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第八話

 大学の劇作愛好会を退会し、[ヘヴンスシート]で本格的な役者修業を始めた勇次郎は演劇の世界にどっぷりと浸かっている。そのため大学には授業以外顔を出さなくなり、これまでの交流が無くなって孤立状態となっていた。

 それだけであれば良かったのだが、かつての仲間たちによる嫌がらせまで始まって徐々に居辛くなっている状態だ。不在の間に鍵が壊されて金品を盗まれたり、愛読している小説や過去作品の台本が捨てられたりした。

 管理人に相談してみたものの、彼らが犯人という決定的証拠も無いために立証もできず、警察の介入を希望すると事を荒立てるなと逆に怒られる始末だ。かといってこのようなことが続くと終いには命まで危うい状況になりかねない……困り果てた勇次郎は、先輩たちが多く暮らしている下宿屋の主人に相談した。

「ならウチに来な、空き部屋あるからさ」

 大学の規律違反にはなるものの、これ以上の被害拡大は避けたいと彼の厚意に甘えてそちらへの引っ越しを決め、翌日から少しずつ荷物を運び入れていった。

「転居を許可して頂きたいんです、このようなことが続くと皆々様にご迷惑をお掛けすることになりますので……」

 勇次郎は学生寮の管理人に掛け合い、弱々しく口調で言う。

「本来であれば卒業見込みが無ければ退去できない決まりなんだけどねぇ」

 と言いながらも、管理人にとってもこういった揉め事は迷惑極まりない事態であるため邪険には扱わない。

「先日は警察などと大袈裟なことを申してしまいましたが、あのようなことが自身に降りかかったがために冷静でいられなくて……」

 むしろ被害者であるはずなのだが、なるべく穏便に事を進めようと下手に出ると、管理人も前回と違い態度を軟化させていた。

「まぁ動揺するのも無理ないよねぇ、ただ当面は緊急避難って形にさせてもらっていいかい? 大学に掛け合うにしても時間が要るからさ」

「はい、お手間お掛けします」

 何はともあれ一歩前進出来たと安堵した勇次郎は、その日のうちに全ての荷物を新居住地に移動させた。それから数日待った後、管理人から連絡を受け、大学から特例措置として退去を認めてもらえたとの報告があった。

「あんた劇作愛好会に出入りしてた割に成績優秀なんだね、教授たちが『志垣君は勤勉な学生だから』ってあっさり申請通ったよ」

 ここへきて主宰の言いつけが効果を発揮し、学業の成績を上げておいたことが事態を優位に運ばせた。しかも大学側から、勇次郎が何故規律違反を覚悟で退去に至ったかを調査したいと言っていたとも伝えられる。

「教授たちも劇作愛好会の連中の嫌がらせを疑ってる風だったよ。ただ確実な証拠が無い以上強くも出られなくてさ」

 管理人は爵位持ちの家柄の子息である部長の存在が隘路(あいろ)となっている様子であった。実際それを理由に彼を部長に擁立し、劇作愛好会を存続させる算用もあったからだ。しかしそれが思わぬ枷となってしまい、[ヘヴンスシート]が無ければここからの大学生活が地獄になっていただろう……そう考えると、あの酒場で舞台に立ったのが志づ於でなければこうはならなかっと思わずにはいられなかった。


 大学を味方に付けられた勇次郎は円満に学生寮を退去し、住処でさえも安心できないという事態は解決した。新居となった下宿屋では同業者も多く、講義と稽古を終えると彼らと練習をしたり演劇談義に花を咲かせたりという生活に充足感を覚える。引っ越したことで劇場が目と鼻の先となり、居残り稽古の回数も更に増えていく。

 一方大学では相変わらずの孤立状態が続いているが、嫌がらせがほとんど無くなった分精神的に楽になっていた。そうなると講義に集中でき、それが終われば稽古に時間を充てられた。成績も優秀のままで卒業の見込みも立ち、直前の休暇を利用して帰省する。

「卒業してもそのまま留まるつもりでおります」

 次男坊であるため父親はその言葉に頷くが、母親は再度共に暮らせることを楽しみしていたと見え、複雑な表情を浮かべていた。

「して、職は見つけているのか?」

「はい、本職の役者として生きていく所存です」

「何ですって⁉」

 息子の夢に母親は驚愕して床に手を付いてしまう。維新前の生まれである彼女にしてみると、役者といえば身分の低い職業という認識が残っているようだった。

「そのようなことをやらせるために大学にやっているのではないのですよ」

 母親は非現実的とも取れなくもない息子を思い留まらせようとする。

「しかし僕は次男坊、跡継ぎではありません。そうなると自分自身の生きる道を自分で探さねばならないのです」

「だからって……」

 母親は涙ぐんで勇次郎を見た。一方の父親はただ押し黙って二人のやり取りを見つめている。ここ志垣家では父親の方が大衆文化に理解があり、自宅には小説や絵画、蓄音機を所有していた。彼は休日になると音楽を楽しみ、芸術に触れることを趣味としているため、幕末生まれの割にハイカラで文明開化への対応が出来ている。

