第十二話
全ての演目を終えて舞台裏の楽屋に引き上げた役者たちは、唐津が作った西洋戯曲を元にした作品でも通用すると手応えを感じていた。これまでに無い厳しい稽古に耐え抜いて臨んだ勇次郎は、精も魂も尽き果てて化粧台に突っ伏してしまう。
「よく頑張ったわねぇ勇ちゃん」
巨漢女優の労いにどうにか頭を上げたが、体に力が入らずへへへと笑い返すのがやっとであった。
「ありがとうございます……」
「今日はゆっくり休みなさぁい」
彼は自身の着替えを終えてから勇次郎の着替えを手伝う。とそこに裏方の青年が一輪の薔薇と封書を持って楽屋に入ってきた。
「勇次郎君、君宛にこれを」
「えっ?」
多少の後援者が付き始めたとは言っても、贈答品を貰うことの無かった彼にとっては飛び上がる程に嬉しいものであった。先程まで立つのがやっとなほどにくたくただった背筋もぴんと伸び、青年の前まで歩み寄って恭しく受け取る。
「嬉しい……」
勇次郎は薔薇の花と封書を手に、志づ於であればなどと考えいると自然と顔がほころぶ。
「もしかすると君を女性と間違えたのかも知れないよ、男性客だったから」
「そうなんですか?」
しかし彼は自身の芝居を観て、わざわざ贈答品を渡そうと思ってくれた心意気そのものが嬉しかった。
「爵位持ちの男色家かもね、質の良い鉄紺の背広を着てらしてさ」
「鉄紺?」
その言葉に、勇次郎の脳裏に三白眼の須崎の顔が浮かぶ。まさかとは思ったが、仮にそうであればなぜ駆け出しの若手に過ぎない自身に花を贈ろうと思ったのか……つい今しがたの話であるならまだ然程遠くへは行っていないはずだ。
「一寸失礼します」
彼は薔薇と封書を手にしたまま外へ出ようとしたが、巨漢女優に勇ちゃんと呼び止められる。
「そっちから出なさぁい」
髭面女優は関係者以外使用出来ない裏口の扉を指差した。
「えっ?」
「表から出ちゃうとまだお客さんいるだろうからぁ」
「あっ、はい」
先輩の言葉に反応した勇次郎は、踵を返して裏口から外に出ると鉄紺の背広男の後ろ姿を視界に捉える。その姿を目指して一目散に走ると、呼びかける前に足音に気付いた相手がくるりと振り返った。
「よぉ、ぼん。芝居観させてもらったよ」
「ってことは……」
勇次郎は手にしている薔薇と封書を見る。
「あぁ、一寸した“プレゼント”ってやつさ」
「あの……」
「心配するな、俺は衆道じゃない」
「いえそうではなく……」
彼はこれまでとは違う表情を垣間見せる悪漢の姿を不思議に思う。
「それは一人になってから開封してくれ、じゃあな」
須崎は一方的にそう言ってから勇次郎に背を向けた。再度呼び止めたい気持ちはあったが、あっという間にいなくなってしまったので仕方なく劇場に戻る。幸い今周囲には誰もおらず、一度歩みを止めて手にしている封書に視線を移した勇次郎は、再度周囲を見回してからそれをゆっくり開封した。
中には太めの短冊が一枚入っており、よくよく読んでみると酒場[パラディス]独唱会の前売切符であった。日時は一週間後、出演歌手の中に志づ於の名があって、反射的に須崎が歩き去った方向へと振り返った。
「一体どういうつもりで……?」
勇次郎に須崎の意図は分からなかったが、再度志づ於に逢える好機が出来たことに喜びがこみ上げてくる。跳ね上がりたい衝動に駆られはしたが、中身に関しては秘密にしておきたかったであろう三白眼男の言葉尻への義を優先した。
それから数日間は残っている公演をこなし、[ヘヴンスシート]の人気は日に日に上昇していった。特に主演を努めた伏見の秀麗な器量に女性後援者が増え、彼をひと目見たさに劇場裏手で出入り待ちをする者の対応に追われている。対する勇次郎には、男性劇団と知りながらも男性後援者からの求愛手紙が届くようになり、爵位持ちの紳士に身請けを迫られた時には唐津が仲裁に入る事態にまで発展してしまった。
