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水の迷宮

 その青年は海草の影に隠れる魚のように、ひっそりと佇んでいた。



 水族館は青と緑の揺れる空間だ。そこでは海から切り離された生き物たちが夢を見ている。


 ゆらゆらと揺れるものは落とした照明の明かりではなく、彼等の見ている深海の夢なのだ。



 子どもの頃に海辺の町に住んでいたという祖母に連れられて、幼い私は良く水族館に連れていかれた。あの頃にはまだ祖父も健在で、忙しい両親に代わって良く相手をしてくれたものだった。


 祖母はいくつになっても、どこか夢見がちな所のある人だった。幼い私に郷里の町に伝わる様々なおとぎ話をしてくれた。


 その中でも私が好きで、良くせがんで聞かせてもらっていたものは、人魚の一族の伝説だった。海の中には海を司る、神秘な力を持つ一族がいるのだと言う。そして祖母はその話の後にそっと付け加えるのだった。私はね、その内の一人に会った事があるのよ……。


 遠い昔の事だ。幸福だった時代の。


 妻との離婚話が進み、子どもの養育権が私には絶望的とわかるにつれ、私は良くこの頃の事を思い出すようになった。


 そうして今日、昔祖母に連れられてきたこの水族館に、数十年ぶりにやって来たのだ。




*  *  *




 客の殆どいない薄暗い空間に入った途端、懐かしい日々がそこに息づいているような気がした。


 ゆったりと泳ぐ魚たちの間を回り、示された順路に沿って歩く。


 水族館の構造は良く覚えていた。渦巻き状に作られたの通路に沿って壁沿いに水槽が並び、中央に広めのスペースがある。そこには椅子などが置いてあり、休憩もできるようになっている。


 行きは片方の壁の水槽を眺め、帰りには反対側の水槽を眺めながら帰ったものだった。そんな事を思い出しながらゆっくりと進んだ。中央の所の椅子まで来たら少し休もう、そう思いながら。


