第六話
志づ於との再会を果たせた勇次郎は、益々演劇に熱を入れるようになっていた。稽古や公演を終えても劇場に残り、黙劇映画で観た動きを姿見に映しながら何度も何度も練習を繰り返す。そんな日々を続けていると疲労も多少溜まりはするが、今は生活そのものが充実しており、勉学との両立も全く苦にならなかった。
志づ於さんに見合う男になりたい……そう考えながら先日抓られた耳の感触を思い出して自身を鼓舞していく。その努力は少しずつ実り始め、前回の演目で初めて宣伝広告に自身の名前が載ったのだった。
そんな勇次郎の姿をこっそりと見つめている女の姿があった。彼女は[ヘヴンスシート]主宰である唐津吉右衛門の長女ナオという名の娘で、中等教育を受けた後社会勉強として近所にある喫茶店の給仕係として働いている。彼女はかねてより勇次郎に思いを寄せており、仕事にかこつけて接点を作ろうとするも相手にされていない。
更に言うと伏見の素行に問題があるため稽古場は女人禁制となっており、父のいる時間帯は入ることが出来なかった。それで時々勇次郎が居残り稽古をしている深夜帯に、誰もいないのをを見計らって黙劇の練習をしている彼の様子を覗き見している。
それに気付くことの無い勇次郎が一心不乱に練習を積んでいる姿に見惚れていると、目の前を虫が通過した。それに驚いたナオは思わず声を上げてしまい、彼の動きがぴたと止まる。
「誰かいるのですか?」
その言葉にナオは咄嗟に身を隠した。勇次郎は目視以上の行動を起こさず練習を再開したので、彼女もまた入口に貼り付いて愛しき男の姿を見つめている。
「ここで何をしているのだ?」
背後から掛けられた男性の声にナオの背中がびくりと震えた。その声の主が父吉右衛門の声と分かったためで、肝を冷やした彼女は罰悪そうに振り返る。
「ここには来るなと言ってあるはずだが?」
「申し訳ありません」
伏見が加入する直前まではナオにとっても馴染み深い場であり、彼がいない時くらいは許可をくれても……と思っていた。最近までは父の言いつけを守って立ち寄らないようにしていたのだが、勇次郎への片思いを募らせていくうちに我慢ならなくなっている状態だ。
「それに女一人で彷徨く時間ではない、家に戻りなさい」
「はい」
ナオは後ろ髪引かれるようにもう一度振り返ってからとぼとぼと自宅に戻る。彼が勤務先である喫茶店への出入りが増えているのは喜ばしいのだが、先日相席となった年増の女に魅了されている様に悔しさを滲ませていた。しかもその女もまた時々姿を見せるようになり、何となく勇次郎を探しているように見えて嫉妬心を燃え上がらせている状態だ。
私の方が彼を知っているのに……勇次郎に惚れてからのナオは半ば付きまといのように彼の行動に探りを入れ、通っている大学、時々立ち寄る公園や映画館、そして自宅である学生寮の場所まで把握していた。
外国の黙劇に憧れて日夜練習を積んでいること、父の教えに従って毎日勉学に励んでいること、落ち込むことがあれば所属役者たちが多く住む下宿場の飼い犬に悩みを打ち明けていることなど、志垣勇次郎という男の情報を貪欲にかき集めて彼の人となりを知るための努力を惜しまなかった。
「私が一番あのお方のことを存じ上げておりますのよ」
ナオは上空に浮かぶ満月を見上げてそう呟いた。
そんな娘の恋情に薄々気付いている父唐津吉右衛門だが、特に今手塩にかけて育てようとしている勇次郎を誘惑するような行動は、劇団主宰の娘として控えてほしいと考えている。勇次郎がナオを思い慕っているのであればまだしも、今後劇団の将来を任せる算用も視野に入れているだけに今は大人しくしていろ……それが演劇家としての本音であった。
劇団員の居残り稽古に対し、個々の自由に任せている唐津はこれまでほとんど干渉をしなかった。しかし言いつけを破ってまで覗きに来ている娘を見ると、勇次郎に対する興味度合いを把握しておいた方が良いと父としての感情を優先する。
外での喧騒になど目もくれず、ひたすら黙劇の練習の練習に勤しむ勇次郎の表情は真剣そのものであった。禁欲的なまでに完璧を求めて何度も何度も同じ動きを繰り返し、その姿が若い頃にあったひたむきさを思い出させる。かつてこれに近い表情を見せる若いのがいたな……唐津は素質は十分あったのに道半ばで役者の世界から足を洗った三白眼の男が脳裏に浮かんだ。
「それくらいにしておけ勇次郎、休むのも仕事のうちだ」
主宰の声に我に返った勇次郎は姿見から視線を外す。
「すみません、つい夢中になってしまいました」
練習を止めた彼は帰る前に軽く床を拭いてから唐津に一礼した。
「お先に失礼します」
「お疲れさん、また明日な」
主宰に背中を見送られて門限数分前に寮に帰り着いた勇次郎は、明日は授業が無いからと着替えだけ済ませてベッドに潜り込む。ところがそんな時に限って邪魔が入るというもので、ドアをノックする音が聞こえてきた。
深夜帯から未明に差し掛かる時間なのでもう寝かせてくれと無視を決め込むが、何度もドアを叩かれる上人数がどんどんと増えていく。これではドアを破壊されかねないと仕方なくドアを開けると、険しい表情を浮かべている劇作愛好会の連中が数名立っていた。
「いるなら直ぐさま出てきたまえ」
「済まない、就寝していたのさ。こんな夜更けに何か用かい?」
勇次郎は明日でもいいだろうがという視線を向けるが、相手側はそうもいかぬと躙り寄る。
