零号機
幸仁は母親に事情を話すや否や、すぐに迷宮相談センターに連絡した。
自宅の2階が迷宮化して—
弟が中に取り込まれて——
急いで攻略隊を送って貰いたく———
「一週間後?!」
「はい、ただいま特定の迷宮攻略に難航しておりまして…。
聞いたところ小規模な迷宮のようですし、優先順位は低くなってしまうんですよ。
自宅の2階に近づかないようにしていただいて、それまでどうか…」
「中に人が取り残されているんですよ。一週間も待てるわけないじゃないですか!」
幸仁は電話を切り、災害時の備えが詰まったリュックサックと、付随品のヘルメットを被り2階に向かった。
「幸仁、危ないから攻略隊が来るまで待ちなさい!」
「そいつらが来るまで一週間だ。翔也が奇跡的に魔物に発見されなかったとしても、水なし食糧なしで生きていけるわけないだろう。ちょっと見てくるだけだから気にしないでほしい」
「一般人が迷宮に入るのは犯罪よ!」
「じゃあたった今迷宮にいる翔也は犯罪者なのか?俺も巻き込まれたことにしてしまえばいい」
母親は返す言葉を探しているうちに、幸仁を行かせてしまった。
覚悟を決めた幸仁は二階の床を再び踏んでいる。
二階の壁と床は、どういうわけか石造りになっていた。
しかも、廊下が異様に長い。
奥は暗くて見えない。
懐中電灯で先を照らす。
翔也の部屋だったであろう場所が浮かび上がる。
元々あったドアは無くなっている。
足音ひとつ立てないように慎重に先に進む。
目的の部屋に前に辿り着いた。
恐る恐る中を確認する。
突然魔物が飛び出てきても、中に死体があってもおかしくないのだ。
結論だけ言えば、中には何もなかった。
訂正。
何かはあった。
しかし、幸仁は期待していたもの、または警戒しているものは何もなかった。
あったのは、家具だけ。
それも、やたらスペースを開けて配置されている。
これは、空間が拡張されていることの何よりの証拠である。
彼は部屋を隅々まで探ることにした。
何か手掛かりが残っているかもしれないからだ。
家具に異変はない。
もっとも、彼は弟の部屋の家具を観察する趣味を持ち合わせていないので、普段と何か変わっている点があるかもしれないが。
次に、床を確認する。
幸仁は床に付着していたものを見てしまい、戦慄する。
血痕である。
部屋のある地点から発生し、隅にまで行って止まっている。
引きずられたかのような痕。
しかし、血痕にしては痕の残り方がやや不自然である。
地面に顔を近づけて見てみれば、痕が立体的すぎることに気がつく。
近くには、散らばった絵の具入れがあった。
いくつかの色が消えている。
マーキングのために咄嗟に取ったのだろう。
なんらかの原因で迷宮の奥深くにまで連れ去られ、引きずられながらも跡を残したらしい。
「やるな、翔也」
弟の努力を報いるためにも、彼は必ず翔也を見つけ出そうと決意した。
絵の具の線は壁に当たって止まっている。
つまり、壁に何かあるということだ。
幸仁の記憶によれば、そこにはクローゼットがあったはずである。
単なる壁しかないように見えるのは、何かの罠かもしれない。
彼は本棚から、適当な本を一冊取って壁に向かって投げた。
罠ならば、性質を見極めたいと思ったからである。
本は壁にぶつかり、音を立てることなくめり込んだ。
壁に本がめり込むという異様な光景。
幸仁が、驚くべき馬鹿力を持っていたわけではない。
本は少しずつ壁の中にめり込んでいき、やがて完全に見えなくなった。
壁は魔物だった。
ただそれだけである。
「石壁に姿を模す魔物か。全く正体がわからない」
幸仁は迷宮や魔物に興味関心を持っているわけではないので、迷宮探索が全て手探りである。
探索隊は魔物の見分け方と倒し方、加えて戦闘を避けるべきかの判断に関するマニュアルが用意されている。
そうではない彼は、一からそれを構築しなくてはならないのだ。
幸仁は再び本を投げた。
同じ光景が繰り返される。
本はやがて完全に吸収され、見えなくなった。
再び投げる。
同じ光景。
何度も繰り返し、条件や状況を観察する。
何十冊も本を取り込んだ影響で魔物は餅のように膨らんで、薄くなった体表の奥に本がのぞいている。
取り込める回数に限度がある可能性はあるが、あの場からどかさなくては意味がない。
「触れたものを、内部に手繰り寄せるようにして吸収するのか。では、触れたものが固定されていればどうなるんだ。動かなくなるのか、あいつのほうから動いて全部取り込もうとするのか」
ベッドを押しつけて様子を見る。
ベッドほど重量があれば、流石に手繰り寄せるのは無理らしい。
