天使降臨
月がある夜、青く輝いた。
地球に吹く風は優しいのだろう、きっと……。ユーヴは眼下に広がる青い惑星を眺めつつ思った。あの星には星の生命があり、生きた風が吹くのだ。
懐かしい人の面影が浮かび、消える。彼女はユーヴの幼い頃に、地球に降りた。そして二度と戻って来なかった。教育官たちが彼女の果たした任務とその死を伝えた時、ユーヴはただ茫然としていた。他にどうすればいいのかわからなかったので。
地球光が部屋の中に照り返し、あちこちに鈍く青い光をわだかまらせている。ユーヴの姿も青く染まり、その金褐色の髪も瞳も翡翠のように光っていた。
背に広がる六枚の翼をゆっくりと閉じ、自身の体を包む。銀色に光る翼は淡く青に染まりながら、ケープのように彼を覆った。
この惑星を憎んだ事もあった、と彼は胸の内で思った。若く力に溢れた未分化の、荒々しい種族の住む惑星。短命で愚かで騒々しく、豊かで……彼女の愛した……。
「ユーヴ」
声をかけられたユーヴは、頭だけを動かしてそちらを見た。明るいオレンジ色の髪と瞳のレスティが、金色の触覚毛をぴんと立てて近づいて来る。
彼女の翼は四枚。やはり地球光に染まって翼が青く、髪が微妙な緑色を帯びる。
「また、ここにいたの」
「何か用かな」
ユーヴは輝く触覚毛を柔らかく巻いて微笑んだ。レスティの髪と目の色は彼女を思い起こさせる。
「用はないわ。あなたの様子を見に来ただけ。ユーヴ。あまりあの惑星を見ない方がいいわ……あなたには」
「何故。私はクメラの執政官であり、あの惑星の監視人だよ」
「仕事で眺める場合は仕方ないわ。でも……」
レスティは形のいい眉を、わずかにひそめた。
「憑かれてでもいるようだわ、まるで。先代の執政官と同じ……。
長く見つめ続けるのは毒なのよ、あの惑星は。私たちクメラにとっては」
「そうだろうね」
ユーヴは答えた。
「私を育てたエルリアは執政官の娘であり、次代の執政官となるべき者だった。彼女も何よりあの惑星を愛した。
仕方がないよ。私が魅かれるのは。いや、クメラたちが魅かれるのは。どんなクメラだって心の奥底では、あの惑星と、そこに住むあの幼い種族を愛している。
……結果として彼女は生命を失ったが」
「聞いているわ。『偉大な魂を持つ者』エルリア。
彼女の降りた大陸は二千年程前に、大地のプレート活動と、度重なる火山の噴火とで、海に沈んでしまったけれど。
残された文明も退化して、今は跡形もない。
彼女、自分の生命と魂を、この惑星に与えたのでしょ?」
「ああ」
ユーヴは頷いた。ほんの一瞬だったが、頭上に柔らかな渦を巻く金色の触覚毛が、微妙な動きを示したのにレスティは気付いた。では、彼はいまだに彼女の事を想い続けているのだわ……。
「エルリアの任務は……この惑星の探査と、クメラの暮らせそうな場所の確保だった。我等のいられる場所は結局見つからなかったが。
けれど彼女はこの惑星を愛し、それ故に彼女こそが我等の希望となった……不思議なものだね。
探査の途中でエルリアは、この惑星の住民の手にかかって死んだ。にも関わらず、再生措置を取らせなかった」
「勇気ある事だわ……私には恐ろしくて」
ぽつりとレスティは言った。感情を必死で押し殺す。自分の触覚毛が震えているのを彼に気取られたくはなかった。
「この惑星の住民は短命よ。私の最初の翼が生ずるまでに、彼等は何世代も経てしまったわ。あまりに儚い……。
それなのに彼女は生命をこの惑星に与えたの。私たちの寿命を捨てて、塵のようなあの種族を選んだ」
「『先見』のレスティ。君もいずれはある惑星に降りる」
ユーヴは静かに言った。
「君だけではない。全てのクメラが。私たちの母星が滅びてから二十期以上が過ぎた。我々の子孫の数はそして減りつつある。
君も知っているだろう。我々は滅ぶ種なのだ。
