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第一話

 時は一九〇〇年代初頭、外国文化が浸透しているとある港街の一角にある音楽酒場があった。その店の名は[PARADIS(パラディス)]、そこは身分も性別も関係なくただ音楽と酒を愉しむだけの大人たちで賑わっている。

 そんな中に似つかわしくないほどの若い集団が酒場内で大きめのテーブルを陣取り、暑苦しく何やら話し込んでいる。彼らは本と原稿用紙を中央に置き、ああでもないこうでもないと言い合いながら書いては破りを繰り返していた。周囲にいる大人たちは若々しくも(やかま)しい行動に顔を(しか)めていたが、それを打ち破るようにジャジーな音楽が鳴り始めたところで一同はそちらに集中する。

 前奏に合わせて登場したのは三〇代半ばの女だった。派手な化粧に派手な洋装を身に(まと)い、ステージ中央に立って客席上方を見つめている。身体は小さいがそれなりの存在感を醸し出している女で、曲に合わせてやや低めの声で英詩を紡ぎ始めた。耳馴染みのない歌なだけに上手いのか下手なのかは不明だが、定点照明に当たって威風堂々と歌い上げる姿は艶めかしく美しかった。

 客として舞台上を見上げている大人たちは年増女の姿に見惚れているが、先程まで何らかの談義を繰り広げていた若者たちからすると、母親くらいの年頃の女が派手な出で立ちをしている風にしか見えていない。

「俺は(いや)だねぇ、あばずれにしか見えないや」

「あぁ。何ともみっともない姿だ」

 若者たちは英詩を理解出来ないことも手伝って退屈そうに雑談を始めてしまう始末だ。しかしその中でただ一人歌手の姿に魅入っている者がおり、彼だけは友人たちの喧騒を無視して舞台上を見つめていた。

「帰ろうぜ、年寄り臭くていけない」

 若者の一人がそう言って席を立つと、他の者たちもそれに続く。しかし一人だけ席を立たず、淡々と歌い続ける彼女から視線を外さない。

「こんなもの時間の無駄だ勇次郎(ゆうじろう)君、帰って脚本を練ろう」

「僕は最後まで鑑賞する、君たちは先に帰ってくれ」

「何を言っているんだ? あんな年増見て何が楽しいというのだ?」

「そうだぞ勇次郎君、我々には為さねばならぬことが……」

「煩ぇんだよ。帰るならさっさと出て行きやがれ」

 と白一色の背広を着た秀麗な男が若者たちの後ろに立った。頭一つ分違うほど高身長の相手に怯んだ彼らは一目散に酒場を出て行き、背広男は洗練された所作でそれによって出来た空席の一つに腰を落ち着ける。

 一体何者なんだこの男? 最初は彼のことが気になった勇次郎だったが、ステージで歌い続けている歌手から視線を外せず放置を決め込んだ。背広男も彼女を一点に見つめており、不要な声掛けはしてこなかった。

 それから年増女は数曲の英詩音楽と先時代に流行した唱歌を歌い上げると、一礼もせず舞台袖へと消えていく。次の女性歌手の方が若々しくすらりとした体躯なのだが、背広男は彼女には目もくれず勇次郎に声を掛けた。

「あんた、“オネンネ”の割にあの女の良さが分かるんだな」

「えっ?」

 声を掛けられると思っていなかった勇次郎は隣に座っている背広男を見やる。

「イイ女だろ? 元は九州の芸者で“シヅオ”ってんだよ」

「そうですか」

「俺は伏見(ふしみ)創介(そうすけ)、一応役者やってる。あんたは?」

 伏見と名乗った背広男は勇次郎に笑い掛けた。

志垣(しがき)勇次郎、学生です」

「もしかして一〇代か?」

「二一です」

「へぇ、成人してんだな」

「えぇまぁ」

 子供扱いをしてくる伏見を嫌そうに見ながらも、勇次郎は年齢よりも若く見える自身の見た目との差を恨めしく思う。それほどに伏見の器量は洗練されており、気障(キザ)な白の背広も様になっていた。

