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第七話

 修行のような退屈な稽古を終え、いよいよ本番を迎えた劇作愛好会の晴れ舞台は構内別棟の小型会館で行われることになっている。そこに集合した彼らは役に見合った衣装に着替え、役にあぶれた者たちはもぎりや警備などそれぞれの役割を担って動き回っていた。

「勇次郎君、台詞は全て覚えてきたかい?」

「あぁ、何とか叩き込んだよ」

 実際は三日ほどで全ての台詞を覚え、稽古場以外でも人知れず練習を重ねてきたが、ぎりぎりで覚えられたと思わせるために台本を開く。

「最大限の補助はするが、くれぐれも足を引っ張らぬよう頼むよ」

「精一杯努めさせて頂くよ」

 勇次郎は雛形の衣装に身を包んで女性顔負けの化粧を施した可愛らしい笑顔で頷いてから、台本を開いたままの状態で精神集中を図っていた。

「大丈夫なのだろうか? 勇次郎君」

 他の連中はその様子に不安を覚えて陰口を叩く。

「しかし今更役の変更は出来ないぞ、これまでの彼が蘇ってくれることを信じようではないか」

「そうは言うがここで躓けば全てが水の泡だ」

 そんな声を耳で捉えながらも一切無視して気持ちを整えていると、時間ですと声が掛かって全員が舞台袖に移動した。先頭を歩いていた部長が緞帳をめくって客席を覗き、他の部員に顔を向けて歯を見せた。

「今回は格段に客の入りが良いぞ」

「本当か?」

 彼の言葉に緊張感を滲ませる部員も現れ、開演前から浮足立った雰囲気が漂い始める。その様子を最後尾で眺めていた勇次郎も否が応にも緊張が伝わり、反面気合も入ってきた。

「怖じ気付くなよ勇次郎君、全ては君の出来に掛かっているんだ」

 部長のひと言に勇次郎は笑みで応え、演目の開始場面に備えて緞帳の降りている舞台に入り、指定の場所で待機する。そしてブザーが鳴った後幕が開き、勇次郎の中でこれまでに感じたことの無いスイッチが点灯した。

「えっ……?」

 舞台上で芝居を始めた勇次郎は、稽古とは明らかに違った表情を見せている。定点証明を浴びている彼はひときわ美しく、頭のてっぺんから足のつま先まで役になりきっていた。観客は序盤から彼の芝居に魅了され、劇作愛好会の連中もしばらくは放心状態でそれを見つめている。

「部長、出番です」

 裏方担当の男子学生に声を掛けられた部長は慌てて舞台上に出た。しかし、ここへきて見くびっていた相手の芝居力に動揺して小さな失敗を繰り返している。勇次郎の芝居に触発されて本領発揮する者もいるが、部長のように空回る者もいて演目そのものの出来は良くも悪くもないまま芝居は続いていた。

「一体どうなっているんだ?」

「もしかしてまんまと騙されていたのか?」

 楽屋で陰口を叩いていた者たちは稽古の時の態度を疑い始め、一人出し抜いて本職の演劇集団の中で稽古を積んでいたのではと考えを変え始めていた。それくらいに勇次郎の芝居は洗練されており、最早学生の芝居とは思えぬきらびやかさに圧倒されている。

 そしてそれを証明するかのように、観客たちは勇次郎以外の演者をほとんど見ていなかった。これまで先陣を切って着々と準備を進めてきた者たちではなく、ぎりぎりまで顔を出さなかった勇次郎ばかりが注目されている現状に、理不尽なものを心に秘める者が現れ始めていた。

 幕の切り替えで一旦緞帳が降りた舞台裏では衣装直しが慌ただしく行われている。そこは只でさえ時間に追われて殺伐とした雰囲気になりやすいのに、この日は別の欲求不満が蔓延して不協和音が漂っていた。しかし途中で放り投げる訳にもいかず、それぞれが役割をこなして第二幕に備える。

 しかし神がかった状態の勇次郎は、それさえも気にせぬ態度で完全に役が取り憑いていた。そのせいで誰も声が掛けられず、言わば暴走に近い状態である。それでも観客は勇次郎が舞台に上がれば拍手で迎え、終演直後の引幕での喝采はほぼ彼一人に向けられたものであった。

 これだ……勇次郎はほぼ初めて味わう万雷の拍手に幸福感を覚えていた。今後何があっても役者として生きていく覚悟を決め、それは同時に劇作愛好会との完全な決別を意味している。それを象徴するかのように、全てを終えて楽屋へ戻った彼を出迎えたのは、達成感を味わう新たな結束力ではなく呪いにも近い嫉妬の視線であった。

『染まるなよ』

 勇次郎は耳の中で主宰の声が木霊する。唐津の真意は不明だが、今の彼にはこの言葉が腑に落ちたように感じた。これ以上ここにはいられない……いち早く着替えてしまおうと鬘に手をやったところで、今やすっかり聞き慣れた声で名を呼ばれる。