「役者か……」

「旦那様、何とか仰ってくださいまし」

「うむ」

 母親は涙声で隣にいる夫に縋った。父親は真意を見極めるかのように、向かいで正座している勇次郎を真っ直ぐ視界に捉えている。若いなりにも将来を本気で決めた勇次郎も父から視線を逸らさず、これで勘当されても役者の道に進むと腹を括った。

「勇次郎」

「はい」

「貴殿はこれまで好奇心旺盛な子ではあった。しかし今日まで続けられたことはあったか?」

 志垣家は裕福な卸商家であるため、子供たちには可能な限りの習い事をさせてきた。特に活発な性格であった勇次郎は何にでも興味を示し、武術や楽器にも手を出していた時期があった。ところが親元を離れる直前まで続けてきた空手以外はなかなか長続きせず、ほとんどを途中で辞めていた。

「確かに仰る通り、僕は好奇心ばかりが旺盛だったように思います。しかし大学に進んで演劇に出会ってから、これまでにない充実した人生を歩めるようになりました」

「学生演劇は遊びの延長、子供が日が暮れてからも遊びたがるのとさして変わらんぞ」

 父の言葉に勇次郎は言葉に詰まる。大人から見れば自身はまだ学生の身分、そう見られていても仕方がないのかとちょっとした悔しさが湧き上がった。

「考え直しなさいな勇次郎さん。せっかく成績も上げているのだから、もっと安定したお仕事に就きなさい」

 ここぞとばかり考えを改めさせようと母親が口を挟む。しかし、世間的に良い仕事とされる職業に就くため成績を上げた訳ではない勇次郎に母の言葉は響かなかった。

「僕は本気で役者として生きていくために勉学に励んでいるのです。役者は多くの人を演じるのが仕事ですので、多くの知識と教養が必要になってきます」

 勇次郎は母ではなく父に向けて自身の“本気”を訴え始める。

「学生演劇に身を置いていた頃は遊びの延長だったと思います、お世辞にもきちんと勉学に励んでいたとは申せません。しかし本職の演劇を観て、これまでにない奥の深さを感じました。その奥深さを体現させるには多くの学びが必要だと思い知り、そこの主宰に『学業を怠るな』という言葉を頂きました」

 この時の勇次郎は、思い通りにするための小芝居など全くしていなかった。ただ真剣に、本気で役者になるという気持ちだけで父と対峙している。

「今学業と並行してそこで演劇を学んでおります。更に多くのことを学び、本気で役者となるために学生演劇は辞めました。この度無事卒業の見込みも立ちましたので、卒業を前に今ある自分の考えをきちんとお話ししようと考えました」

「ふむ」

 父親は表情一つ変えず、次男坊の話を冷静に聞いていた。隣にいる母親は夫と息子の真剣勝負にうろたえるだけで、完全に蚊帳の外と状態となっている。

「それに伴い学生寮を出て劇場近くに引っ越しました、事後報告となり申し訳ございません」

 勇次郎はそう言って頭を下げたが、父親はそれについて気にしていないようで特に咎められはしなかった。

「男として生まれたからには、いずれお国のために戦わねばならぬ時が来ます。そうなれば命を(なげう)つ覚悟を決めねばなりません。それまでは悔いなく生きて参りたいのです、僕にとってそれが役者の道なんです」

 この半世紀で欧米の文化が一気にこの国に押し寄せ、産業革命を経て最新技術を携えた彼らに追いつけ追い越せとばかり、生活様式も欧米化している。その一環として適齢男子は一定期間軍隊に入らねばならず、戦場に赴けば死と背中合わせの境遇が待っているのだ。

「勇次郎」

「はい」

 父親は一拍置いて勇次郎を見た。

「『本気』……確かにそう言ったな。ならばやってなさい」

「旦那様っ!」

 家長である夫が了承したことで、母親は慌てふためいて父親の腕を掴む。

「しかし手助けは出来ないぞ、『本気』というのなら行いで証明してみせろ」

「ありがとうございます」

「勇次郎さんっ、撤回してお父様に謝罪なさい!」

 母親は四つん這いで勇次郎の前に擦り寄り、考えを改めるよう迫った。

「ここで撤回するようでは『本気』とは言えません」

「このようなこと、一年も経てば後悔するのは目に見えていますでしょっ」

「そうならぬよう覚悟を決めてここで宣言したのです。己で決めた道、甘えるつもりはありません」

「勇次郎さんっ!」

「もうよせ」

 妻と息子との言い合いに父親は静かに仲裁する。母親は仕方なく元いた場所に戻り、勇次郎は父の顔を見た。

「男という生き物は、信念を貫くために己を突き通さねばならぬ時があるのだ」

「しかし旦那様……」

 その言葉に、母親は納得のいかぬ表情を浮かべている。

「これも一つの成長かもしれないな、親としてむしろ喜ばねばならぬことではないか」

 父親は妻を宥めて話を締めた。

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