斎藤焼肉漢
斎藤は山の中を歩きながら、戦っていた。
なぜ来てしまったのかという後悔と。
陽崎との約束に浮かれて飛び出したのはいいが、冷静に考えてその約束の前提条件である自身の生存が果たされる可能性は、決して高くない。
彼はあの光線を見切れる自信がないのだ。
気付けば撃たれていて、気づけば死んでいるだろう。
足元で何かが動く。
「ヒィッ!」
リスだった。
空から何かが降ってくる。
「アァッ!」
松ぼっくりだった。
彼は決して強くない。
大したことのない魔物相手にも、幾度となく怪我をさせられている。
だが、彼の巨体と風格は人々を勘違いさせるのに十分だった。
チームメンバーが全員無傷の中、彼だけが負傷している。
この事実は、彼が一人で全ての戦闘をこなし、チームメンバーを守り抜いたという誤解を生んだ。
彼は運も良かった。
隊が全滅したときも、常に逃げ腰だった彼だけは生き残っている。
この事実は、彼が圧倒的戦闘力を持っていると誤解を生んだ。
彼は幸運であり不運でもある。
「オレは大丈夫だ。オレは死なない。いつもそうだったじゃないか。
だから、今日も大丈夫だ」
斎藤は山肌から剥き出しになっている岩を踏んだ。
だが、足の裏からの感触は岩のそれではなかった。
「軟らかい?」
突如、目の前の地面が動き出した。
斎藤はまだ硬い、来た道を全速力で引き返す。
「オレの馬鹿野郎!何でこんな危険な任務受けたんだよーっ!」
木々の間を縫って、斎藤は走る。
息が切れ、根に引っかかって何度も転びそうになる。
だが、彼は足を止めるわけにはいかない。
グシャ!
隣の木が音を立てて割れた。
「あの狙撃か!もう撃ってきましたよ河寺さん。早く砲撃してくださいッ!」
「戦闘が始まったことは音でわかるが、霧で何も見えないな」
河寺は腕を組みながら言った。
「斎藤が帰ってくるまで待機だ。
斉藤から狙撃手の位置を聞いて、それを元に砲撃する」
「「「了解!」」」
その掛け声の裏で、幸仁とメアリスが会話している。
「マスター。魔物の正体がわかりました」
「本当か。しかし、どうやって?」
「ゴーレムの目に霧の妨害は無効です」
メアリスは自身の目を指差す。
「なるほどね。それで、どんな奴だ」
「巨大なタコです」
「あの狙撃は墨を飛ばしているのか」
「斎藤という男が交戦中です。助けますか?」
「別にいらないだろ。強いんだし」
幸仁はメアリスの言動に疑問を覚えた。
「逃げています」
「いや、別に逃げるのは作戦として間違いではないだろう」
「無様に逃げています」
「言い方…」
「このままだと死にます」
「何言っているんだ?」
幸仁の表情が変わる。
「弱いです。あの男」
メアリスは断言した。
彼女は真剣な表情だ。
冗談や嘘を言っているようには見えないだろう。
そもそも、表情は常に変わらないのだが…。
幸仁は高速で作戦を立てる。
1:河寺隊長に斎藤が苦戦していることを伝えて、救援に向かわせる。
2:無視する。
3:メアリスに助けさせる。
作戦1は一見最善策だが、何故濃霧の先が見えたのか説明しなくてはいけない。
メアリスの存在を秘匿しておきたい幸仁にとって、これはリスクが付きまとう。
仮にそれを突破して救援に向かわせられても、相手が相手なので被害を拡大させる恐れもある。
作戦2はリスクがゼロだが、心理的に一番取りたくない策だ。
3は救える可能性は飛躍的に高まるが、メアリスの正体が発覚する恐れがある。
濃霧のおかげで山の中の出来事にはごまかしが聞くが、この場から抜けて山の中に入るのが問題だ。
総合的に考えて、一番望ましい手段は…。
「メアリス、力を貸してくれ。助けるぞ」
「了解しました」
この場にいるほぼ全員の注目は山に向けられている。
幸仁たちが馬鹿正直に突っ込んでいくならば、その前に止められるのがオチだ。
仮に突入できても、その後の言い訳が苦しい。
だから、幸仁は策を練った。
「メアリス。このバスをはるか上空に投げてくれ。できれば、山の中に落として欲しい」
幸仁は自分たちが乗ってきたバスを指でコンコンと叩く。
