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第五話

 [ヘヴンスシート]に通うようになって季節が一つ過ぎ、勇次郎は裏方の日雇いから役者見習いになって稽古場に入ることを許される。台詞の無い通行人や斬られ役がほとんどだが、今は本職の端くれとして僅かながらも報酬が貰えることが大きな動機付けとなっていた。主宰である唐津は日々稽古に励み大学の勉学も怠らない勇次郎の勤勉さを評価しており、先輩の劇団員たちも久し振りに良い新人が来たと可愛がっている。

 [ヘヴンスシート]に馴染めば馴染むほど劇作愛好会の存在すら脳裏に残らなくなり、次回作が控えているにも関わらず以前吐いた嘘を理由にぱたと寄り付かなくなっていた。大学ではほとんど顔を合わせないが、学生寮では時々出会ってしまうため門限ギリギリに帰宅する日が増えている。

 最近はその時間潰しに劇場近くの喫茶店に入り浸るようになり、勉学や読書の時間に充てていた。珈琲が好きな訳でも華やかな着物とフリルの前掛け姿の若い女性給仕係に興味がある訳でもないが、何も頼まぬ訳にはいかぬと仕方なしに飲み始めた珈琲も今やすっかり独特な苦味に慣れてきている。

「お取り込み中失礼致します」

 と注文と配膳以外で声を掛けてこない女性給仕係が勇次郎のいるテーブル脇に立っていた。彼女たちは近年急増している職業婦人として流行の最先端を走っており、男性のみならず自活を考えている女学生たちの羨望の的となっている。

「相席をお願いしても宜しゅうございますか?」

 出来れば一人でいたいと思ったが、入口には順番待ちの客が行列を作っていた。退出も考えたがまだ寮に戻る気になれずはいと頷くと、それに笑みを見せた女性給仕係は一人の女性客を案内してきた。散らばっていた本を片付けてからそちらに視線をやると、いつぞやに港で出逢った歌手“シヅオ”が向かい席に立っている。

「悪いね、お取り込み中のところにさ」

「いっいえ……」

 “シヅオ”は慌てた様子を見せる学生にふっと笑い掛けてから向かいの椅子に腰掛けた。

「煙草、いいかい?」

 彼女は小さな鞄から箱とマッチを取り出してから女性給仕係に灰皿を要求する。

「あの……」

「この前の坊やだろ? あんた」

「えっ?」

 勇次郎は覚えてもらえていたことが嬉しかったが、なるべくその感情を表に出さぬよう気を引き締めた。

「細身なのにあの腕っぷしの強さには驚いたよ」

「あの時は夢中で……」

 照れもあって謙遜したが、幼少期から体格に恵まれなかったため祖父の勧めで武術の嗜みがあった。そのお陰であの程度のことは朝飯前といえる。

「助かったよ、ちゃんと礼も言えてなかったからさ」

 その言葉だけで勇次郎の気持ちは舞い上がりそうになった。そこへ女性給仕係が灰皿を手にやって来たので、“シヅオ”は(ついで)に紅茶を注文してから煙草に火を点ける。ここの売りは珈琲なのにと思った勇次郎は、思わず彼女をじっと見つめてしまう。

「アタシ珈琲得意じゃないんだよ。酒場街にも紅茶出す店があるんだけどさ、其処のは不味くてね」

「そうなんですね。ただ珈琲が似合いそうな印象がありましたので」

「そぉ? でも粋がって美味くもないものなんか飲みたくないんだよ」

「えぇ、ご無理はなさらなくていいと思います」

 彼は“シヅオ”の嗜好を一つ知れたことが単純に嬉しかった。

「この辺にはよく来られるんですか?」

「偶にだね。あんたは? すぐ近所なのかい?」

「はい、近くにある劇場に出入りさせてもらっているんです」

「ってことは[ヘヴンスシート]だね。あんた役者目指してんのかい?」

 “シヅオ”は身を乗り出して勇次郎の話に興味を示す。

「はい、一応大学の愛好会にも籍はあるのですが……」

「彼処はプロフェッショナルの集まりだからね、学生のごっご遊びが物足りなくなってるんだろ?」

 本音を言い当てられてしまった勇次郎は、罰悪そうな表情を浮かべてはいと頷いた。

「久し振りに観ようかねぇ? 演劇。役は貰えているのかい?」

「通行人か斬られ役といったところです」

「まぁ吉右衛門さんのことだから学業を優先させてんだろうね、あの人苦労人でほとんど学校行けなかったんだよ」

「はい、なので『学業は怠るな』とよく仰っています」

 “シヅオ”は懐かしそうにあの人らしいねと笑った。

「主宰をご存知ということは元は女ゆ……」

「紅茶をお持ち致しました」

 と“シヅオ”が注文した紅茶を持った女性給仕係が割って入る。そこで話が止まってしまったため頃合いの悪さを恨めしく思う勇次郎だが、“シヅオ”は気にする風でもなくありがとうと笑顔を向けていた。彼女は煙草を揉み消してからそれに手を伸ばし、ソーサーごと持ち上げてから持ち手を上品につまんで音を立てず紅茶を啜る。