 そして進んできた順路の終わり、中央のスペースで、私は初めて、私以外の客の姿を見た。


 どこか現実離れをした人物だった。人間離れしたと言った方がいいかもしれない。その人物の全てが海を象徴していた。


 黒と緑の衣装は、この空間のゆらぎのように彼を包んでいる。


 髪は黒く、海の底の海草のつぶやきを思わせる。


 青い石のカフスボタン。胸元には真珠の飾りがあった。


 唇は珊瑚のように赤い。青ざめて見える程の色の白さは、深海の魚のようだった。


 細くて長い指先はどこか、難破した船の底でマリンスノウに埋もれる人骨を思わせる。長い長い時の果てに、海の懐に抱かれて海の仲間と化した者たちの美しい屍に。


 ゆらめく海の生物たちの吐息と、彼等の夢に産み落とされたような青年だった。


 不吉なまでに美しい夢。


 見た途端にそう思った。これは生きている人間が触れて良い者ではないのではないか、と。


 その時彼が、こちらを向いた。



「リチャード・ゲイル?」



私を認めた緑の目が一瞬細められ、次いで赤い唇から幾分低めの声で、音楽的な言葉が流れた。彼の言った言葉が自分の名前だと気づくまでには、数秒を要した。


 彼の口にしたリチャードという音は、発音がどこか……何かが違っていた。自分の名前なのに、異国の言葉のように聞こえたのだ。



「そうですが」



 どもりそうになるのを必死で抑え、私は答えた。彼は微笑した。



「メアリ・アンの孫だね?」



 祖母の名を出された私は、躊躇しつつも頷いた。



「あなたはどなたです。祖母を知っているのですか?」


「良く知っているよ」



 彼は答えた。



「彼女を愛していたからね」



 私は目を丸くした。



「祖母の教え子の方でしょうか?」



 何とか言葉を紡ぎ出す。祖母は一時期学校の教師をしていた事があった。彼は答えた。



「いいや。彼女が海辺の町にいた頃の知り合いだよ。


 私は彼女を愛したけれど、彼女は人間を選んだんだ。そして行ってしまった……私を海辺に残して」



 私は唖然としていた。この青年は何を話しているのだろう。


 祖母が海辺の町に住んでいたのは、七才になるまでの事だ。その頃の知り合いだと言えば、どう若く見積もっても、私より三十は年上という事になる。


 だが彼の姿は若々しく、二十前後にしか見えない。



「失礼だが、私にはあなたの言っている事がよくわからない」



 私は少々むっとしつつ答えた。



「冗談ならやめていただきたいものだが」


「冗談?」



 彼の微笑が深くなった。



「見かけでしか真実をはかれないのだね、他の人間たちのように。彼女の孫だというのに。


 目で見えるものはほんの僅かでしかないのだよ」



 そう言いつつ彼は、佇んでいたオオウミガメの水槽の前から歩み寄って来た。胸元の真珠を片手ではずし、私の前に差し出す。



「これは何に見える?」


「真珠でしょう?」



 眉をしかめて私は答えた。彼は微笑った。



「手にとってごらん」



 くるりと手を裏返して真珠を落とす。私は慌てて手を出して、その真珠を受け取った。


 ひんやりした、真珠特有の感触。


 てのひらの上のそれは、淡く薔薇色に輝く大粒の一品だった。宝石を見る目のない私でも、高価なものである事がわかる。


 その輝きは柔らかく、深く、囁くように私を見つめていた。


 見つめている内に、ふっと視界が暗くなった。真珠の輝きが増す。輝きはゆらゆらと私を包み、世界は不思議な色合いを持って私の周囲にあった。その風景はどこかで見た事があった。