「了解しました」
バスには誰も注目していないので、この行動を怪しまれる心配もない。
メアリスは右手で軽々とバス持ち上げると、やる気を微塵も感じさせないフォームで空中に放り投げた。
バスは瞬く間に豆粒ほどの大きさになる。
「大変だ。バスが落ちてくる。森の中に逃げ込むんだ〜!」
幸仁はメアリスの手を引きながら、わざとらしい演技で森の中に駆けていく。
「おい待て!あの落下の軌道はどう見ても—」
隊員が指摘した頃には、彼らは森の中に消えていた。
「森に落ちるぞーっ!」
爆発音。
そして静けさ。
斎藤と魔物の戦闘の音が、彼らを正気に戻す。
「ど、どうする?」
「バスは結構奥の方に落ちたから当たってないだろう」
「とにかく、探しに…」
河寺が口を開く。
「鎮まれ!森の中の状況はわかっていないのだぞ。下手に動いて犠牲を増やすつもりか!」
陽崎はその様子を尻目に、誰も気が付かない声量で言う。
「こんな工作してまで森に入るとか、何考えてんだよ。アイツら」
「ああ〜!助けてください河寺さぁあああん」
斎藤の悲痛な叫びは、樹海が抱擁して誰の耳にも渡さない。
苔むした岩で滑り、斎藤はついに転倒してしまう。
顎を強く打ち付け、衝撃で思わず目を細める。
だが、頭上を通過していった黒い線が、前方の木を木っ端微塵にした瞬間、彼の目は驚きで全開になる。
閉じたり開いたり忙しい男である。
「こけてなかったら当たってたァ!あっぶねぇ。でも、なんか一周回ってやる気出てきたぜ!うぉおおおおおお!!」
斎藤はついに背を向けることをやめ、己が越えるべき敵を視界に入れる。
漫画で見たかっこいい構えをとった。
この構えは、いつだって彼に勇気を与えてくれる。
彼の越えるべき試練の正体は、タコだった。
皮膚の色を変えて森に溶け込んでいるが、周囲よりも浮き出ている輪郭がその姿を示している。
巨大だ。
一戸建ての家ほどの大きさがあるだろう。
それを見た斎藤は—。
固まった。
恐怖が限界を突き抜けた結果だ。
その様子を木の裏に隠れた幸仁とメアリスが伺っている。
「なぁ、メアリス。あれって達人の睨み合いじゃないのか」
「失神しているだけです」
「随分かっこいい構えだが」
「実用性に欠ける構えです」
毒舌二連撃に幸仁が呆れる。
「お前さりげなく酷いこと言うよな」
「事実を言ったまでです」
タコが触手を動かす。
固まった斎藤に向かって伸びていく。
「メアリス。やってやれ」
「了解しました」
メアリスはタコと斎藤の間に割って入る。
タコは意味不明な乱入者を先に排除しようと、触手のターゲットを彼女に移した。
様子見程度の一本だったせいだろうか。
メアリスは手刀でいとも簡単に切断する。
タコは警戒して、残る七本で同時かつ全方位から攻撃を試みる。
メアリスは腕を薙いだ。
—ように見えた。
ここにいる全員には。
七本の触手が宙を舞い、地面とぶつかる音を順番に奏でる。
超高速の連撃の結果だ。
八本の足はもうない。
残る武器はたったひとつだ。
もっとも、その武器が一番強く一番厄介なのだが…。
タコの口から放たれた墨。
それは高い圧力をかけて発射されており、高威力高射程の必殺技だった。
それをメアリスは虫でも追い払うように弾いた。
だが、液体なので軌道をそらせたりはしない。
全身に黒い墨がかかる。
タコは少し勝ち誇ったような雰囲気を出した。
メアリスは顔にかかった墨を拭う。
そして、黒く染まった右手を握りしめ、そんな目に合わせたタコにプレゼントを贈ろうと歩み寄る。
走るわけでもない。
早歩きでもない。
ただの歩き。
強者の余裕。
タコは逃げたかっただろう。
だが全ての触手を失った今、動くことはできない。
最期のときを待つしかできることは残されていないのだ。
ドゴォオオオオン!
森中に激震が走り、鳥たちが一斉に飛び立つ。
森の異変は隊員たちにも伝わっていた。
「なんだ、この衝撃は!」
「やったのか?斎藤がやったのか!?」
山を覆う霧が徐々に晴れていく。
「斎藤がやってくれたらしいな。期待以上だ」
河寺は上機嫌に呟く。