「勇次郎、外凄ぇことになってるぞ」

 声の主伏見は断りもせずずかずかと楽屋に入り、鬘にやっていた手を掴んで立ち上がらせた。

「一寸顔出して煽ってやれ」

「えっ?」

 彼は返事も聞かず勇次郎を外へ連れ出そうとすると、大舞台での小さな失態に打ちのめされた部長が立ち塞がる。

「外部の方が立入禁止だ」

「そう言うなら外の喧騒にも責任持ちやがれ」

「何だとっ!」

 終演直後で疲れ切っている体で伏見に掴みかかるが、簡単に払われてふらついてしまっていた。

「こんなことで嫉妬してるようじゃ上は目指せねぇ、良い機会だから諦めな」

 本職としての容赦ない言葉に部長はそのまま項垂れる。その様子を冷ややかに見やった伏見は勇次郎の手を引いて外に出ると、想像していなかったほどの人だかりが出来上がっていた。多くの若い男女が女装姿の勇次郎に色めき立ち、拍手を送ったり手を振ったりしている。

 こんなことになっていたのか? 勇次郎は思わぬ反響に倒れそうになったが、どうにか足を踏ん張りながら伏見を見上げると、彼が着用している白い背広の胸ポケットに挿してある真っ赤な薔薇が視界に入った。

「これ、頂いていいですか?」

「ん? あぁ」

 伏見の了承を得たのをいいことに薔薇を手に取った勇次郎は、紅く塗られている唇を軽く当ててから群衆の中に投げ入れる。彼らはそれ欲しさに落ちていった薔薇に群がっているのを見てから、群衆相手に微笑みながら手を振って楽屋に戻った。

 観客たちの上々な反応とは裏腹に重苦しい空気が漂っており、勇次郎に向けられる視線は嫉妬から憎悪に近いものへと変わっていた。伏見が一緒にいるお陰でどうにか平常心を保てているが、自身の芝居が聴衆に認められた小さな栄光の裏側で、その脇に追いやられたかつての仲間たちからの憎悪を同時に受け取っていた。

 この空気の中で孤軍奮闘は難しい……いち早く着替えを終えて持ち帰る私物をまとめている勇次郎の元に、部長を始めとする劇作愛好会の連中が威圧的な態度で対峙してくる。

「勇次郎君、貴殿はやはり裏切り者であったな」

「その覚えは無いが、引き際ではあるみたいだね」

 こんな奴らに潰されてたまるか……勇次郎は戦いに挑む視線を相手に向けて立ち上がった。

「貴殿のような者は劇作愛好会に相応しくない。今後ここへの出入りを一切禁止する」

「分かりました、お世話になりました」

 彼はまとめた荷物を手に持ち、憎悪の視線を向ける連中に一礼して伏見と共に楽屋を出る。外の空気は学生生活での孤立を選択した勇次郎をいとも簡単に受け入れ、先程まであった澱んだ空気を吐き出して新たな空気を取り込んだ。

「あの程度でやっ噛むようじゃ大したこと無ぇ連中だな」

 隣にいる伏見はそう言って笑う。

「でも嘘を吐いて放置してきたことにも問題はあったのかも知れません」

「いや、正直に伝えたところで顛末は同じだ。そもそもお前はあそこに収まりきる器じゃねぇのさ、初対面の時にそう思ったよ」

 彼は役者としての嗅覚で勇次郎の才覚を嗅ぎ取っていた。

「でも僕はまだまだです、今回はあそこだったので……」

「まぁあの程度で満足はするな、最低限[ヘヴンスシート]を背負って立てるだけの役者になれ」

「はい」

 二人は並んで歩き、今となっては居場所になっている劇場へと向かっていた。


 勇次郎が劇作愛好会で最後となる芝居を、志づ於と須崎も一般客として観劇していた。

「あのぼんなかなかのもんだったな」

 須崎はそう言ってにやりと笑う。

「アタシは芝居のことは分かんないけどさ、あの子の中にある熱量には驚いたよ」

「あぁ、ただあそこからは出た方が良いだろう」

「そうだね、素人目でも実力の差があるのは見て取れたからさ」

「上手く育てば伏見創介どころか、唐津吉右衛門をも凌ぐ役者になるかもな」

「へぇ、あんたがそう言うなんて珍しいね」

「俺にだって才能のある奴を褒める程度の裁量はあるんだよ」

 その言葉に志づ於はふふふと笑う。今でこそ殺人さえも厭わない須崎だが元々育ちも悪くなく、芸事に精通している面に対しては敬意を持っていた。

「あんたはそっちの方が合ってると思うけどね」

「昔の話だ、今更戻る気なんか無ぇさ」

「あっそう……この後仕事だからこっちなんだよ」

 志づ於は酒場外方面を指差して言う。

「なら送るさ。お前は一人で歩かない方がいい」

 須崎は彼女の肩を抱き、音楽酒場[パラディス]まで一緒に歩く。志づ於はいつも通り派手な衣装と化粧を身に纏って舞台上に立ち、定点照明を浴びながら艶のある歌声を披露した。観客たちはいつもと変わらず拍手を贈りっていたが。後方の隅で舞台上を見つめていた須崎だけは志づ於の僅かなぶれを察知していた。

「珍しいこともあるもんだな」

 彼は独り言を呟いてからそっと店を出て行った。

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