昔語り
女魔法使いは、死に瀕していた。
「逝くのですか」
黒くつややかな髪を戴く端麗な容貌の妖魔は、枕元に跪いて言った。
「私を置いて」
年老い、その魔力もまた衰えた女魔法使いは、閉じていた目を開けた。苦しげに胸を上下させ、息を付く。
かつては彼女も若く、美貌で知られていた。近隣の者に敬意を払われるだけの事もした。
だが今ここに横たわっているのは、年老いて死にかけている一人の女だった。
「それが人のさだめ。永遠に生き続ける事など、誰にもできはせぬ」
静かに女魔法使いは言った。妖魔は彼女の手を取って、そっとその手を包んだ。
「でも、私は。どうすれば良いのですか。あなたを失って後、尚も生き続ける事などできはしない」
女魔法使いは妖魔を見つめた。あるかなきかの微笑が、彼女の口元に浮かんだ。
「わがままを言うものではないよ。妖魔の寿命は人よりずっと長い。
お前は私という者の名の束縛から逃れ、新たに自由な妖魔となれる。
仲間の元へ戻るが良い」
「あなたを愛しているのです」
妖魔は言った。
「仲間など。私の名は永遠にあなただけのもの。そのあなたを失ってまで、どうして生き存えられると?
私の主はあなただけ、私を所有する者もあなただけです。
あなたが死ぬと言うのなら、私もその存在を終わらせましょう」
端麗な顔には女魔法使いを気づかう心と、悲痛なものを秘めた翳りがあった。妖魔の姿は若々しく力に溢れ、美しかった。このような若者が老婆に囁くにしては、この恋の言葉は不適切に思えた……通常ならば。
だが妖魔は、女魔法使いの半生に近い年月を共に過ごし、彼女に仕えてきた。最初に彼等が出会った時には、女魔法使いはまだ、少女の域を出たか出ないかといった所だったのだ。
妖魔は彼女に魅かれ、彼女を愛した。少女はやがて歳を重ね、一人前の女になり、伴侶を得た。子を産み、育て。そして年老いていった。姿の変わらぬ妖魔の前で。
年を取れぬ魔族と、年を取る人の娘とでは、遅かれ早かれこうなる運命だった。
それでも妖魔は女魔法使いの側を離れず、彼女の魔力の衰えて名を取り戻すのが容易になった時でさえ、そうしようとはしなかった。
「馬鹿な事を」
女魔法使いは言った。妖魔は答えた。
「その通りです。人を愛した時から私は、愚かな者となった。私はあなたを何より愛した。
それが事実です。そしてただ一つの真実なのです。昔も今も、未来においても」
女魔法使いは苦笑を浮かべた。
「こんな年を取った女に、言う言葉ではないよ。美しかった頃にならともかく……」
「今も美しい」
妖魔は言った。
「どこが醜くなったと言うのです? 私には変わらない。あの頃のまま、今も美しく見える。あなたは変わらず美しい」
女魔法使いは、幾分辛そうに目を閉じた。思い出が脳裏を去来していく。
ばたばたと、風が窓の戸を叩く。外は闇夜だった。季節外れの暴風が、人を、獣を、住処の中に追いやって、世界を我が物顔に走り回っていた。
やがて彼女は妖魔の名を呼んだ。静かに言う。
「口づけてくれぬか?」
妖魔は瞬時、驚きの表情を浮かべた。それから体を傾けて、そっと唇を重ねた。風がそよいだと思える程の軽く、しかし思いの込められた口づけだった。
一瞬、女魔法使いは若返ったように見えた。弱り果てた体に生気がともり、彼女の存在を確かなものにした。
「人というものは」
妖魔の唇が離れると、彼女は言った。思い出が彼女に若さの火花を与え、力を与えていた。
「哀しいものだ。常に移ろう……移ろう。変化し続けるのが人のさだめ。お前たち妖魔と違い」
ふと言葉を止める。目を閉じる。
「季節が巡るように変化するのは、人の運命なのだ。早春から春を経て、夏の盛りを過ぎて秋となり……冬を迎える。
私とお前が出会ったのは、私の春の季節だった。まだ若く、世間を知らぬ小娘で。……色々な所へ行った。冒険もしたな。夏が来て、私は夫と出会い……実りの季節には子を育て。豊かな日々であった。
……そして今夫はなく、子どもたちは巣立ち、一人前だ。私は年老い、冬の季節を迎える老人となった」
妖魔はそんな彼女をじっと見ていた。
「お前は何度も、私を愛していると言ったな」
「今も変わりません。愛しています。あなたが決して、私を愛さないのは知っている。人の伴侶を持ち、子まで成したあなたです。それでも私のこの思いを止める事は誰にもできない」
女魔法使いは息をついた。
「妖魔と人とは違うのだ。違うのだよ、何もかもが……」
口調は少し苦しげなものとなっていた。
「私がお前を愛していないなどと、誰が言ったのだ」
