第二話
翌朝、眠い目をこすりながら大学に入った勇次郎は、午後からの授業を待つ時間潰しに溜まり場となっている空き教室に入る。午前の講義を優先しているのかがらんと静まり返り、散らかった机から小説を一冊抜き取って黙読を始めた。
『小説を持つと不良、読み書きすると馬鹿になる』
それが常識としてまかり通っている昨今、こうして文学に没頭している彼らはいわば異端児的存在であった。教科書も小説も書物ではないかと思うのだが、架空の物語を愉しむなど気狂いだと息巻く頭の固い大人たち相手に、何をどう言っても理解されないであろうと表向きは一切口を閉ざしている。
既に何度か完読している小説であったため、読み切るまでにそれほどの時間を要さなかった。勇次郎は独りでいるのをいいことに奥にある大きな姿見の前に立ち、映画館で観た人気俳優の動きを真似し始める。近年海外の黙劇映画が上映されるようになり、台詞無しで全てを表現する俳優が人気を集めていた。それに感銘を受けた彼は密かな憧れを持っており、誰もいないのを見計らって少しずつ練習するようになっている。
勿論今集っている仲間たちと作る演劇も楽しいのだが、海外の恋愛戯曲を取り扱うことが多いため、小柄で可愛い顔立ちをしている彼は必然的に女性役をやらされた。女装や化粧が嫌ではないのだが、男同士で濡れ場を演じねばならないというのがどうにも抵抗がある。要は男である以上男役を演じたいというのが本音であった。
「やぁ、早いな」
昨夜一緒に酒場にいた仲間の一人が大きな箱を持って教室内に入る。他にも後輩を連れており、彼らは意気揚々と箱を開け始めた。
「仕上げたぞ、衣装」
そう言って取り出した数着のドレスを勇次郎に見せる。彼の実家は仕立て屋を営んでおり、跡取りとして縫製技術を持っていた。
「君に合うように仕立ててあるが、衣装がどう動くのかを確認しておきたいから今のうちに試着してみてくれないか?」
「やはり僕が着るのだな」
勇次郎は手渡された衣装を見て失笑する。
「ここには女がいないんだ、それ以前に鬘を付けて化粧を施した君はそこいらの女よりも美しい」
あの方のようにはいかないさ……そう言いそうになったが、昨夜の話題についてはあまり触れない方がいいような気がして言葉を飲み込んだ。
「ところで勇次郎君。君はあれからずっと観ていたのかい?」
「えっ?」
「酒場の独唱会だよ、楽しかったかい?」
「まぁ……それなりに」
仲間の方からその話題に触れてきたことに一瞬たじろいだが、ただ軽く訊ねているだけの様相だったので曖昧な返答でやり過ごす。勇次郎はワイシャツを脱いでからドレスに袖を通すと、仕立て屋の彼の指示に従って色々な動きをしてみせていた。
「勇次郎君、この後予定はあるのかい?」
「講義が三時間入っているんだ、だから今日はもう戻れないかも」
「分かった。午後から脚本の打ち合わせをするとか言っていたが、講義を蔑ろにしすぎて目を付けられるとここが使えなくなるからね。今日はそちらを優先した方がいい」
彼は仲間内では比較的温厚な性分で、過激派の中には『軟弱者』と謗る者もいた。しかし勇次郎は彼の温厚さに安心感を覚えており、学内でも共に行動することが多い。
「またな勇次郎君」
「うん、また」
勇次郎は食堂で腹ごしらえを済ませてから三時間の講義を受けたのだが、途中でズボンのポケットに入れっ放しになっていた原稿用紙の存在に気付いてしまう。昨夜出会った白一色の背広を着た伏見の秀麗な顔を思い出し、さほど遠くない住所を訪ねてみようと思い立った。
[ヘブンスシート]……勇次郎は心の中で呟きながら目的地に辿り着くと、二階建ての洋風建築物がそびえ立っている。この日は劇場公演があると見え、僅かながらも行列が出来ていた。彼はポケットに入れている財布の中身を確認すると、一円札が一枚と銭と厘の硬貨がじゃらっと入っている。
勇次郎の実家は比較的裕福で、日雇いをしなくても贅沢さえしなければ十分生活できるだけの小遣いを貰っている。そんな彼にとっても本職の演劇切符は大きな出費と言え、来月分の仕送りが届くまでの生活算用を脳内ではじき始めた。
「食費と光熱費を控えるか」
演劇役者を志す者としては折角の好機なので、意を決して列の最後尾に並ぶと、声の低い男に声を掛けられる。
「おぅ、来てくれたんだな」
振り返る前に腕を掴まれた勇次郎は列から引っ張り出された。
「あんたはこっちだ、俺の招待客だからな」
頭上から降ってくる声につられて顔を上げると、昨夜酒場で出会った伏見創介がにこやかな表情で館内へと誘導する。