この惑星で生き延びる術はないものかと、先代の執政官も先々代の執政官も死力を尽くし、運命と戦った。だがどうにもならなかった。
けれどエルリア。彼女が希望をくれた。彼女こそはこの惑星に転生した最初のクメラ。我々の寿命を捨て、この惑星の生命体となる事を選んだクメラ。
この惑星は我々の魂を受け入れる慈悲がある……この星の子としてくれるだけの」
「クメラの元へ蘇生、転生する事を拒み、全てを捨てた転生者エルリア。偉大な魂を持つ者」
レスティが言った。
「『先見』の力のある者しか、私たちの未来の事は知らないわ、ユーヴ。彼女の事を理解できない者はまだ多い。彼女の名は禁忌になりつつある……」
「その為の執政官だ。事実を知らない同胞に、徐々に心構えをさせて、この星の住民として転生できる準備をさせる。全てのクメラがそうなった時、彼女の名は希望の光として輝くだろう。
エルリアは先駆けだ。クメラの新たなる生命への。我々は新たに生きるのだよ」
そしてあなたはこの柩に等しいクメラの船に、最後まで残るのね。全てを知りながら、皆の為に。
レスティの心の呟きは、わずかな触覚毛の揺れとなって現れただけだった。静かに問い掛ける。
「彼女、今どの辺りに生まれているの?」
ユーヴは答えた。
「ご覧。あの渦を透かして見えるあたり。あの広い大陸だよ、新しい……その隅の方の国に。もう、クメラとしての記憶も力も残っていない。地球の住民と変わりがない。精神の技すらも使えないあの種族と……!
だが、あれはエルリアだ。私にはわかる。彼女はあの惑星で生きている。風を感じ、雨を受け、大地を足で走り……」
ユーヴはふっと目を細めた。口元に微笑があった。
「私の翼は今六枚だが。十二枚に達するまでに、全てのクメラに準備をさせる事ができるかな」
「きっとできます」
レスティが答えた。執政官の寿命は平均して翼十二枚だ。八枚程が寿命のクメラたちの中では長寿に属している。
けれどレスティには彼の未来がうっすらと視えていた。
彼は歴代の執政官の中でも、最も長寿の執政官となるのだ。それがどういう事なのかもわかっていた。彼にとってはどれ程苦痛の日々であるかも。
何という憧れ、何という愛情。何という強さ。何という――哀しみ。
「それまではお手伝いするわ。私もまだまだ若いのよ」
だが彼女は敢えてそう言った。そう言わずにはいられなかった。
眼下に広がる地球は青く、美しかった。二人は無言のまま寄り添い、その光景を眺めていた。
彼等の船は故郷から、長い闇を抜けて彼等をこの太陽系に運んで来たのだった。けれどこの惑星に彼等の安住の地はなく――それ故彼等は船に留まり、船の中のみを一族の生きていく場所と定めた。それは何と哀しい選択であったろう。
自らをクメラ、『輝ける者』と呼ぶこの長命で美しい種族は、後に地球の各地で神話や伝説に織り込まれ、天使や精霊として語られていく。彼等は大地に留まる事はできなかった。だが人々の中でその存在は、確かな地位を得たのだ。
地球光の青く溢れる部屋の中にはやがて、誰の姿も見受けられなくなった。あの若い、暖かな目をした娘も。最も長く生きて最後の執政官となった男の姿も。
光だけが在った。ただそれだけが。
眠りについた、時の流れと共に。
ある夜の事、月が青く輝いた。私は月からこの話を聞いた。そうしてそれらも今となっては皆、遠い昔の物語なのだと、彼が囁いたのを。
地球光、の一言が書きたくて書いた作品。「ラブシーン」のお題だったと思います。高校の頃、メモしていたネタで書いたのですが。
登場人物の名前、出すだけでこんなに文字数取られるとは…。かろうじて四千文字内におさまりましたが。
影響されたのはヴァン・ヴォークトの「スラン」。触覚のあたり(笑)。かなり古いSFです。