妖魔は目を見開いて女魔法使いを見た。彼女は口元に苦い笑みを浮かべ、妖魔を見ていた。瞳には老人特有の白く濁った膜がかかっていたが、彼女の目にはまだ力が火花をともしていた。
「お前のように力強く、美しい存在を前にして、平静でいられる娘がいようか?」
「しかし……あなたは」
「私は魅かれたぞ」
妖魔は主人を見つめた。囁くように言う。
「そう言ってくれた事はなかったのに」
「言うわけにはいかなかったからな」
彼女の微笑には優しさと、悪戯っぽいものが同居していた。
「夫に会うまでは。いや、会ってからも、時には。お前の事を考えて心が乱れ、寝つけない夜もあった。術に集中できなくなる事もな。
誰にも気取られぬよう用心を重ね、お前にも告げた事はなかったが。
美しすぎるよ、お前は」
「何故そんな事を?」
妖魔は言った。
「あなたの為になら、どんな事でも成しえた。どんな事でも行えた。
あなたを愛する、ただそればかりが、私の生きる全てだった。
思い迷わずとも、私があなたを思う事実は変わらなかったものを。あなたの不利になる事は、一切行わなかったものを」
「だからこそだ。私の為になら、野の花を摘む事も、国一つ滅ぼす事も、お前には変わらぬのだからなあ」
微笑して女魔法使いは言った。
「それでは困るのだよ」
「愛する者を護り、その望みを叶える事のどこがいけないのですか。力ある者に力なき者が従うのは、世の摂理です」
「人の世では許されぬ。人は摂理に縛られ、同時にはずれている生き物のゆえに」
女魔法使いは言った。
「お前の愛は一途で深い。妖魔の愛は少女の恋に似ている。激しく純粋で安定を知らず、ただ一直線に相手へと向かう。
そしてそれは決して変化する事はなく、常にその強さ、深さ、激しさでもって、相手を愛し続けるのだ。魔族の一部が思春期の少女に魅かれるのもその為。それに人の内部にも、お前たちと呼応する部分が存在している。
私も魅かれた。お前に。私の中の魔に近い部分が引き寄せられ、動いて私を支配しようとしていた……いつでも。お前が私を愛していると言うたびに。
私の中の、魔に近い部分が騒いで、お前の元へ行きたがった。
だが、そうするわけにはいかなかった」
女魔法使いは遠くを見るような目をしていた。
「私は『人』であらねばならなかった。お前の愛に応える事は『人』である事を捨てる事だ。『魔』の部分に支配を委ね、『人』としての生命を捨てる事だ。
私は魔術師だ。人々への義務があり、世界への務めがあり、そして何より……何より私は人だった。応えるわけにはいかなかったのだ……それに」
息を継ぐと続ける。
「人は変わり、妖魔は変わらぬもの。若い頃は良いだろう。春や夏の季節にならば、共に愛情を謳歌する事もできよう。だが秋となれば? 人生の冬となれば?」
「私は変わらない。変わらず愛し続ける」
「私は変わる」
妖魔の一言に、女魔法使いは返した。
「変化し続ける人の子には、いつかお前たちの愛は、苦痛となり負担となる。
己れが年老い、日々醜くなり、弱りつつあるのを自覚しながら、変わらずに若々しい、美しい伴侶を側で見続ける事は、地獄の苦しみとなったろうよ。それがわかっていたのでな。
私が狂えば事は簡単だったのだろうが……狂うには私の精神は強靱すぎたし、魔術師としてのプライドがそれを許さなかった。
あれ程良く仕えてくれたお前に……何も応えてやる事ができなくて。許してくれ」
「いいえ」
妖魔は彼女の手を握り、首を振った。
「あなたの喜びが私の喜びでした。あなたの幸福が私の幸福でした。
たとえあなたがどんな姿になろうと、どんなふうに変わろうと。あなたがあなたである限り、私はあなたを愛したでしょう。
けれどそれが……あなたには負担となったのですね」
「感謝している」
妖魔の主人である女性は言った。
「私の中の人としての部分は、夫や子供たちと共に在ったが。魔術師としての一部はお前と共に在った。お前は我が最愛の者、最愛の友人であった……」
暖炉の燃える炎が、女魔法使いの顔に微妙な翳りをつけた。彼女は透明な表情を浮かべていた。美しく、気高いとさえ言える表情だった。死期がもう間近いのだ。
「私の後を追ったりするでないぞ」
女魔法使いは言った。
「お前はお前の寿命を全うしてくれ」
「私の寿命はあなたと共に在るのみです。他にはない」
妖魔は囁いた。彼の主人は苦笑した。
「仕方のない奴よなあ。最後の最後に、こうもごねられるとは思わなんだ」
「では生きて下さい。生きて私のわがままに、罰を与えるなりなんなりして下さい。まだ逝かないで。私を生かしたいとお思いなら、あなたも生きなければ」
女魔法使いはしばし沈黙し、目を閉じた。口元には変わらず微笑が漂っていた。
彼女は静かに問うた。