「あの、招待客って……」
「来るなら連絡寄越せよ」
「生憎寮には電話機が無いんです」
「そうか。まぁいい、こっちだ」
伏見は戸惑う勇次郎の腕を引っ張ってずんずんと奥に進み、【関係者以外立入禁止】と書かれたドアを開けて中に入った。
「あの、大丈夫なんですか?」
「問題無い、主宰には話してある」
彼が通した場所は劇場の裏手にある楽屋で、この後始まる演目の役に合った衣装を身に着けている役者たちが控えている。
「あらぁ、だぁれこの子?」
その中にいた巨漢女優が勇次郎を見てにやにやとしている。髭面を近付けられてどう取り繕ってよいのか困っている彼の前に伏見が立ち塞がった。
「寄るな衆道野郎、主宰は何処だ?」
「ケチ臭い男ねぇ、奥にいるわよぉ。後でね坊やぁ」
巨漢な女装役者は勇次郎に向け友好的に手を降っている。その辺りの対応に不慣れな彼は、助けを求めるように伏見を見上げた。
「アレは危険だ、相手するな」
「はぁ……」
「そんなことより主宰だ。あんたなら大丈夫だろう」
「何がです?」
勇次郎は伏見の狙いが分からなかったが、本職の劇場に足を踏み入れている現状に対し徐々に緊張が高まっていた。
「まぁすぐに修行ができる訳じゃない、学生のうちは裏方の日雇いが主だった仕事になるだろうな」
一方的に話を進める引きずられる形で更に奥へと連れられる。
「あの……」
「あんた役者志望なんだろ?」
「どうしてそれを?」
昨夜そんな話題出なかったのにと伏見を見上げた。
「落ちてた原稿用紙だよ、あれ西洋の古典戯曲を和訳脚色したやつだろ?」
「えぇ……あんなのでよく気付かれましたね」
「当たり前だ、俺は本職だぞ」
酒場で捨てられた原稿用紙には何行も埋められておらず、勇次郎は本職の凄さを垣間見る。
「あんた大学で劇作愛好会風情のことやってんだろ? 本気で役者やりたいならここで下積みしてみないか?」
仕事として役者をやることは彼の頭の中に常にあった。しかし現状演劇関係者との繋がりが無く、どうやればなれるのか今ひとつ分かっていなかった。あの場に集う仲間たちも似たようなもので、今はそんな連中が寄り集まり見様見真似で演劇まがいなことをしている状態だ。
「あの、仲間を誘っても……」
「それは構わないが、昨夜いた連中のことであるならはっきり言って通用しない」
伏見は冊子を持って椅子に腰掛けている中年男性を見つけると、あの方だと言ってから勇次郎の腕を引いて彼の前に立たせた。
「主宰、連れて来ました」
主宰と呼ばれた男性はあぁと生返事をして目だけを上げる。
「今朝お話した学生です」
「ふぅむ」
主宰は勇次郎の整った顔をじっと見た。
「名前」
「はい?」
「誰だ? と聞いている」
「あっ……志垣勇次郎と申します」
大人の迫力に気圧される形でどうにか名前を伝える。
「何歳だ?」
「二一歳です」
「その割にはおぼこいな、学生?」
「はい、大学で劇作愛好会を立ち上げております」
「あぁ……最近増えてるなそういった連中。演劇会の裾野が広がるのは良いことなのだが如何せん質がな」
「はぁ……」
主宰は若者が演劇に関心を持つことを是としつつも、素人風情の学生の演劇集団の増加を快く思っていない。少なくとも勇次郎にはそう映っていた。
「いくつか拝観したがこの辺のはあまり良くない、大学何処だ?」
もしかして観劇してもらえた? その期待も込めて大学名を口にすると主宰の表情が明らかに歪む。
「あそこのは雛形やった男以外屑だな」
彼はそう言って勇次郎を見た。劇作愛好会に対する酷評ぶりに落ち込みはするが、基本的に雛形を演じている彼は僅かな望みを抱いてどうにか自尊心を保たせる。
「ところであんた」
「はい」
主宰は立ち上がって台本をその上にぽんと置いた。いざ立ち上がった彼は勇次郎よりも身長が高く、目測で五尺八寸近くある。
「身長は? 五尺三寸ってところか」
「はい、それくらいです」
「そうか。雛形やれるか?」
「はい、出来ます」
勇次郎は背筋を伸ばし、主宰を見上げてこの日一番良い返事をした。
「ならまずは裏方の日雇いとしてここの出入りを認める、今は学業を怠るな」
主宰はにっと口角を上げてそう言った。
「俺は唐津吉右衛門、ここ[ヘブンスシート]の主宰ってやつさ。折角来たんだ、この後の演目を是非観てくれたまえ」
「はいっ!」
本職の演劇集団の主宰に認めてもらえたことが嬉しくなった勇次郎は、安堵した笑みを見せて深々と頭を下げる。唐津と伏見の計らいで金を使うことなく客席に入り、初めて観劇する本職の演技に魅了されていた。