「俺の奢りで今から別の店で一杯やらないか?」

「いえ、明日は授業がありますので」

「そうかい。興味あるなら一度芝居を観に来てくれ」

 伏見はテーブルに残されたままになったくしゃくしゃの原稿用紙を広げ直し、転がっている状態のペンでサラサラと記す。

「大抵はそこにいる、また会おう」

 彼はそう言って用紙とペンを勇次郎に押し付けるとすっといなくなってしまった。そこにはさほど遠くない住所と電話番号、そして見覚えのない横文字が書かれてある。

「演劇集団[HEAVENS(ヘヴンス) SEAT(シート)]……?」

 勇次郎は用紙を折りたたんでズボンのポケットにねじ込み、舞台上で歌っている歌手に視線を移した。


 終演後、追い出されるように酒場を出た勇次郎は、殆ど街灯の点いていない夜道を歩く。海沿いということもあって微かに潮の香りが鼻に届き、湿り気のある海風が心地良く感じられた。

 それにしても美しい方だった……と脳内で回想していると自然と顔が綻んでくる。一度観ただけで忘れられないほどの存在感を放つ女性に出会ったことの無かった勇次郎の心の中に、“シヅオ”という名の年増歌手はいとも簡単に入り込んた。

 そのまま帰路に向かっていると煙草の匂いが海風と混じる。誰かいるのか? 仄暗い中周囲を気にして目を凝らすと洋装の女が道の端に立っていた。海に体を向けている彼女の左側から煙が揺らいでおり、それで先程の匂いが彼女によるものかと分かる。

 どんな女性なのか気になるところではあったが、このままやり過ごした方が良さそうだ……勇次郎のいる位置からだと背を向けている状態なので、用も無いのに声を掛けるのは軟派に感じて視線を外そうとした。ところが石張りの道だったせいで勇次郎の履く革靴だと多少足音が立ってしまい、それに気付いた女の方が彼の方に顔を向ける。

「誰だい?」

 勇次郎は女の顔を見た途端あっと声を漏らした。彼女は先程まで酒場の舞台上で英詩の曲を歌っていた年増歌手“シヅオ”であったからだ。

「見ない顔だね、何者なんだい?」

 “シヅオ”は眉をひそめて警戒する視線を向けた。

「通りすがりの者です、先程まで[パラディス]って酒場で歌を拝聴しておりました」

「あっそう。あそこの客層にしては坊やじゃないか、何歳(いくつ)なのさ?」

 ここでもか……勇次郎は心の中で落ち込んでしまう。

「二一歳です」

「ふぅん、歳よりも若い顔してんだね」

 その言葉通り彼は実年齢よりも下に見られることが多く、顔立ちも整ってはいるが中性的なせいで折りに触れてよくからかわれていた。

「学生さんかい?」

「はい」

「女、抱いたことある?」

 唐突な質問に一瞬面食らったが、いいえと正直に答える。

「逆に男色家に抱かれでもしたとか?」

 彼女は冗談めかして勇次郎の顔を見ながら笑った。

「ありません、悪い冗談は止めてください」

「これは悪かったね、あんた綺麗な顔してるからさ。それよりもさっき『観てた』って言っただろ?」

「えっ?」

「アタシの歌どう思った? 感想聞かせてよ」

 そう訊ねられても歌に詳しい訳でも英語力がある訳でもない勇次郎はどう答えてよいのか思案に暮れる。ただ舞台上の佇まいは神々しいくらいに美しかった……それが記憶の中で鮮明に残っていた。

「正直に申し上げれば歌のことは分かりません。英詩もかいつまんでしか理解できませんでしたので」

「まぁ、愛の唄だから言葉が分かったところで坊やには難しいだろうねぇ」

「そうかも知れません。ただ定点照明に照らされて歌う貴女の姿はとても美しいと思いました」

 若者らしい実直な感想に“シヅオ”はふふと笑い、間を置くように煙草をふかす。

「そうかい? さっき店主に『今日の出来は酷い』って言われたところでさ」

 それで落ち込んでここにいたのか? 勇次郎は薄暗い中にいる彼女の顔をじっと見つめた。

「世辞だろうけどこれ以上落ち込まなくて済みそうだよ」

「いえ世辞なんかじゃありません」

「ふふふ、坊やからしたらアタシ母親くらいの年齢なんだよ」

 “シヅオ”は妖艶な微笑みを見せて勇次郎の側まで歩み寄り、ありがとうと耳元で囁いてから彼をすり抜けて酒場方面へと歩いていく。彼女がいた場所には甘い香水の香りと苦い煙草の香りが入り混じり、勇次郎にとっては刺激的な大人の香りに感じて体が動かなくなった。

