ラルゴ〜暗い螺旋〜
日差しは暖かだった。
地方の神殿に立ち寄ったわたしは供を置き、野に出た。 神官長であるわたしの身は、この国の『要』だ。魔に通じる者たちはわたしを亡き者としようと日々、暗躍している。
わたしの周囲で魔性の動きが激しい事も、確かだった。
気づかった者たちは、どこへ行くにも供を付けた。今回の旅にも新たな護衛が数名加わっている……が。今頃はわたしのいないのに気づき、慌てている頃だろう。
今、恐ろしいのは魔族ではない。
春はこの国の全土を訪れ、命を輝かせていた。甘い香りは何なのか。ふと、目を転じると、菫の紫が群れていた。わたしは立ち止まった。春の訪れを喜ぶその一群を見つめ、たたずむ。
静かな時だった。心の安らぐ。
この冬に、前の神官長が死んだ。遺言によりわたしは、新たに長の地位を継いだ。
それ以来、心の休まる時はなかった。
追従する者、敵対する者。若過ぎるわたしを軽んじる者、疎んじる者。種々の雑事、祭祀。その他……目まぐるしい日々。
疲れていた。
その時ふわ、と風が動いた。振り返ろうとしたわたしの両肩に手が置かれる。
「動かないで」
低い声がした。わたしはその声の持ち主を知っていた。
動こうにも動けない。この声と手の持ち主は、わたしよりもはるかに強い力と意思の持ち主なのだから。石になったかのように体を強張らせる。
わたしの緊張が伝わったのか、背後の気配が笑った。
「大丈夫、何もしません。……今は」
「いつかはする、という事か?」
わたしが尋ねると、気配が更に笑った。
「そう、いつかはね。だがそれは今ではない。そんなに警戒しないで。今は警告だけです」
「警告……?」
殺気が走った。気づいたわたしが硬直するのと、悲鳴が響くのとは同時だった。
「うるさいハエどもが」
背後の気配が静かに言った。わたしは自分が青ざめるのを感じた。
「今、何をした」
「ハエを払ったのですよ」
「わたしは『何をした』と言っている!」
怒りに任せて振り向こうとしたわたしを、鋼のように 力強い腕が押し止めた。
「よしなさい。まだです。あなたにはまだ、わたしを見る事はできない」
背後から抱きしめられ、耳元に囁かれる。
「そうするには力がない。弱すぎる。
わたしを見ようというのなら、それなりに修行を積んで強くなっていただかなくては、神官長どの?」
くすくすという笑い声と共に。
「その時が来たら、わたしはあなたを捕らえてしまいますけどね」
「勝手な事をっ!」
「駄目です」
柔らかい感触が頬に触れた。
「あなたはわたしのもの。他の者には渡しません。
その時が来れば……ああ。強くおなりなさい、わたしの人間。知っているのでしょう? 今あなたを狙ったのが誰なのか。
魔族ではありませんよ」
わたしは唇を噛んだ。そうだ。今、この国においてわたしを狙っているのは魔族ではない……。
欲に憑かれた人間たち。
国王に様々な進言をなすことで、自分たちに都合の悪い影響を与える、わたしという存在が邪魔な者たち。魔族との事も何も考えに入れていない、権力の争いの中で泳ぎまわる者たち。
「わたしが若過ぎるのだ」
苦渋の滲む声で呟く。
「先の神官長どのが亡くなられたのは、ついこの間。わたしはまだ、修行も半ばの身であったというのに、この任に就かざるをえなかった。
何故神官長どのは、臨終の際、わたしを次の長にと指名したのか……」
「見る目があったからですよ」
背後の声が言った。
「あなたになら。いつかわたしを見る事もかなうでしょう。人間には到底見る事も叶わぬと言われたわたしの姿を目の当たりにする事が。
狂わずにわたしを見つめる事の出来る者は、そうそういない……」
「お前は魔族だろう」
わたしはいらだたしげに言った。
「なぜわたしに構う。魔族ならば人間に敵対するものだろうに。なぜわたしの身を護るような真似を」
「あなたが、わたしのものだからです」
声が言った。
「わたしがそう決めました。だから、早く強くおなりなさい、わたしの人間。
その時が来ればあなたはわたしの姿を見、わたしの名を呼ぶでしょう。その時こそ、わたしもあなたの名を呼んであげましょう。
それから殺してあげます」
声は笑いを含んでいた。
「わたしに殺されたものは、わたしに捕らわれるのですよ、神官長どの。
だから早く強くおなりなさい。その時の為に。愚鈍な人間などに手にかけられる事がない程、強く」
手が体を離れる。
同時に背後の気配が消える。
随分たってから、わたしは振り向いた。そこには誰もいなかった。そうして大地に累々と横たわる、刺客たちの死体に目を転じる。
血にまみれて倒れる男たちは、都からわたしに付けられた身辺警護の者たちだった。腕をねじ切られ、首をもがれ、凄惨な姿で横たわっている。
わたしは目を伏せた。誰が彼らをさし向けたかは、わかっていた。この男たちを配備したのが誰なのか。……わたしの、最も信頼していた者。共に学院で学んだ、かつての友。
「神官長さまぁ!」
