珍問珍答シリーズ その22 台風直撃を体験して
1991年の台風19号は、当地を直撃しました。
その翌日、見聞したこと、その感想などを書いてもらいました。
3年生の男子1クラスでの取り組みでした。
日ごろ、作文はにがてだ、とか、文を書くのはイヤとか言っている者が、書きたいものを持つと、生き生きした文を書いてみせるのです。
心が動いた時に、そのチャンスをのがさず、ペンを持たせるのがいい、と思います。
シリーズ21も、そうでしたが、この22も、そうだと思います。
○昨日の台風はすごかった。とくに、風が強かった。家のカワラも何枚か飛んだ。6時過ぎから停電になり、雨もりした所もあった。親の店でも、戸や看板が飛んだという。
一番すごかったのは鶏舎だった。トタン屋根は半分くらい飛ばされた。トタンが木の葉のように飛んでゆくのを見た。修理に何万円かかるかわからない。
今日、学校に来る時、電柱が10本近く倒れていた。木も。
今度の風は、生まれてから一番大きい台風だった。一生忘れないだろう。
○昨日は、家に帰り着いてから、風が強くなった。田んぼにおいてあったコンバインのシートが吹き飛ばされそうだったので、ロープで結んだ。それでもシートが破れるほどの風だつた。近くのビニールハウスが飛んで、電柱に巻きついて、バタバタ鳴っていた。他にも、トタンや木の枝が飛んでいた。5時半ごろから停電したままだったので、夕飯は、ローソクの光の中で食べた。
今日、学校に来る時、バス停の標識が川の中に落ちていた。2階の屋根が飛んでいるいえもあった。製材所の木が倒れ、よその庭の木が倒れ、道がふさがっているところもあった。豊津高校の、古い黒門もくずれていた。信号が消えていた。ガソリンスタンドも、屋根が飛んで、ガソリンを入れる機械のカバーがはがれていた。大きなアンテナが90度まがっていたり、かわらが道に落ちていたり、大きな看板が倒れていたり、とにかく、激しい台風だった。
○家の玄関のガラスがわれた。洋間のガラスもわれた。入院していた父が心配して帰って来た。晩ご飯は、懐中電灯で照らしながら食べた。
けさは、6時半ごろ、母にたたき起こされて屋根にのぼらされた。かわらが40枚ぐらい吹き飛ばされ、割れていた。洗濯機まで吹き飛ばされていた。
○僕の家は、5時過ぎに停電になった。それからも、風はますますはげしくなり、物置の屋根が飛び、電柱に張りついて、電柱がゆれていた。近所に、家をたてかけて、あとは壁ぬりというところまで進んでいた家が、見ているうちに、田んぼに横だおしになった。すごかった。
10時ごろ、風がおさまってきたので、家族全員、外に出て、家のまわりを見てまわった。犬小屋も反対向きになっていた。電線が切れていた。電話線は、たるんではいたが、切れてはいなかった。それを、見ているうちに、通りかかった車がひっかけて、切って行った。
車で、家族そろって、祖父の家に行った。窓ガラスが割れて、かわらが飛んで、大変だったという。帰りに見た家も、あちらこちら、はげしくこわれた家が多かった。
○ガラスが割れた時、ものすごい風と雨の中で、板をガラスのかわりに、くぎでとめようとして、苦労した。やっとくぎを打ち込んで、家に入ると、服はビショビショ、耳にも水が入って、耳が痛かった。めしのときも停電だったので、懐中電灯で照らしながら食べた。へんな感じだったが、ちょっとおもしろいとも思った。10時半くろらいに停電がなおった時、電気のありがたさが、よくわかった。
○昨日の台風はすごかった。家の車庫が三つとも、屋根ごと、田んぼに飛ばされた。6時前には停電になり、めしを食べる時は、ローソクを2本立てて食べた。けさ、外を見ると、かわらがいっぱい落ちていた。朝の6時から、あとかたづけの手伝いだった。車庫はぐちゃぐちゃ。電線は、家に入るところで切れていた。電話も通じない。水も、電気ポンプで引いてあるので出ない。学校に来る時、ビニールハウスのこわれたのが見えた。電柱が折れて、電線にぶらさがっているのもあった。
2階だての家の、2階の部分だけ、前の道路におちているのもあった。
きょう、家に帰ると、また、あとかたづけの手伝いをしなければならない。
○うちのとなりの、そのまたむこうの家は、もともとわらぶき屋根で、その上にトタンをかぶせたような屋根だった。その家から、トタンが飛んでくるのが見えた。
けさになって、外を見ると、うちのかわらが20枚くらい落ちていた。近くのお宮の屋根もはげていた。どこへ飛んでいったのかもわからなかった。トタンの飛びまくっていた家のやねには、ほとんど、トタンは残っていなかった。
日ごろ、文など書きたくない、と言っている生徒たちとは思えない書きっぷりでしょう?
引き出せば、引き出せるということの、いい例だと思います。