「おい姉さん」

 とつい今しがたまでいなかったはずの男の声に我に返って振り返ると、“シヅオ”が上等な背広を着ている大柄な男に肩を掴まれている。

「痛いだろあんた、何の用だい?」

「とぼけんじゃねぇ、俺様の時計返しやがれ」

「何でそんなモン盗らなきゃいけないのさ?」

 気丈な態度で言い返している“シヅオ”だが、肉弾戦になると圧倒的不利に陥るのは見て取れた勇次郎はお節介を承知で二人の間に割って入った。

「この方が盗んだという証拠でもあるんですか?」

「ガキは引っ込んでろ! こいつ俺様にぶつかってきやがったのさ!」

「冗談じゃないよ、酒臭い酔っ払いなんかにわざわざぶつかりに行く訳ないだろ」

「煩ぇ! 素直に認めりゃいいんだよ!」

 大男は酒臭い息を振りまき、思い通りにならないと逆上して腕を突き上げる。

「脅し掛けられても無い袖は触れないんだよ。どうせ女子供にしか威張れない下衆のくせに」

「何だと! ちょっと大人しくしてりゃいい気になりやがって!」

 大男は“シヅオ”目掛けて腕を振り下ろそうとする。それに反応した勇次郎は太い腕を掴んで暴力を止めさせた。

「邪魔しやがるな青二才が!」

「まずは警察に行きましょう、落とされた可能性もあるじゃないですか」

 大男は自身よりもひと回りほど小さい若者相手に腕の自由を奪われ、みるみると表情が変わっていく。

「くっ! なんて力してやがるんだこのガキ……」

 抵抗して振り解こうとしても空いている手を使って引き剥がそうとしても、勇次郎の腕はびくともせず大男は半べそをかきながら身をよじらせていた。一方小柄な若者は表情こそ涼やかにしていたが、手の甲に青筋を立てて年増歌手への暴力を身を呈して防ぐ。

「宜しければ手伝いますよ、一体どのような時計なんですか?」

 何をどうしても腕を解けない大男はすっかり弱りきり、とにかく助かりたいと命乞いでもするかのような視線を勇次郎に向けた。

「き、金の懐中ど……」

「ちょいといいかい? お二人さん」

 とどこからともなくやって来た鉄紺の背広を着た細身の男が二人に向け声を掛ける。身なりも整っていて一見折り目正しく見えているが、どことなく危険な空気を纏わせながら三白眼を冷たく光らせていた。

「兄さん、捜し物ってこいつのことかい?」

 三白眼男は金色の懐中時計をぷらぷらと揺らしながらにやりと笑う。

「そうだ! てことはてめぇが盗みやがったのか!」

「おいおい嫌な言い方してくれるじゃないか。そこの通りで拾ったからわざわざ追いかけてやったってのにさ」

「であれば音で気付くはずじゃねぇか!」

 大男は危険な男に標的を変えて虚勢を張り、勇次郎はかえってはらはらしながら二人のやり取りを見つめていた。

「生憎兄さんは酒のせいで感覚が鈍ってやがる。素面でもそういうことはままあるものだからさ、間違いがないならさっさと受け取ってお家に帰りな」

 三白眼男は半ば強引に時計を握らせてから“シヅオ”の隣に立つ。

「こいつは俺の女でさ、余計な手出しされちゃ困るんだよ」

 そう言ってから大男の隣に立ち、何やら耳打ちをしてニヒルな表情を見せた。勇次郎のいる位置から内容は聞き取れなかったが、大男の顔から血の気が失せ逃げるようにその場からいなくなってしまう。その情けない姿を嘲笑う三白眼男は勇次郎の前まで歩みを進め、先程よりも重厚な声でぼんと言った。

「邪推は控えた方がいい」

「えっ?」

「『知らぬが華』ってこともあるんだよ」

「……」

 勇次郎は刃物のような三白眼に視線を合わせ、言葉の意味を察して体に緊張が走る。やはりこの男は危険だ……そう思っている間に彼は“シヅオ”の隣に立ち、守るように背中に腕を回して

酒場街へと消えていった。悪党感溢れる三白眼男の立ち居振る舞いには品性があり、年増ながらも美しい歌手との並びはしっくりときているように見えて勇次郎は自身の幼さを痛感する。

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