第十四話
志づ於が食べ終えるのを待ってから、二人は再び手を繋いで公園内を歩く。彼女の言った通り園内の梅は小さく可憐な花を惜しげなく咲かせていた。
「一寸休もうか」
志づ於は梅の木に背を向けている長椅子に誘う。港には世界一周旅行中の豪華客船が停泊しており、壮大な外観を見物しているだけの客も多く見られた。
「船、乗ったことあるかい?」
彼女もまた遠くの船を眺めている。
「手漕ぎのものくらいですね」
「そうかい。アタシは郷からこっちに来る際に乗ったんだけどさ、船酔いしちまって最悪だったんだよ」
「揺れるんですか?」
「そりゃあ酷いもんだったさ。異人さんはこんな思いしながら、何ヶ月もあんなモンに揺られてこの国に入ってきてんだから見上げた根性してるよねぇ」
汽車やバスでも酔ってしまう勇次郎は、船舶とはそんなに恐ろしいものなのかと心のなかで震え上がった。
「船……乗りたくないです」
「見た目ほど優雅じゃないからねぇ。ただ苦手なのに惹きつけられるものがあるんだよ」
志づ於は豪華客船から勇次郎に視線を移す。隣に座っている彼女がつけている香水と、梅の花が混ざった甘い香りが勇次郎の鼻をくすぐった。これまで欲情というものを感じぬまま生きてきた彼は、自身の内面に宿る獰猛な一面に戸惑い、抑えようとすればするほど気が狂いそうになる。
「何処か行きたい所でもあるのかい?」
「えっ?」
思考が明後日の方に行っていた勇次郎は、志づ於の声で我に返った。
「散歩じゃあ若い子には退屈なのかと思ってさ」
「いえ、少し暑いなと」
彼は夢見心地で志づ於の顔を見つめる。
「こんな陽気久し振りだからね。飲み物でも買おうか」
二人はすぐ傍にあった屋台でに立ち寄って麦湯を注文したのだが、勇次郎はこの麦湯が然程得意ではなかった。しかし“志づ於と共に飲むこと”に大きな意味があったのか、気付けば綺麗に飲み干していた。
「アタシこれ好きじゃないんだけどね、ここのは案外美味いんだよ」
「はい。実は僕も得意ではないんです」
彼女も得意ではなかったのか……勇次郎は些細ながらも好みの共有が出来たことを嬉しく思う。
「屋台の飲料ってだけで流行ってんだよ」
「おいおい、いくら流行ってたって不味けりゃ誰も飲んでくれねぇんだぞ」
志づ於の辛辣な言葉に反応した麦湯屋の店主が笑いながら言い返す。二人は顔見知りと見え、雑談を続けながら笑い合っていた。
「アンタが昼間っから誰か連れてるなんて珍しいな、しかも若い学生さんたぁ隅に置けないねぇ」
「可愛い子だろ? [ヘヴンスシート]んとこの若手俳優さんなんだよ」
「そうかい。そう言えばアンタ見たことあるよ」
勇次郎に興味を示した店主は彼の顔をじっと見る。
「ところでアンタ、名前は?」
「志垣勇次郎と申します」
「あぁ! そこの大学で女装して芝居してた子だろ? アレは見事なもんだったさな」
「ありがとうございます」
勇次郎は営業用の笑顔を店主に向けると、彼はにやっと笑い返して右手を強く握ってきた。
「今日の分は奢りにするからさ、絶対売れてくれよ!」
「えっ⁉」
店主の気前の良さに勇次郎は狼狽えてしまう。
「絶対に売れてくれな! 贔屓にさせてもらうからさ」
「……はい、頑張ります」
気圧される形ではあったが、勇次郎は実家でした宣言を脳内で反芻しながら頷いた。屋台を後にした二人は再び園内を歩き、ゆったりと梅見を楽しんでいた。
「あっちには桃の木があるねぇ」
志づ於はそれなりの花好きと見えて、花壇に咲く水仙などにも興味を示して少女のようにはしゃいでいる。勇次郎は男の子ということもあってから草花にほとんど興味が無く、こうしてじっくりと花を愛でた記憶は皆無と言ってよかった。
