忘れたしまったあなたに
「手紙をこんな私のために書いてくれてありがとう。貴方だけが、私を心配してくれた。貴方への感謝は、してもしきれません。
突然、貴方に手紙を出したのは、私が学校へ行けない理由を話したかったからです。
私は五年前から貴方に夢を語り続けていたと思います。話した通り、私は作家になると言って、今日まで苦しみながら書いてきました。ですが、もう疲れました。いくら書こうとしても、何も思い浮かばないし、今まで書いていたものが、何の情熱もない、ただ味気ないものとしか感じられなくなったのです。いつだか貴方に話した、書きたい話の中身も同じように、もう、何を書きたかったのかすら覚えていません。
それでも作家になりたいからと、書けば書くほど虚しくなって、泣き出したくなるのです。
最近ではもう、食べ物の味はおろか、物の色すらも判断ができなくなってきました。次は何を失ってしまうのでしょうか?もしかしたら、私は人として大切な何かを、何処かへ落としてしまったのかもしれません。
こんなになったのは多分、私が好きだと言った女の子が、私よりも才能がある人間だったからなのでしょう。あの人は私より遅く作家の道を目指し始めたのに、私よりも評価されている。
先に始めた私は本を書くためにこれだけ悩んで、何も生み出せずにいるのに、彼女はもう自分の作品を世に送り出していて、それで作家デビューできそうなくらいの名声も得ている。
おかしいですよね。先に始めたのは私の方なのに、作品に対してかけた時間も、私の方が長いはずなのに。
才能の前に、執念や時間など、ただただ無意味なのです。私はいったい、何があれば救われるのでしょうか?」
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返された手紙は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。噂では、彼は記憶すら曖昧になっているらしい。私は、その人が誰だか知っている。彼に会わなければ……
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六月も終わりになる頃、私は白一色の部屋の中で、今日も自分自身に問いかける。
「空の色は?」
黒
「海の色は?」
白
「人の色は?」
真っ黒
毎日同じ問答をして、自分がの感覚がおかしくなっていることを再確認する。正常ならば、空の色は青で、人の色は肌色と答えるのだろうけれど、自分には、青い海なんて思い出せないし、見えるはずの空や人肌のいろも、真っ黒に見える。黒と白、今の私には、それしか色は与えられなかった。
「はぁ」
この一年で、一生分の溜息をはいた気がする。それほどまでに私の心は壊れてしまった。
「寝よう」
活動のための睡眠ではなく、逃避のための睡眠。寝ても一時間程度で目を覚ましてしまうだろうけど、考えなくていいならそれで十分だった。
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冷たい。初めに感じたのは、肌をうつ水滴の冷たさだった。
背中側全体に、ぬかるんだ土の気持ちの悪い感触を感じる。
ざぁざぁと、水が地面に打ちつける音が聞こえて、雨が降っている。
自室で寝ていた私が、なぜ雨に打たれて、土の上に寝ているのだろうか。
そして、此処はどこだろうか。
疑問を解消するために目を開く。そこにあったのは、黒い空が広がる光景ではなく、灰がかったうす赤い雲から、雨が降っている光景だった。
「色がある……」
起き上がって、あたりを見回しても、此処が何処なのかという疑問は解消されなかった。
ただ古びた神社の、参道の横に私は倒れていたようだった。
状況に反して存外心は落ち着いているが、雨の冷たさで手の先の感覚が無くなってきた。このままだったら、きっと私は死ぬだろう。
境内なら雨宿りもできるんじゃないかと思って、私は境内の方へと歩くことにした。
本殿までの道は、なかなか長く、ところどころ絵馬が落ちていた。どれも紐が千切れていて、願い事が書かれた箇所は、爪で引っ掻いたようにこそぎとられ、どんな願い事をしたのか分からなくなっている。さらに、絵馬に血の様なものが赤く滲んでいるものもあった。
むしゃくしゃして頭をかきむしった。願いが込められた絵馬をめちゃくちゃにするというのは、許してはならない行いだと思ったからなのだろう。
境内につくと、息が重苦しくなるのを感じた。境内は神がいる場所だと言われるが、私のような心が欠落した人間を、神は受け入れてはくれないのだろうか。神でさえ、私のちっぽけな命を、許容しないというのだろうか。
それでも私は死にたくない。無価値なままで死にたくは無いのだ。大袈裟な呼吸で無理矢理肺に空気を送り、社殿の中へ入って行った。