「お前は今でも私を愛しているのか?」
「未来永劫に」
妖魔は答えた。
「私の幸福がお前の幸福だと言ったな?」
「誓って偽りなく」
女魔法使いは目を開くと、妖魔を見つめた。微かな哀しみの影が瞳にあるようだった。やがて彼女は言った。
「気にかかっている事がある。お前にしか頼めぬ。私の友としてそれを果たすと……約束してはくれぬか」
「何でしょうか」
「先に約しておくれ、必ず果たすと」
「私の寿命に関する事なら、受けられませんよ」
妖魔は静かに言って微笑んだ。女魔法使いは瞬いた。
「言い出したらてこでも動かぬからな、お前は。案ずるな、お前に関した事ではない。それは確かだ」
「では約束いたしましょう」
女魔法使いは、ほっとしたような顔をして言った。
「私の子どもたちの事だ。子どもたちと、その血に連なるだろう子孫の事だ」
妖魔がはっとなり、言葉を遮ろうとした。だが構わずに彼女は言い終えた。
「私の肉を受け継ぎ、血を継ぐ者たち。彼等の行く末が案じられてならない。
私の子孫とその一門を、見守り導いてほしいのだ。人として道からはずれそうな時には厳しく指導し、助力の必要な時には貸してやってほしい。
決して甘やかすのではなく……友人として。お前の出来うる範囲で良い。寿命のある限り、見守り、導いてやってくれ」
彼女の言葉が途切れてからも、妖魔はしばし無言だった。じっと己が主人を見つめる。瞳には痛々しい翳りがあった。
「それ程までに」
ぽつりと呟く。
「私に、後を追われる事がお嫌なのですか」
「お前に生きていてほしいだけだ」
彼の主人は答えた。
「それに、私の子孫の事を案じているのも確かなのだ。こんな事は他の者には頼めぬ。お前にしか……」
「だがこれで、私はあなたの側に行けなくなる」
妖魔はためいきをついた。
「むごい方だ」
「約束を果たし終えたら来ておくれ。待っている。だがそれまでは駄目だ……」
女魔法使いは少女のような笑みを浮かべた。
「主人としての命令ではなく、友人としての頼みとした所に、誠意を認めては貰えぬか? お前には生きていてほしい。
長く生き、私の見れない未来を見ておくれ。私の子孫に過去の出来事を語っておくれ。
その友人となっておくれ、かつて私と共に在ったように。彼等には私の肉が伝わり、私の血が伝わる。側にいてやってくれ、彼等の……」
「私は約束しました。妖魔は一度交わした約束は破りません。あなたの子孫を護りましょう」
妖魔は言った。
「けれど私の愛したのはあなただけです。私のあるじもあなただけ。私の居場所はあなたの側にしかありません。それだけは変える事ができない、何があっても。それを忘れないで下さい」
「忘れたくとも、お前が忘れさせてはくれぬだろう」
女魔法使いの顔は土気色になっていた。死はすぐ側まで来ていた。
「もっと共に在りたかった」
囁くように彼女は言った。
「感謝しているぞ……本当、だ。我が最愛の友……最愛の」
最後の呼吸が終わろうとしていた。
「私の妖魔」
暴風の中、風の叫びをも怯ませる程の絶叫が上がった。叫び声は鋭く、胸をえぐらんばかりの悲哀をこめており、それは長く、長く続いた。
獣たちはそれに和して天に叫び、人々は脅えて家の中に閉じ籠もった。
そして、近隣の者は知ったのだった。その夜、女魔法使いが世を去った事を。
後に、その国の歴史には、ある一族の事が記される事になる。妖魔により護られていると噂されたその一族は、多くの賢者や魔術師を出した。
一族の中でも特に優れていると見なされた者には常に怪異がつきまとい、超自然的な力がその身を護ったと言う。
隆盛を極めた一族ではあったが、戦の度重なる時代に多くの者を失い、やがてその血は途絶えた。
伝説によれば、最後の一人が息を引き取った時、天は一変してかき曇り、暴風と雷鳴の轟く中に、悲哀を込めた絶叫とも、喜びを込めた笑い声ともつかぬ叫びが上がったと言う。その後その国において以前のような超自然的な力は二度と現れず、怪異も起こる事がなかったと伝えられる。
妖魔は約束を果たしたのだ。
「ラブシーン」のお題作品。四千文字をかなりオーバーしてしまい、謝りまくりました。六千文字近くあります。
…だから足りないってば四千文字じゃ…。
人間と人間外では、思いやりもすれ違う事がある。というのが書きたかった事です(この辺り、「永き夜の大陸」に反映されたかも)。
ちなみにこの時、同じお題で「ラブストーリー」「課題作品・再び」というギャグ系の短編も出したのですが、いずれもラブしているのが人外で。「人間の恋愛は書けないのか…?」と嘆息されました。今となっては良い思い出です。ふう。