そんな慌ただしい期間を過ごしているうちに酒場[パラディス]の独唱会公演当日となり、勇次郎はこの日のために購入した藍色の背広一式と革靴をおろして会場に向かう。途中花屋でガーベラを買ってから酒場に入ると、自身よりも立派な身なりをした紳士たちによって殆どの席が埋まっていた。以前入店した時とはまるで雰囲気が違い、明らかな場違い感に急激な羞恥心を覚える。どこに座ればいいのだろうか? とお上りさん状態で周囲をきょろきょろと見回していると、中年男性が声を掛けた。
「いらっしゃいませ、独唱会へようこそ」
彼はここの関係者と見え、勇次郎が手にしている切符を見てからテーブル席に案内する。引かれた椅子に腰掛けたはいいが、羞恥心の抜けきらぬ勇次郎は助けを求めるように彼を見た。
「エールでもお持ち致しますね」
「はい、お願いします」
酒でも飲まねば耐え切れないと思った勇次郎は男性の言葉に頷く。彼が去った後、隣に座っている爵位持ちと見られる紳士客がちらりと彼を見やった。
「君、何歳?」
「えっ?」
唐突に話し掛けられて一瞬たじろぎはしたが、ここは役者魂だと気を取り直して二二歳ですと答える。
「見たところ学生だね」
「はい」
「身分は?」
「平民です」
「そうではない」
「は?」
勇次郎は維新後の生まれであるため、旧時代の身分制度にはさほどの馴染みが無かった。
「豪農……いや、豪商の子息といったところか」
「……」
表向きは平等と言っている昨今において、今尚旧体制の身分制度に囚われている現状を目の当たりにした勇次郎は言葉を返せなかった。実家が裕福なお陰で武家社会時代での身分であった“商”を気にしたことがほとんど無く、隣の男が向けてくる蔑視に一寸した嫌なものを感じ取る。
「お待たせ致しました、エールでございます」
そこに先程の男性が割って入り、勇次郎の前にエールを置いた。
「志垣勇次郎様、本日はご来店頂きありがとうございます」
「へっ?」
何故僕の名前を? 勇次郎はにこやかにしている彼を見上げる。
「お噂はかねがね。今[ヘヴンスシート]は赤丸急上昇中ですから」
「[ヘヴンスシート]だと?」
先程蔑視を向けていた紳士客は驚きの声を上げた。
「はい、そこの若手雛形役者さんですよ」
男性は同意を要求する視線を勇次郎に向けた。彼以外の好奇な反応も混じり、先程とはまた違った気恥ずかしさも沸き起こってくる。
「えぇ、まぁ……」
その視線に圧されるように頷いた彼に向く好奇な視線はさらに増えた。身分の高い文化好きの中には経済支援を請け負う者も混じっており、そういった人物に気に入られると生活に困窮せずに済むという利点がある。
『これは絶好の好機だ、良いもの魅せて顔を売れ』
こんな時に伏見の言葉が脳裏をかすめたが、それは劇場へ持ち越しにしようと俯き加減で少々身体を縮こませた。
「やはり若手だから舞台上以外では控えめなのだね」
他の客たちは初々しい態度を見せる勇次郎を見て笑う。関係者男性はいつの間にかその場から去っており、蔑視を向けていた紳士客は急激にちやほやされ始めた若者を苦々しく見つめていた。直後楽団員が登場して音合わせを始め、会場の視線は一斉にそちらに集中する。それが終了すると全体照明が暗くなり、歌手が舞台に上がると定点照明が灯って開演した。
何人かの若手歌手の熱唱の後、最後から二番目の歌手として志づ於が舞台中央に立つ。彼女は他の歌手に比べると明らかに年増であったが、それならではの熟練された美しさはまだまだ若手に負けていなかった。それを見て取った観客たちも彼女に釘付けとなり、これまでとは違う一体感が出来上がっていく。
勇次郎もその中に混じって志づ於に魅了されており、他の歌手のことなど脳裏にすら留めていなかった。この日の彼女は前回以上に艶のある声で英詩の曲を歌い上げ、観客からは熱い拍手が贈られる。あと一人残っているにも関わらずそこで席を立つ観客もいたのだが、勇次郎は折角の機会だからとそのまま着席していると、酒場関係者の男性がエールのおかわりを持ってやって来た。
「トリの歌手は観ておいた方がいいですよ」
「そのつもりですが、何故ですか?」