中はぼろぼろの柱で支えられた天井に、蜘蛛の巣が張り巡らされ、床は腐って抜け落ちている箇所があり、神々しい、と呼べる場所が何一つないくらい荒れ果てていた。古びた、というよりは、ろくに手入れもされずに打ち捨てられた神社なのかもしれない。
突然、頭が割れるような痛みが走った。思わず倒れこみ、言葉になりそこねた声を発する。だんだん視界が白くなってきて、目の前が真っ白になり、それが消えたときに見えたのは、黒と白で構成された、自分の部屋の天井だった。
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「なんだったんだあれ......」
時計を確認すると、朝の十時を指していたが、カーテンを開けて外を見ても、黒い雨が降っているだけだった。
ピンポーン
郵便も何も来ないはずなのに、チャイムがなった。たぶん碌な来客じゃないだろう。布団を頭からかぶって、何も聞かないようにした。
ピンポーン
まだなり続ける。私が出るまで、客人はずっとチャイムを鳴らし続けるつもりだろうか。煩わしくなってきて、かぶっていた布団を蹴飛ばして、ボサボサになった髪を無理矢理手で直して、玄関に出た。
「はい、秋雨で......」
そこにいた人間は、たしかに色がついていた。腰まで伸びた髪は色素が抜けた白髪ではあったが、黒い目をしていて、明るい水色のワンピースを着ていた。
「久しぶり、明」
「......なんで」
なんで、この人がここにいるの?星宮霞。誰よりも神に愛された者。私よりも才能に溢れたもの。記憶すら朧げな私が、唯一覚えているもの。この人間が居たから、私は壊れてしまったのだ。でも私は、それしか知らない。
白黒の世界に一人だけ色づいたこの人間については、ただ才能がある、にくい人間だという認識しかない。私がこの人とどういう関係だったかも、なんで私はこの人だけに執着しているのかも、なにもわからない。
「どうぞ、入って。」
これ以上顔を合わせたくないのは、自分の偽らざる本音だ。しかし、この人間のことを知らないと、私はこの白と黒しか存在しない生活から抜け出せないように思えた。
「お邪魔しまーす」
行儀よく靴を揃えた霞を、リビングへと案内する。
「普段リビングなんて使わないから、あまりきれいにしてないけど、ごめんね」
普段は自分の部屋にこもって、ずっと眠っているだけだから、リビングで過ごすのは、ずいぶん久しぶりな気がする。とはいえ、最低限の掃除はしているから、家具は埃をかぶっていないはずだ。
「そこのソファにでも座って。今飲みもの持ってくるから。何がいい?」
「温かいスープがいいな。白い蝶のマグカップに入った」
「お湯も沸いてないんだけど......」
「いいから、わたしの言う通りにしなさい」
ずいぶんとずうずうしいお客様だ。
「わかった......時間がかかるから、くつろいで待ってて」
キッチンへ行ってお湯を沸かす。幸いインスタントのコンソメスープがあったので、作ること自体は出来そうだけど、白い蝶のマグカップと言うのが分からない。まず私はそんなマグカップを使ったことがない。私が使うのは黄色の蝶のマグカップなのだから。
「ねぇ、白い蝶のマグカップなんて僕は持ってないよ」
と断りを入れたら、
「『かすみ用』って書かれた箱があるでしょ?」
と返されので、少し探してみると本当に箱があり、白い蝶のマグカップが入っていた。
記憶をなくす前の私と、彼女の関係が分からなくなってきた。そして私は、ここまで特別だった人間を、記憶をなくしてまも凄まじく憎むほど、作家になると言う夢に執着していたのだろうか。
分からない。記憶を失う前の私が何一つわからない。記憶をなくした理由も、私が星宮霞という人間を憎んでしまうのかも。
お湯が沸いたことを知らせる音が鳴る。白い蝶のマグカップにスープを入れて、自分にはコーヒーを淹れて、リビングへと持っていった。
「これで良かった?」
「問題ないよ。ちゃんとあったんだね。よかったよかった」
「そう、それはなにより」
安堵しながら啜ったコーヒーは、少し、酸っぱかった。
「それで、今日は何をしに来たの?」
「親に追いだされちゃった」
「......え?」
「親から出てけ!って家を追い出されちゃったから、ここに泊めてくれない?」
「......いいけど。人が泊まりに来ることなんてなかったから、用意は何もないけど、それでいいのなら。部屋は、確か妹か姉の部屋があったはず。人が寝るくらいは、できるはず」
妹か姉、などと曖昧な表現をしたのは、私に姉と妹がいた、という記憶がない。なのに私一人の家に、女の子が一緒に住んでいたような跡が見受けられたからだ。
「オッケー。ありがとう、止めてくれて」
