこれ!」
「椿油?」
かなたは椿油を手に取り、藤堂の顔に塗る。
そのままではギトギトするので、少し馴染ませたら手拭いで軽く押さえ油分を取る。
「次は頭を洗いまーす!」
ぬるま湯で頭皮をほぐし、布海苔と呼ばれる海藻をお湯で溶かし、指の腹で優しく頭皮や髪の毛を洗う。すすいだら、水気をしっかり取り、毛先を中心に椿油を塗る。櫛で馴染ませたら、風通しの良い場所で櫛を滑らせながら乾かす。
「おぉ〜、なんかすっげぇサラサラになったぜ!」
「面倒だけど、自分磨きって楽しいんだよね!」
面倒くさがりの藤堂には、少々難易度は高いが恋となればきっと心境も変わるだろう。
かなたは最後に蜜蝋と椿油を少し混ぜたものを指にとると、それを藤堂の唇に塗った。
「これを毎日続けて...あとは洗濯したての着物を着ていったら、振り向いてくれる人も多くなるんじゃない?」
ふふんと胸を張るかなたに、藤堂は笑顔で頷いた。
「そうだな!...でも、両方に好意を持たれたらどうしたらいいんだ?!」
焦る藤堂のその考え方に少し心配になるが、彼に恋人が出来るのにそう時間はかからなかった。
けれど結局、お相手は八百屋のお千代でも蕎麦屋のお花でもなく、漬物屋のおひなだった。