餅モンスターはベッドに向かって体を伸ばして、やがて全てを取り込んでしまう。
しかし、無理やり体を引き延ばしたせいか、場所によっては半透明のフィルムと呼べるほどに薄くなっている。
幸仁は鉛筆を拝借して、薄くなった場所を何度も刺して穴を開けた。
穴は増え続け、やがてそこを起点にして餅モンスターは二つに裂ける。
ベッドにまとわりついているのと、依然として壁に擬態しているものの二つに。
幸仁は机を持ってきて同じことを行った。
壁に擬態している方に押し付けて、十分に薄くなったら穴を開ける。
2分の1が再び半分になり、4分の1。
今度は本棚。
4分の1が再び半分になり8分の1。
ここまですれば、細分化されすぎた餅モンスターに物を取り込める力は残っていない。
幸仁は思いっきり壁にむかって走り、餅モンスターを突き抜けた。
先には見知らぬ通路が続いている。
いくら拡張されたと言ってもクローゼットがベースになっていると考えるには、あまりにも先が広すぎる。
しかし、床には赤い線が続いているので、引き返すわけには行かなかった。
長い通路ではあるが、赤い線の先には必ず探している弟がいる。
ところが、赤い線は意外にすぐ途切れた。
所詮チューブに入っている量は高が知れている。
絵の具が切れた。
だから、線が途切れた。
単純な理論だ。
だが、絵の具入れからは複数の色が消えていた。
つまり、マーキングの続きは他の色で行われているはずだ。
案の定、通路の先には黄色い線が続いていた。
しばらく進むと、通路は分岐する。
線がなければ、弟の救出は絶望的だっただろう。
その後、通路の分岐は何度も訪れた。
しかし、その度に線に助けられ、正しい道を進み続ける。
絵の具の色は、白、緑、茶と変わる。
そしてついに。
「線の続き、どこにもないな」
翔也の手持ちの絵の具がここで尽きたらしい。
しかし、幸いにも先は一直線である。
彼は、分岐するまで進んでみることにした。
そして、彼が足を止めるに至った場所は、当初思い描いていた分岐地点ではなかった。
どこまでも続く壁の連続を途切れさせる、扉の存在によってである。
左手に取り付けられたその扉は、さまざまな観察や実験を繰り返しても、罠らしき反応を示さなかった。
見た目通りの役割しか持たないので、彼は扉を開けて部屋の様子を確認した。
そこは、整備工場のような場所だった。
未知の工具、機器が並べられている。
しかし、設備ばかりで肝心の製品が見当たらない。
そのとき足に何かが触れ、音を立てる。
咄嗟に懐中電灯で足元を照らすと、手足のもげた少女が打ち捨てられていた。
白い布で覆われているが、衣服は着用していない。
切断面をよく見ると、血の色をしていないことからゴーレムの一種らしい。
忘れられたようにひっそりと地面に撫でられているそれは、ゴーレムにしては見た目が人間的であるが故に幸仁の同情を誘う。
ゴーレムが何かを呟いた。
「マス…たー?」
幸仁は思いもよらぬ事態と発言に困惑する。
彼はゴーレムを使役していたことなど、一度たりともない。
誰かと勘違いしている可能性がある。
「こ…d」
ゴーレムはすべを言い終わる前に沈黙した。
「故障か」
しかし、彼にできることはない。
幸仁は自分の当初の目的を強く認識し直す。
彼の仕事は弟を救うことで、ゴーレムの観察ではない。
幸仁は、部屋全体を見渡し弟の姿がないことを確かめる。
何もない以上、同じ場所にとどまり続けるのは愚策だ。
部屋から立ち去ろうとするが、そのとき懐中電灯が点滅する。
「電池が切れそうだな。予備がリュックの中にあったはずだが…」
圏外になっているため役に立ちそうにないスマホにも、ついに出番が回ってくる。
懐中電灯の電池を入れ替える間、代わりに周囲を照らす仕事だ。
「あ」
しかし、劣悪な作業空間だったのが災いして幸仁は電池を落としてしまった。
転がっていった電池は本棚の裏側に身を隠してしまう。
幸仁は己の失態を恨んだ。
しかし、本棚を何とかして動かし、電池を救出することに成功する。
息を吹き返した懐中電灯が、闇に一筋の光の道を通す。
そして、本棚の裏側にあった壁を照らした。
否、照らしたのは壁ではない。
本棚の裏には隠しスペースがあり、照らしたのはそこに眠らされていたものだ。
あまりにも偶然の発見だった。
そして、幸仁はそこにあるものが何か知っていた。
全身が金属で出来ているその兵士。
鎧のようでありながらその複雑で洗練された構造は、高度な科学技術の結晶であることを証明している。
胸部に埋め込まれた時計型の動力源。
その名前は——。
「零号機…?」
それは大量破壊兵器の名である。