そう言ったきり、彼女は二階へと上がっていった。
「あ......結局、あの人と私ってどんなつながりだったんだろ。聞きそびれちゃった」
リビングに、私と、ぬるくなったコーヒーが残った。
「そういえばあの人、ちゃんと色がついてたな......」
長い白い髪をしていたけれど、いつも私の目に映る絵の具で塗りたくったような白ではなく、少し黒っぽい色がついた白。服は長袖にロングスカートだったから全く肌が見えなかったけれど、顔はちゃんと肌色だった。
「そっか......あの人は、あんな色をしていたんだ」
恨めしい相手ではあるけれども、久しく感じることができた色彩に、私は、愛しさを覚えてしまった。
ズキズキと頭痛がする。夢の時より激しい頭痛。
「う......あ......」
体が、この現実を認めていない。私のあの人を恨む気持ちが薄れていくのを、私という存在の根底が許さない。
地面が起きあがる。抵抗しようという気持ちは虚しく、感覚の一切は閉ざされた。
目が覚めると神社の中にいた。雨の代わりに、今はとても濃い霧が立ち込めている。
「また......ここ......ここには何があるんだ......?」
根拠も何もないが、ここは多分、私が小説を書こう思った始まりの場所なのだと思う。そして、記憶をなくした私ではなく、秋雨明という存在そのものが、思い出したくないものなのだろう。
けれど、知らなければ。今の私は、全く価値がない。誰も私を認めない。誰も私を星宮のように特別とは思わない。そして、生きる意味すら、私は知らない。だから知らなければ、自分を。秋雨明という人間が描こうとした物語を。
「そういえば......あの絵馬......」
ふと、あの爪で引っ搔かれて捨てられたような絵馬が気にかかった。一体誰が?なんのために?ここが夢だとするならば、なぜそんなものが出てくるのだろう?何故?突き動かされるように歩き出した。
深い霧の中を注意深く進んで行く。前見たときよりも多くの絵馬が転がっており、絵馬の状態も凄惨で、破片になっていたり、血がべっとりついて文字の部分が見えなくなっていたり、散々だった。
絵馬掛所に近づいて行くにつれて、段々と落ちている絵馬の数が増えていき、ところどころについていた血痕も多くなっていく。この先に、何がいるのだろうか。初めて感じる恐怖を呑み込みながら、少しずつ近づいていく。
そこには少女が立っていた。
血に塗れた絵馬をかけながら、私を見つめている。その目は、どこまでも澱んで、濁った目だった。服はヨレヨレで、髪は色が抜けきった白髪になっている。爪からは血が垂れていた。
絵馬には、『お母さんに好かれますように』と書かれていた。
それからもう一度その少女を見てみると、額にうっすらと、タバコを押しつけられたような痕が見えた。
それだけで、私はこの少女の境遇を理解した。
「君は……お父さんや、お母さんに虐められているの?」
こくり、と少女は頷いた。私を見つめる目は、とても怯えていて、自分に酷いことをしないでほしい、と訴えかけてくるようだった。
「どうして、他の絵馬をめちゃくちゃにしたの?」
私は優しく声をかけた。初め人の願いを踏みにじるような行為に、憤慨したが、その気持ちは、すでに別の感情に変わっていた。
「だって......他の人のお願いを叶えてたら......私の願い、すぐ叶わないから......それに......幸せなのに、まだ幸せになりたいって願うなんて、許せないから......」
「ワガママでしょ。そんなの」と少女は続ける。
「私はこんなにも不幸なのに!!もうわたしにはお母さんしか家族がいないのに!!なのに私はお母さんに愛されない!!煙草を押しつけられて!!ぶたれて!!そんなことをなにもされたことのない子がこれ以上幸せを望む!?おかしいでしょう!」
そう言いながら少女はわんわんと泣いた。この子がどれだけ辛いかは、私には分からない。私は確かに、このような経験をしたことはないから、心底からこの子に共感することはできない。
だけれど、この少女に寄り添おうと思って、小さな少女の隣に、座りこんだ。
拒絶も許容もせず、ただ少女は隣に座った私を見つめる。それを感じながらも、私はずっと目を閉じて、何かできることはないか考える。今の私には、誰かを気にかける余裕はないはずなのに。
「ねぇ……お兄さん……どうすれば……私……お母さんに大好きになって貰えるかな……?」
「……」
「お母さんね……?私のこといらないって……他の家の子供にしようとするの……私……お母さんと一緒に居たいよ……お父さんが亡くなってからお母さんおかしくなっちゃったの……元の優しいお母さんに戻って欲しいよ……」
私がこの子にしてあげるべきこと。それは、母親を説得すること。しかしどうやって?