「[白薔薇歌劇団]の一条舞子嬢ですので。名前くらいは……」
「はい、存じております」
[白薔薇歌劇団]といえば近年立ち上げた女性のみの歌劇団であり、演劇をかじっている人間であれば多少なりとも耳に入ってくる名称であった。特に爵位令嬢である一条舞子という名の女優は、身長五尺五寸超えの長身で男性役をこなす人気女優と謳われている。
「彼女歌を得意としておりますのでね、一か八かで出演依頼をしたら快諾して頂けました」
「そうだったんですね、楽しみです」
「是非。志づ於と会うのはその後で……」
「えっ?」
彼は意味深な笑みを浮かべ、エールを置いて速やかに立ち去った。勇次郎は卓上に置いているガーベラに視線をやり、先程の魅惑的な歌声を思い出すと自然と打つ脈が早くなる。それから程なく一条舞子が登場したのだが、志づ於の方に意識が行ってしまったため、彼女の演壇はほぼ記憶に留まらなかった。
「そのままお待ちください」
終演後、関係者男性に言われるままそのまま待っていると、舞台衣装とは違うワンピース姿の志づ於が舞台袖から顔を出した。これまで出逢ったどの時よりも薄化粧で、舞台上で魅せる大人の女性感が薄らいでおり、寧ろ少女のような瑞々しさに勇次郎の胸は更に高鳴る。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、素敵な唄をありがとうございました」
勇次郎は買っていた朱色のガーベラを手渡した。
「ありがとう」
彼女は節くれだった細い指でそれを受け取り、笑顔を見せる。
「随分とめかし込んでくれたんだね」
志づ於はどこぞの紳士客と違って若者の心意気に嬉しそうな表情を見せた。
「まだ学生なのでこれが限界です」
「自分の金でそれだけ出来りゃ上等だよ」
志づ於はそう言って背広の襟を軽く触る。それだけのことで勇次郎は身も心もどうにかなりそうだったが、それを堪えて二人きりでいる幸せを感じていた。
一方の志づ於も郷に弟が二人いるせいか、歳の離れた若い勇次郎を可愛く思う。初対面時に暴漢と対峙して自身を守ってくれたり、緊張した面持ちで口説こうとしてみたりする行為にいじらしさを感じていた。
「この前観させてもらったよ、芝居。大学でやった頃より一寸オトナになってたね」
「ありがとう、ございます」
その言葉に照れ臭さを感じながら礼を言った。
「この前の子に声でも掛けたのかい?」
「いっいえ、そんなことしませんよ!」
勇次郎は“オトナ”になった理由を勘繰られて慌てて否定するが、かと言って伏見に抱かれたとも言えず後の言葉が続かない。
「あはは、ごめんごめん。こういうのは深入りしちゃあ駄目だよねぇ」
志づ於は飾り気の無い笑い声を立てた。
「そうだ。この前“プレゼント”用意できなかったからさ、何か一つ買ってあげるよ」
「えっ?」
恋しき女性の思わぬ申し出に勇次郎は面食らい、急にそう言われても何も思い浮かばずしどろもどろしてしまう。
「何でも言ってみな。って言っても限界はあるけど」
「えっと、あの……」
勇次郎は必死に考えながら志づ於を見下ろしたが、視線が合ってしまい体が熱くなった。
「今度“デート”してください」
身体が火照った勢いで言ってしまった“お強請り”に彼自身が一番驚いていた。志づ於も目を見開いて赤面している若者を見上げ、二人の間に静寂が流れる。
「……」
「そんなのでいいのかい?」
「えっ?」
「欲しいもの、無いのかい?」
そう言われて一旦考え直してみたが、志づ於との“デート”以上に欲しいものが思い浮かばずはいと頷いた。
「貴女と“デート”がしたいんです」
「ふふふ、変わってんねあんた」
志づ於は少し落ち着きを取り戻していく若者を見上げていいよと答える。突発的な誘いを承諾してもらえた勇次郎は身体の力が抜けそうになるが、必死に足を踏ん張って平静を装っていた。
「五日後なら一日空いてるよ、その日でいいかい?」
「はい、楽しみにしています」
勇次郎は生まれて初めて“デート”の約束を取り付けた。