異変に気付いた者たちがやって来る。横たわる死体に顔をひきつらせ、真っ青になり、その中で立っているわたしに恐怖と安堵の入り交じった視線を向ける。
「ご無事でしたか。これは一体……」
「魔族だ」
答えてわたしは、彼らの方に歩み寄った。
「彼らはわたしを護って死んだ。都の家族にそう伝え、報償を取らせるように手配してくれ」
貧しさゆえに、汚れ仕事を請け負わざるを得ない者たち。
「この者たちを配備してくれた者には、礼を言わねばならぬな……」
少し疲れたわたしの表情を、何と受け取ったのか。
「御身が無事で、何よりでした。この者たちはこちらで、手厚く埋葬いたしましょう」
地方神殿の神官が言った。
「さ、こちらへ。とにかくこちらへ。身を清めて……お休みいただかなくては。おお、それにしても哀れな……皆、妻や子もいように……」
権力の争いには縁がなさそうな人の好い神官たち。彼らには警備の者が命を狙うといった事など、考えもつかないだろう。
わたしは彼らに連れられて、神殿の中に入った。中央にこの国を守護する神々の像が並び、その隅に黒く陰りのように魔王の像がある。
黒い炎をかたどった像は、魔王の真の姿を見た者によって創られたという。狂気の王にして、魔の王。神々に匹敵する力を持つ『秘められた名と姿』の魔。
その名は姿を表し、その姿を見た者は狂うと言う。この国の成立する以前から、伝えられてきた……。
「……」
わたしは苦笑を口の端に浮かべた。皮肉な事だ。護るべき人間からは刺客を送られ、厭うべき魔族から命を助けられるとは……。
目を伏せる。強くならねば。魔王を直視できる程に強く。人に殺意を抱かせなくなる程に強く。
万人に認められる強さを自身の内に持たねば。
「神官長さま?」
わたしの様子を不審に思ったらしい神官の一人が、目を向ける。わたしは微笑した。
「何でもない。すまぬが……、都に使者を送る手筈を整えてもらえぬか?」
「それはかまいませんが……どなたに、何と?」
「警備の者を寄越した、わたしの友に。この事を伝えねばならぬ。心を痛めている、と。この凶事に対しては神官長として、都に戻り次第、決着をつける、ともな」
「承りました」
都に戻り次第。お前の策謀に対して決着をつける。
春の香りが鼻をくすぐる。振り向いた先に、飾られた花があった。懐かしい時が脳裏を掠める。遠い過去。
何かを得た時には何かを失うものだ。だが……わたしの得るものは、何だろう。全てを失って、尚も得るに値するものなのだろうか。
何も見えない。未来の事など、何も。だがわたしは進むしかない。
わたしを害そうとする者が、ことごとく凄惨な死をとげる事は公然の秘密となっている。わたしこそが魔性を操っているのではないかという噂と共に。
強く、ならねばならない。
だが……何の為に?
何の為に?
一人で部屋にいると身の周りの世話をする少年が入ってきた。手に、春の花を持っている。
「神官長さま。これ」
「美しいね。どうしたのだ?」
「綺麗だったので。お見せしたかったんです」
頬を赤らめる顔はまだ幼い。何度目かの刺客の息子。母親もなく、父親を失って途方に暮れていたのをわたしの従者にした。
「魔族が出たって聞きましたけど」
「うん」
少年は、わたしを見上げた。
「神官長さまが無事で、良かったです」
何の気取りもてらいもない、素のままの言葉。
わたしは少年に歩み寄ると膝をつき、彼を抱き寄せた。少年はびっくりしたように身を引こうとするが、すぐに動きを止めた。
「神官長さま?」
「お前のような子どもを」
顔を伏せ、わたしは呟いた。
「また、出してしまったよ。わたしの為に。もっと強ければ……わたしがもっと強ければ……」
「神官長さま」
少年は黙って、わたしの背に腕を回した。
「俺は、神官長さまが無事で嬉しいです」
彼が泣いているのがわかった。
「無事でいてくれて、本当に嬉しいです。俺、わがままかもしれないけど。ひどい人間なのかもしれないけど。警護の人たちが死んだ事を悲しむより、神官長さまが無事だった事の方が嬉しいんです。
だから、悲しまないで下さい。死なないで下さい。
何があっても、死なないで下さい」
「……そうだな」
わたしは呟いた。
「お前を放っては行けないものな」
* * *
都に帰ったわたしは、友が資産を処分した後、自宅に閉じ籠もっている事を知った。家族に類の及ばないようとの配慮らしい。
お忍びで彼に会い、わたしは彼の死を事故として片づける事を約束した。
数日後、わたしはかつての友の葬儀に花と追悼詩を送った。彼を操った大臣については、別の方面から追い落としをかける事となるだろう。
この時のお題は「春」、だったような。内容、流血状態ですが。
主人公、最初、女性のつもりで書いていたら、書きかけのものを見た知人に「美青年にするべきだ!」と力説され。どうするんだよ四千文字しかないのにと思いつつ、どちらの性別でもOKな口調に直しました。
ここでも登場人物に名前なしの自分ルール適用中で、ちょっと苦労した事を覚えています。