「お母さんにまた……絵本を読んで欲しいよ……」
思いついた。唯一、私が彼女にしてあげられること。
「じゃあ、絵本を作ろう」
少女は困惑した様子で、「絵本……?」と聞き返してくる。
「お母さんと一緒に読む絵本だよ」
少女は目を輝かせて
「うん……!!つくる……!!」
といった。
「じゃあ、今から必要なものを買いに行こうか」
「分かった……!!」
少女の手を取って、神社を出て、町へと歩いていく。霧はもう晴れていて、夕日がアスファルトに反射した。
───────
「起きて、明、床で寝たら風邪ひくよ」
目を開けると、目の前に星宮の顔が見えた。額には、煙草の痕がうっすらと浮かんでいて、その胸には、一冊の絵本が抱かれている。
「神社であった時のこと、覚えてる?」
「いま、ちょうどその夢を見ていたんだ。あの神社で泣いていたのは、君だったんだね。」
ソファへ移動して、星宮の言葉を待つ。柔らかい生地に、私の腰が沈み込んだ。
「そうだよ。明があの時私に寄り添ってくれたから、私は今ここに生きていられる」
「それは何より。それで、あのあとはどうだった?お母さんは、元に戻ってくれた?」
「もちろん。だから追い出されたのも、ホントは嘘」
「それじゃあ、なんで僕のところなんかに?」
「手紙、あったでしょ。こんなに心が荒んでるのに、私が手を差し伸べないわけないでしょ。明には大きな恩があるんだから。はいこれ、あげる」
手渡されたのは、一冊の小説だった。ただ、数百枚もある原稿用紙を、紐で括って綴じただけの、本とは呼べない文章の塊、それが、彼女の手書きであろうことは、容易に想像できた。
「タイトルはまだ決めてないけど、次に私が出す小説の原稿。まだ誰にも見せてないから、あなたが初めて見ることになるね。今すぐ、読んでもらえる?」
「随分長いようだけど、これ、全部読むの?」
「もちろん。読み終わるまで帰らないからね」
「大変だなぁ……」
そういうと星宮は、キッチンへと向かった。残された私は、手渡された原稿へ目を通そうとした。けれどまた、強い頭痛がした。
原稿をめくろうとする手が、凍えたかのように動かなくなってしまって、自分が自分ではないみたいに思えてきた。
「でも……読まないと……ダメだよ……明……」
あんな手紙を送ってしまったのに、それでも彼女はここへ来た。それは多分あの時と同じだ。僕が彼女を拒絶したから、彼女は母親にしたのと同じように、僕に本を持ってきたのだ。
意を決して、一枚目をめくる。依然として体は少し震えているけれど、頭痛は弱まってきた。
「はい、コーヒー。明これ好きでしょ?」
黄色い蝶のマグカップにコーヒーを淹れて、霞は戻ってきた。その手には、白い蝶のマグカップも握られている。中身は、ミルクが入ったコーヒー。それを持って彼女は私の隣へと座る。
「ありがとう。」
手渡されたコーヒーを飲む。自分が淹れたものより、美味しく感じた。
「美味しいね。これ。」
「君がよく作らせたからね。上手くもなるよ」
「そっか」
二枚、三枚と読み進めていく。読み進めていくうちに、私と星宮が最初に遇った、あの神社での出来事が書かれていることに気づいた。
「ねぇ、なんで、あの神社の出来事を題材にしようと思ったの?」
「君が私に教えてくれた、大切なものだったから。そして、君が、見失っていたものだから」
瞬間、脳裏に浮かぶ、幼少の私の声。
「ねぇ霞ちゃん!僕ね!いつか、霞ちゃんと会えたことを小説にしようと思うんだ!!!」
「そうだ......思い出した......」
僕はきっと、誰かに手を差し伸べたかったんだ。霞のような子供達へ送ろうとして小説を書き始めたんだ。
「自分で訴えようとして、自分で忘れちゃあ駄目だろう。馬鹿だなぁ本当に......本当に......」
嫉妬だのなんだの言って、自分の本当にしたかったことを見失うなんて、なんて間抜けな話なんだろう。
嗚咽が漏れる。気づけば視界は歪んでいて、頬が炎のように熱くなって、隣に霞がいるのにも関わらず、泣いてしまっていた。
「本当に大馬鹿だよ……バカ……」
霞も、涙ぐんでいるようだった。
「なんで?」とは聞かなかった。彼女が今までどんな気持ちを抑え込んで僕と接していたのが、分かったから。
次の日の朝になって、ようやく霞が書いた小説を読み終えた。霞は隣で規則正しい寝息を立てている。
「ふわぁ……眠い」
彼女の寝顔を見ていたらこっちまで眠くなってきて、いつの間にか、彼女の肩に頭を乗せて眠りこんだ。