 ああ。


 私は思った。これは、あの夏の日の海だ。祖母が話してくれた海辺の町。祖母が過ごした町の、海の中だ。今私は、海の中から世界に溢れる日差しを見つめている。


 そして。


そして私は見た。恐れもせずに海の中へと駆けてくる少女を。時代遅れの衣装をつけたその子は、古いアルバムで見た、祖母の幼い頃に似ていた。


 伸ばされる腕。白い腕。少女は誰かに抱き止められ、笑い声を上げた。


 優しい思いが胸から溢れた。涙が出そうな切なさと共に。笑い声は太陽の光のように暖かく、私の心を温めてくれた。幼い頃、祖母の笑顔を見た時のように。


 ゆらりとその風景が揺らぐ。


 きらきらと輝く瞳を持つ少女が一瞬、私の方を見た。そして言った。



『約束よ』



 声は静かに響いて消えていく。誰かの声がそれに和した。音楽的な美しい男性の声。



『約束だ』



 約束……。


 そして全ての風景は消えた。





 気づいた時、青年が私の手から真珠を取り戻す所だった。私は茫然としつつ彼を見つめた。彼は静かに微笑んだ。



「約束を果たしに来た、私は」



 彼は言った。先程の幻影の中、少女の声に和した声と同じ声で。



「彼女はもうこの世にはいないが。それでも約束は残るのだ。


 家へ帰りなさい、リチャード。彼女は約束を護ってくれたのだから、わたしも約束を果たそう。だからこの真珠を使ってあなたを捕らえる事はしない。


 家へ帰りなさい、リチャード」



 繰り返される『リチャード』という音は、自分の名であるはずなのに、波の音のようだ。



「祖母は……何をあんたと約束したんだ?」



 私はからからになった喉からやっとその言葉を絞り出した。彼は答えた。



「忘れない事を」


「あんたは……何を約束したんだ」


 青年は何も答えなかった。ただ微笑した。その姿が不意に薄れた。ゆらりと世界が揺れ、私はめまいを覚えた。目をつぶる。


 次に目を開けた時には彼の姿はなかった。私は一人で、青と緑に揺れる空間の中に立っていた。




*  *  *




「閉館ですよ」



 係員が呼びに来るまで、私はそんなに時間がたっていたとは気づかなかった。水族館の外へ出る。空は薄紫色に染まり、太陽は沈みつつあった。


 帰るか。


 私は思った。煙草を探して上着のポケットに手を突っ込む。指がひやりとした物に触れ、私は驚いてそれを取り出した。


 薔薇色の小さな真珠だった。


 祖母の話してくれた物語を思い出す。海の底に住む人魚の種族の王子の話を。彼は人の思い出を、魂を真珠に変える事ができた。


 そして祖母は言った。私はね。小さい頃にその内の一人と会った事があるの。お祖父さんと出会う前に、彼にプロポーズされたのよ、と。



 ――どうして人魚のお嫁さんにならなかったの――


 ――お父さんとお母さんを置いて行けなかったの。だからよ。それにお祖父さんと結婚してなかったら、お前のお父さんもお前も生まれてはいないわ、リチャード。


 でもね、別れる時に私たちは約束したのよ――


 ――約束? なんの……?――



 祖母の夢見るような眼差しを思い出す。いつまでも美しい微笑みを忘れない人だった。



 ――とても綺麗な人だったのよ。黒い髪をして、白い膚をして。女の子よりも色が白かったわ。私、悔しかったものよ。深い深い海の底のような緑色の目をしていたの。忘れた事はないわ。


 別れる時に私たちは約束したの。お互いの事を決して忘れずにいようって。だから私はお前に話して聞かせているのよ、リチャード。あの人の事を――


 ――おばあちゃん、王子様の事が好きだったの――


 ――そうよ、別れる時には涙が出たものだわ。本当に好きだったのよ。


 でもね、海の種族と人間とは、一緒にはなれないわ。最近になって、そう思うようになったの。


 父も母も捨てて人間である事もやめて、そうして海に入れば。私もあの人と暮らせたのかもしれないけど。


 海の種族は時に、とても残酷な事をするのよ。人間の残酷とはまた違う意味で、残酷なの。


 でも彼等からすれば、人間の方がよっぽどひどいのかもしれないわね。彼等は海を汚したりはしないものね。


 人魚の種族は気に入った者が海で溺れると、その人の魂を、それは美しい真珠に変えてしまうの。


 そんな真珠を私も見たことがあるわ。ずっと昔に人魚と約束をして、それを破った男がいるの。彼はその男の魂だと言って青い真珠を見せてくれた。罰としてずっと海の中で眠らせているのだって。


 私が彼と一緒に行けば、薔薇色の真珠になるだろうと言っていたわ。可愛らしい、優しい色の真珠になるだろうって。


 彼は言ったの、真珠たちは海の者として新たに生きているのだと。


 でも魂を天へ帰さず、側に置いておくのはかわいそうだと、私、泣いてしまったわ。


 それで彼も折れてくれてね。自分から望んで海の者になろうとした者以外は、解放してくれたわ。


 それから私たちは約束をしたの……――



 約束。遠い日の約束。私は思い出した。祖母の言葉の続きを。



 ――私は彼に約束したの、彼の事を忘れないって。彼は私に約束したわ、私の事を愛していると。私の血のすえまでも、ずっと愛していると。


 だからこれからも、人間を無理やり真珠に変えるような事はしないと――



 薔薇色の真珠。あの大粒の真珠は海の王子の、祖母との思い出だったのかもしれない。では今私の手の中にあるこれは何だろう。



 ――約束は残るのだ――


 ――約束は残るものよ、リチャード――



 妻の顔が脳裏をよぎる。知り合った当初の、愛し合っていた頃の。すれ違いばかりを重ねて、もう駄目だと互いに思っている。だが初めはこんな風ではなかった……。



 ――一緒にいられなくても、生きていく事ができなくても、約束は残るのよ、リチャード。たとえわかりあえない相手でも。


 それでも好きでいる事はできるわ。忘れずにいる事はできるのよ……――



 子どもに話してやろうか。祖母の話を。


 唐突にそう思った。考えてみれば、仕事にかまけて子どもたちと話をした事もないような気がする。幼い頃聞いたあの話を、話してみようか。少しずつでも。



 ――約束してくれたのよ。私の血の裔までも愛していると……――



 幼かった私に繰り返し語ってくれた物語。緑の目をした海の王子と海辺の町の女の子。二人の間で交わされた遠い約束の物語を。


 忘れずにいる事。祖母は約束を違えなかった。





 周囲の風景が闇に沈み始める。私は思索をやめた。早く家に帰ろう。道が見えなくならない内に。


 真珠をポケットに戻すと、私は歩き出した。


元ネタは人魚姫。信じてくれる人がどれだけいるんだろうな。


「ラブシーン」のお題だったと記憶していたのですが、後から確認してみたら「海の生き物」でした。…海の生き物。なんか微妙。


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