(19)必殺再起動
日本が昭和から平成へと移行を迎えていた時期、ワールドワイドでは「世紀末」と呼ばれる転換期にあった。すなわち、二十世紀から二十一世紀への、歴史の節目である。
世間では「二千年問題」と呼ばれ、西暦の下二桁でプログラミングされている各種システムが、西暦2000年1月1日(0時0分0秒)を迎えた途端に一斉暴走するのではないか――そんな懸念が世界中を覆っていた。今となっては与太話のように聞こえるが、当時の関係者・技術者の皆様方が多大なるご苦労をされ、その結果、何事もなく新世紀を迎えることが出来たのだと拝察する。ただし、今回のテーマはそこではない。
二十世紀と、二十一世紀で、機械に対する向き合いかたが変質したと感じるのだ。
昭和から平成初期――つまり、二十世紀までの機械(PCに限らず家電等)は、「壊れないように」設計するのが当たりまえだったように思う。
不具合でも起こそうものなら、徹底的に原因を追究し、工学的に同じミスを起こさない改良品に仕上げる。それが機械屋の矜持であり、消費者もそれを求めていた。なによりビジネスの世界では汎用系(PCではなく専用機をホストとするシステム)が主流だったので、その風潮が強かった。
――ところが。
二十一世紀に入ってからは、この原則がひっくり返った。
すなわち、「必殺、再起動」。
故障しても、不具合を起こしても、電源を入れ直して正常稼働すればオールOK。昭和原人としては「同じ不具合が起こらないようにちゃんと直して」と主張したくなるのだが、そんなのは前世紀の常識。再起動してサクサク動いてれば、それですべてが解決なのだ。ある意味、これが、オープン系(PCをホストにするシステム)の強みなのかもしれない。
そんなのはPCの世界だけかと思っていたら、いつの間にか家電もそういう仕様になっていた。
かつては、ビデオレコーダーの調子が悪かったら電気屋さんを呼んで修理してもらって一大事だったのに、今ドキのブルーレイレコーダーは電源ボタンを入れ直すか電源コードを差し直すかでだいたいトラブルシューティング。
……その代わり。
平成以降の家電はきっちり耐久年数ぐらいで天寿を全うすることが多くなった。各業界団体が経済産業省ガイドラインに沿って交換部品の保有期限を定めているが、だいたいそれぐらいの年数で買い替えせざるを得ない状況に陥っているような気がする。
昭和の家電は長く使えたが、今のようにICとかAIとかで制御しているわけではなかったし、構造も単純だったのだろう。壊れるときは熱暴走して一気に壊れるというか、豪快だった。
逆にいうと、平成以降の家電は基板はやられてもまだまだ充分に使える部分も多く残っていると思うので、ぜひ積極的にリサイクル利用していただきたい。
(……今回のテーマ、一個人を取り巻いていた環境からの主観のため、大局的には異なる内容も含まれているかもしれない。致命的な誤記があれば、どうぞお知らせください)
本エッセイの第2話でPCを買い替えたという話題を紹介したが、実は、同じ時期、スマホも新しくした。
PCについては既述のとおりだが、スマホのほうは、購入から二年が過ぎて、フリーズからの再起動が多くなってきたからだ。ショッピングセンターの出張イベントに来ていた某通信キャリアのおねえさんに相談したら、壊れるまえにと交換を勧められた。だから、新しい機種にした。
以来、特段の不都合を感じることもなく利用していたのだが。
何故だか急にフリーズが再発し始めた。
――新しいスマホ、なのにである。
少し考えて気が付いた。
会社で、スマホや手帳を入れたミニトートの置き場所を変えたのである。
それまではデスク端のPC本体と並べていたのだが、諸事情あってPC本体を横置きにした。軽いから大丈夫だろうと、ミニトートをその上に置いていたのだ。
排熱なのか、電磁波なのか――とにかく何かがよくないような気がする。ほとんど直感。
翌日からミニトートを別の位置に変更した。案の定、フリーズすることはなくなった。
……ごめんね、スマホちゃん。つらかったんだね。
機械の気持ちはわからないが、なんとなくスマホに親近感を抱いてしまった。
久しぶりの投稿です。
……ひょっとしたら、長編の読者様もおられるかもしれません。エッセイはいいからフィクションの続き書けよーとか思われてるかもしれません。
いえいえ、そんなわけにはいかないのです。あっちは考えて考えて練って捏ねくり回さないと発表できないのですが、こっちは「あーっ」と頭の中に思い付いたことを文字にするだけなので、制作工程がまるで違うのです。
長編のほうは来週までお待ちください。