 その姿に視線を奪われた勇次郎は、少々下品な口の聞き方との落差にさらなる魅力を感じていた。やはり美しい方だと見惚れていると、先程の女性給仕係がポットを持って勇次郎の傍らに立つ。

「失礼致します、只今珈琲のお代わりを無料でご提供させて頂いておりますが如何致しましょうか?」

「あっ、はい……」

 ふわふわとした別次元の中にいた彼は現実に引き戻されて取り敢えずの返事をしたが、給仕係はお代わりの要求と解釈して空になったカップになみなみと珈琲を淹れた。それに戸惑う勇次郎とすました顔で接客を続ける給仕係を“シヅオ”は面白そうに眺めている。

「どうぞごゆっくりなさいませ」

 給仕係は最後に笑顔を向けてから別のテーブルに移動し、先程の同じ台詞で別の客の接客を始めていた。

「ふふふ、さっきのお嬢さん、あんたに惚れてるね」

 “シヅオ”は女性給仕係を視線で追いながら言うが、ろくな私語も交わしたことの無い相手がどうやって自身に惚れるのかが理解できずにいる。仮に有名人であればそういうこともあるだろうが自身はただの学生だ……勇次郎はそうでしょうか? と首を傾げた。

「試しに一遍声掛けてみな、多分靡くと思うよ」

「えっ?」

「役者やるなら女知っといて損は無いって話だよ。程々には遊んでおきな、芸の肥やしになるからさ」

 “シヅオ”は怪訝な表情を浮かべている勇次郎に微笑み掛ける。それが何となく子供扱いされているように感じられて、少しばかり悔しい気持ちが湧き上がった。

「あの。仮に貴女を選んだらどうしますか?」

「は?」

 その言葉に彼女から笑みが消える。

「女ってやつを知りたいと言えば教えて頂けるんですか?」

 勇次郎は芝居含みながらも真剣な気持ちを込めてそう言った。二人は賑わう店内で無言のまま見つめ合って互いの腹を探る。

「そうだねぇ……」

 “シヅオ”は肘を付いた手の上に顎を乗せ、首を傾けてから空いている腕を前に伸ばした。少し節くれだった細い指が勇次郎の髪に触れ、ゆっくりと奥に入れる。彼女の冷たい指の感触に勇次郎の胸は高鳴り、これまで眠っていた雄の本能を疼き始めた。そんな若者の反応を面白がるように“シヅオ”の口角が少し上がり、彼の耳を摘んで軽く抓る。

「痛っ!」

 勇次郎は高揚した感情の中に差し込んできた痛みに反応して身体を退けぞらせた。

「そんなじゃアタシは落とせないよ、もう少し勉強してきな」

「だからって抓らなくてもいいじゃないですか」

 結局子供扱いされるのかとむっとしながらまだ痛みの残る耳を触る。

「寝言なのかと思ってさ」

「寝てなんかいませんよ」

 ふくれっ面を見せる学生に“シヅオ”は声を立てて笑った。

「ははは、あんた面白い子だねぇ。吉右衛門さんが引き入れた理由が一寸(ちょっと)だけ分かった気がするよ」

「あまり褒められている気がしないのですが……」

「貶してはないよ。ところで名前は?」

 勇次郎は目の前にいる魅惑的な女に名を訊ねられて心臓が弾む。

「志垣勇次郎です」

「へぇ、良い名前だね。アタシは志づ於、忘れてもらって構わないよ」

 志づ於は紅茶を飲み干して席を立った。

「いえ、絶対に忘れません」

 勇次郎も慌てて立ち上がったが、ゆっくりしてなと留められる。

「ふふふ、運が良ければまた逢おうね勇次郎君(・・・・)

 志づ於は僅かに乱れていた勇次郎の襟元を直してからさっそうと喫茶店を出て行った。

「また、お逢いしたいです……志づ於さん」

 勇次郎は着物姿の美しい女性の背中を見送っていると、先程の女性給仕係が早々に志づ於が使用したティーカップを片付け始める。

「まぁ厭らしい」

 彼女はカップの縁にほんの少し付着した口紅を嫌そうに見た。

「お気を付けあそばせお客様、あの手の女は危険ですのよ」

 彼女はそう言ってカップを片付けたが、勇次郎の耳にその言葉は届いておらず、抓られた耳を触って一人にやついていた。

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