「綺麗ですね」
「ね」
二人は言葉を交わさぬまま、花を付け始めている桃の木を見上げている。そうしているうちに雲行きが怪しくなり、空から水滴がぽつぽつと落ちてきた。傘を持ち出さなかった二人は近くにある軒に入り、雨が止むのを待つことにする。
「この時期の天気は予測出来ないね」
「はい、でもすぐに止むかもしれません」
勇次郎は、雲の隙間から僅かに見える西の空を見ながら言った。二人以外にも午前中の快晴に騙されて傘を持っていなかった人々が雨宿りにやって来て、近隣建物の軒は少しずつ埋まっていく。
「こうして見てると色んな人がいるんだねぇ」
志づ於の言葉に、勇次郎は向かいの建物で雨宿りをしている中年男性と女学生の姿を視界に捉える。二人は知り合いではないようで、気まずそうに各々が端を陣取って空を眺めていた。
そこに割って入るように男子学生二名が雨宿りに入り、うち一人が女学生に話し掛けている。自身よりも少し年下と見受けられる彼らのマセ振りに少々羨ましくなる勇次郎だったが、隣にいる美女の方が良いと志づ於の横顔をちらと見た。
「ふふふ、若いって良いね……って思ったらきょうだいだあの二人」
「えっ?」
「見てご覧、あの女の子男物も持ってるよ。それにあの風呂敷、絵柄が一緒だね」
志づ於の言葉につられて学生服姿の男女を注視してみると、男子学生の着替え袋と女学生の弁当袋の絵柄が全く同じであった。更によく見ていると、女学生は二人の男子学生に対し接し方に明らかな格差を見せている。
「そう言われてみれば全く違う態度で接していますね、あの女の子」
「男きょうだいに対してはあんなもんだと思うよ、アタシも覚えがあるからさ」
その言葉に勇次郎にも覚えがあった。姉も妹も自身らきょうだいに対しては雑な口調で話し、他所ではすました表情でてよだわ言葉を使っていたのを思い出す。
「そうですね、姉と妹もあんな感じでした」
「だろ? アタシ子供の頃から男に囲まれて育ってるからさ、ご覧の通りがさつなんだよ」
志づ於は勇次郎を見上げて笑みを見せた。
「僕はそう思いませんよ。流行の女言葉を無理して使う女性ってあまり好きではないので」
「そうなのかい? 『女らしくしろ』ってよく言われるんだけどねぇ」
勇次郎は、彼女の飾り気の無い態度にむしろ女らしさを感じていた。それとくっきりと浮き出た鎖骨に庇護欲をそそられ、雨宿りで軒下が混んできたことを言い訳にして、体が触れ合うところまで距離を縮める。
「意外と止みませんね、雨」
「でも弱まってはきてるね」
志づ於もまた雨宿りにやって来た通行人に押されるように勇次郎に身を預けた。反射的に彼女の体を抱き止めた刹那、これまで嗅いだことの無い甘い匂いが彼の鼻に届く。それが女の生の匂いと気付くまでに少々時間を要したが、思考よりも早く雄としての本能がそれに反応して唇を重ね合わせていた。
伏見とした接吻とは明らかに違う柔らかな感触に、ふわふわと身体が浮くような幸福感が勇次郎の思考を支配する。志づ於が拒否反応を示さなかったのを良いことに、軽く上唇を食んで更なる深みに入り込もうとした。
ところが彼女の方がそれを赦さず、唇を引き剥がして驚きと戸惑いで潤んだ瞳を勇次郎に向けると、身体を押し退けて軒を飛び出していく。
「志づ於さん……!」
勇次郎も彼女を追って雨の中を駆け出すが、横切る車に阻まれて二人の距離はどんどん広がっていく。こんな時に限って予想以上の交通量になかなか横断出来ず、ようやく渡れると思った時には志づ於の背中を見失っていた。