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第九話

 その後実家で一泊した勇次郎は、この日のうちに戻る予定であるため早々に帰り支度を始める。

「勇次郎、もう戻るのか?」

 荷物をまとめて学生服に着替えている勇次郎を兄が呼び止めた。

「えぇ、稽古は毎日ありますので」

「そうなのか、本職となれば色々と大変なのだな」

 兄は中等教育を修了してすぐに実家の仕事を手伝うようになった。長男として学業はある程度で見切りをつけ、家業の跡取りとしての責任を十代後半から背負っている。

「勇次郎」

「はい」

 兄は物憂げな笑みを浮かべて勇次郎を見た。

「私は時々お前を羨ましく思う」

「えっ?」

 勇次郎は意外そうに兄を見る。長男はきょうだいの誰よりも重宝され、誰よりも裕福な人生を約束されているものだと思っていた。しかし彼からはそれに対する窮屈さが滲み出ているように感じて、家を守る責任と重圧が垣間見えた瞬間であった。

「だからといってこの人生に大した不満は無い。不自由に感じることはあっても、その分優遇はされてきたのだからな」

「兄さん……」

「とりわけ好奇心旺盛だったから役者になると聞いてもそう意外じゃなかったよ」

 兄は着物の袂から何かを取り出した。

「ちょっとした餞別だ、大した物ではないがな」

 それを勇次郎の右手に握らせると仕事に戻っていく。手には着物生地に似た感触があり、手を広げてみると郷で一番大きい神社の御守が収まっていた。

 子供の頃、商売で忙しくしていた両親に代わり、祖父母がよく連れて行ってくれたことを思い出す。今は祖父母も亡くなって姉と妹も嫁に出たため、これまでのようにきょうだいが集まることもそう何度も無いだろう。

「ありがとう」

 届いていない可能性もあったが、勇次郎は遠くなった兄の背中に礼を言って御守を胸に当てた。


 役者になることを家族に赦してもらえた勇次郎に対し、主宰の唐津はこれまでになく厳しい指導で接するようになる。今はまだ学生の身であるが、本人が本職の役者になると決めた以上教えられることは全て教えたいという彼なりの熱意の表れであった。

 その効果は少しずつ貰える役に反映され、後援者も徐々に付き始めていく。そんな勇次郎の姿を唐津の娘ナオは誇らしげに覗き見していており、同時に独占欲も芽生えさせていた。

「彼のことは私が一番よく存じ上げておりますの」

 呪文のようにそう呟いては、いつか彼の隣に立てる日を夢見ていたが、女性に放埒な伏見がいる以上今尚劇場の出入りは叶わないままであった。最近劇場近くの下宿場に引っ越したことでそこの炊事係を引き受け、劇団員たちの分も含め頻繁に食事を作っている。

「ナオちゃんが来てくれて大助かりだよ」

 下宿場の主人は彼女の下心に大喜びで、料理の腕前も評判は上々であった。しかし男だらけの場であるため、父吉右衛門の言いつけで厨房への出入りは許されているが、団員たちとの直接の交流は駄目だと釘を刺されている。

 そんな中でもナオは鍛え上げられた観察力で、僅かな時間と隙間から勇次郎の食の好みを必死に観察していた。遠目からでも思いのこもった執念でどのような味付けを好み、何が苦手なのかを探り当てていく。その甲斐あって勇次郎は毎食綺麗に完食し、いつも美味しそうに自身が作った料理を食べていた。

 今はこれで十分幸せだ……勇次郎の素顔を毎日のように覗き見出来るという特権に満足しかかっていたある日、喫茶店で給仕員の業務をこなしているところに礼の女が姿を見せた。