「『何か用?』とは随分な物言いじゃないか、これは一体どういうことなのだっ⁉」
先頭に立っている劇作愛好会部長である男子学生がカラフルな紙切れを突き付け、配下が如くついて来ている学生たちが一斉に勇次郎を罵り始める。勢いは感じるのだが言葉が重なって何を言っているのか分からず、取り敢えず紙切れに視線をやると先日初めて自身の名前が乗った演目の宣伝広告であった。
「説明したまえ勇次郎君、小生たちを出し抜いて本職の演劇集団に出入りするとは何事かっ⁉」
勇次郎は嫉妬を剥き出しにする彼らを見ながら、あの時連れて行かなくて良かったと改めて思う。これまでこんな連中と一緒にいたのかと思うと少し前の自身が恥ずかしくなった。
「そのような風に思われているとは心外だよ。日雇いとして出入りしているだけさ」
さてどう切り抜けてやろうか? 勇次郎は相手の出方を窺いながら辻褄を合わせられそうな言い訳を考える。
「日雇いだと? そのような嘘が通用するとでも思っているのかっ⁉」
「そうだぞ! 貴殿のしていることは背信行為である!」
部長は端の方に小さく書かれている勇次郎の名前を指差して怒りを露わにする。この程度の配役で大袈裟な……小さなことで文句を付ける劇作愛好会の連中に内心辟易としていた。
「その時は配役予定だった役者が都合で降板されたのだ、台詞もほとんど無い端役だからという理由で僕が呼ばれたに過ぎない」
日雇いの延長で偶々引き受けたことにして連中を追い出そうとする。しかし集団心理というものは恐ろしいもので、説明しろと乗り込んでおきながら話も聞かず、自身たちの思い込みを押し付けようとしてくる何とも面倒な事態となっていた。
「正直なことを話し給え、君は小生たちを出し抜いたのであろう?」
「先程も申し上げたが緊急の代役に過ぎない。正直に話しているのに信じる気が無いというのであればこの対話は不毛ではないのか?」
「何だとっ! 我々を愚弄する気か⁉」
「少し声を控え給え、そういう話は夜更けにするものではないと思うが」
「居直る気かっ! 何と小狡い男なのだっ!」
火に油を注ぐ結果となり、更に騒ぎ立てる連中を見た勇次郎は頭を抱える。そこへ後方から事情を知っていることになっている男子学生は前に出て対立している間に立った。
「まぁ君たち声量は控え給え、就寝している者もいる故な」
「これが黙っていられるのかっ!」
「只でさえ僕たちは学校の異端児、ここで悪評を作ると劇作愛好会そのものが廃部に追い込まれてしまうぞ」
「ぐぬっ……」
彼は部長をはじめとする連中を黙らせてから勇次郎と向き合う。
「勇次郎君、例え誤解だとしてもこれを見たら皆が出し抜きだと思うのは当然至極ではないだろうか?」
「しかし背信と言われるのは心外だ」
「再来週にはこちらの公演が控えているのは君だって知っているはずだ、それごと反故にしてしまえば本当に背信行為となるぞ」
そう言われてしまうと義というものに背いている現状に何も言い返せなくなった。
「君が役を叩き込むのみというところまで準備は進んでいるのだ。こちらも今更後戻りは出来ない、二週間程度であれば中断しても支障は無いと思うのだが」
「……」
「この機会に賭けている者は多い、君だってそうじゃなかったのか?」
「そうだぞ、せめて明日から公演までは顔を出し給え」
彼の冷静な仲裁によって逆に押し切られた勇次郎は、翌日から劇作愛好会の稽古への参加を約束させられてしまう。そうなると当面劇場に通えなくなるので、翌朝早速主宰唐津を訪ねて事の顛末を話した。
「まぁ身から出た錆というものだな」
唐津はそう言って笑う。
「すみません……」
勇次郎は小さな体を更に小さくして主宰に向け謝意を述べた。
「しかし何故またそのような嘘を吐いたのだ?」
彼は稽古中とは違う穏やかな口調で訊ねる。
「正直に事を話せば入団の橋渡しをさせられそうな気がしまして。そうなると皆様にご迷惑が掛かりますし……」
「そうなったところで決めるのは私だぞ、お前が気を効かせることでもない。まぁその程度で騒ぎ立てるような連中では通用しないがな」
勇次郎は罰悪そうな表情を浮かべて主宰を見上げた。
「しかし学生間のこととは申せ反故にするのは良くないぞ。期間中はそちらに顔を出せ」
「ご迷惑お掛けします」
勇次郎がしおらしく頭を下げると、唐津は彼の頭に手を置く。
「但し、染まるなよ。これまでの努力が無駄になる」
「はい」
その日の夕刻から約二週間ほど劇作愛好会に顔を出し、このところ身を置いていた本職集団とはまるで違う生ぬるい空間に退屈さを感じていた。
今までこんな中にいたのか? 失意にも近い感情を抱えながらも稽古そのものには真面目に取り組み、染まり過ぎず見下し過ぎぬ塩梅を保ちながらも着々と役を作っていく。
「勇次郎君、少し腕を落としたようだな」
部長は小馬鹿にしたような視線を向けた。
「そのようだね、稽古はかなり久し振りだから」
そのまま騙されておけと思いながら顔では笑ってみせる。能ある鷹が如く振る舞う勇次郎を見た彼らは本当に緊急の代役だったのでは? と思うようになり、それが幸いして態度も徐々に軟化していった。
「知らぬが華とはこのことね」
その様子を珈琲の出前で大学を訪れていたナオが窺っており、自身はもっと熱心に芝居に打ち込んでいる彼を知っていると優越感に浸る。
「私はあの方の真の実力を存じ上げているのよ」
彼女は誰にともなくそう呟き、劇作愛好会の練習風景を覗き見ながらほくそ笑んでいた。