「紅茶と灰皿もらえるかい?」

「かしこまりました」

 女は空いている二人席に落ち着き、同僚が用意した灰皿を受け取ってから煙草に火を点ける。

「最近盛況してるねぇ、[ヘヴンスシート]」

「はい、そのようですね」

 同僚の中には度々顔を出す女と親しくしている者もおり、彼女たちは劇場の話題に花を咲かせていた。

「今回は時代劇だそうで、ご老人客が多いと聞きました」

「そうなんだよ。しばらく振りに来たから劇場に入ろうかと思ったんだけどもう札止めでさ」

 女は少々悔しげな表情を浮かべて言う。

「次回作、すぐにあるみたいですよ。最近入った若い劇団員さんが前売切符を売りに出てらしたのを見ましたので」

「そうなのかい? さっきはそれっぽい子いなかったよ」

 そんな雑談を盗み聞きしていたナオは、その若い劇団員が勇次郎であること、この時間帯は舞台の本番中で劇場内にいるはずであることを知っているので、優越感に似た感情を込めて人知れず鼻を鳴らす。しかしそれを打ち砕くかのように、教材と筆記用具を持ち込んだ勇次郎が店にやって来た。

「いらっしゃいませ。ちょうど[ヘヴンスシート]さんのこと話していたんですよ」

 先程まで女と談笑していた同僚が、頼まれもしないのに女のいる二人席に勇次郎を案内している。ナオは満席でもないのに相席は失礼なのでは? と仲裁に入ろうとしたが、勇次郎は女との相席に嬉しそうな表情を浮かべていた。


 卒業の条件を満たすために論文を書かなければならない勇次郎は、その間だけ学業を優先して演目の一員から外れていた。次回作の前売切符の路面販売を少しだけ手伝ってから、喫茶店で作成をしようと思い立つ。運が良ければ喫茶店の客に切符を売りつけるのもありか……と教材と共に一部持ち出して喫茶店に向かうと、親しくなった女性給仕員の案内で志づ於と再会ができた。

「志づ於さん?」

「覚えてくれてたんだね、アタシのこと」

「勿論ですよ」

 勇次郎は了承を取ってから向かいの椅子に座る。

「さっきあの子から聞いたんだけどさ、次回作の前売切符が出てるんだって?」

「はい、御入り用でしたら今持ってますよ」

「そうかい。なら買うよ、一枚」

 志づ於は一円札を差し出した。

「本当ですか⁉ 一枚ですと二十五銭です」

 勇次郎は前売切符と釣り銭を志づ於の前に置いてから一円札を受け取った。次回作は彼にとって初めて主役となる伏見との絡みがある役柄のため、志づ於には絶対観てほしいと考えていたところだ。

「そういえば勇次郎君」

 勇次郎は彼女に名を呼んでもらえると舞い上がりそうになるが、それを必死に抑えてはいと返事する。

「この前観せてもらったよ、大学の演劇」

「えっ⁉」

 勇次郎は先日の盛況振りと、その裏で起こった嫉妬の渦を思い出した。

「あんたの雛形良かったよ、他の役者が霞んじまうくらいにさ」

「ありがとうございます」

 志づ於が好意的に観てくれていたと知った途端、あんな嫉妬などどうでも良いと思えてくるから、恋は盲目とはよく言ったものだと感じる。

「もう抜けてんだろ? あそこ」

「はい」

 その返答に彼女はだろうねと笑った。

「次のも雛形なのかい?」

「はい、初めて主役と直接絡める場面があるので……」

「へぇ、楽しみだねぇ」

「期待していてください」

 多少大口を叩いてしまった気もしたが、それくらいの気合を入れて稽古をしているので、自身を鼓舞させるために口に出した側面もある。

「そろそろ行くよ、これから勉強するんだろ?」

 志づ於は店内の柱時計を見てから、山積みになっている教材を指差した。

「あっ……」

「気にしなくていいよ、どのみち出る時間だからさ。今度は劇場で会おうね」

 彼女は瑞々しい笑顔を見せて手を振った。勇次郎は初めて見せた可愛らしい側面にも魅了され、卒業論文どころではないくらいに頭がふわふわとしている。しかし次回作を何の気兼ねなく演じようと思えば卒業論文を書ききらなければならない……勇次郎は思考回路を切り替えて教材と帳面を開き、論文の作成を始めた。

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