孤独な夜の魚
月は夜空に凛然と浮かび、月光は指先が青ざめて見える程に冷たく、不可思議な力を秘めて地上に降り注いでいた。
「ご覧よ。月光の底を泳ぐものたちを」
彼が言った。夜に満ちる、世界を青と銀に染める波が天の高みからやって来る。その中で奇妙な灰色の魚が跳ねた。
「シーラカンス?」
「夢さ」
彼は薄く微笑して私の方を見た。
「あれはね」
灰色の魚たちに片手を差し延べてみせる。
「果たされずに終わった、忘れられた夢なんだよ」
「忘れられた?」
「そう」
彼の姿を月光が彩る。青く、青く、陰りの色に……。
「人間たちはよく夢を見る」
跳ねる灰色の魚たちの方を見ながら彼は言った。
「あの魚たちは人の中で育つんだ。夢を抱いたその時から、あの魚たちは夢を見た者の中に生まれ、育ってゆく」
「それが何故、こんな所に? 人の中で育つのだろう?」
私の問いに彼は微笑した。
「人は夢を見るのと同じぐらい、彼等を捨ててゆくのさ」
灰色の魚たちの数が増えていた。その中に奇怪な灰色の影が混じる。魚より大きい。海竜の小さなもののように見えた。
「あれは……?」
「あれもお仲間。程度が大きいけどね。多分……そう、形になる程成長してから捨てられたやつだろう」
「みんな、何をしているんだ」
「見ていてごらん」
灰色の生き物たちは月光の底を泳ぎ、跳ねたり、くるくると回転したりして遊んでいた。
時折ぱくぱくと口を開け、何かを食べるような仕種をする。それが済むと再び月光のなかに沈み、遊び始める。
「何か食べている……」
「ああ。月の光を食べてるんだ。今夜のように青く澄んだ月光は、彼等の食物になる」
「みんな、月の光を食べて生きているのか?」
「みんなって?」
「夢たち」
彼はしばらく黙っていた。やがて静かに答えた。
「ここにいるものたちのように、人から見捨てられたものたちはそうしている。月光には魔力があるからね……寿命を伸ばすには力がいる。
人の中に居続けられたのなら、そんなことをする必要もないのだけれど」
そう言い、一瞬だけ間をおいてから続ける。
「夢は、夢を産んだ人から離れては、生きてゆけないんだ」
「えっ……」
私は彼の方を見た。
「でもあの魚たち……」
「今夜の月光でしばらくは生き延びられるだろうけど。じきに死ぬよ」
そう言ってから私の方を見る。静かな深い、夜のような眼差しで。
「仕方ないんだ。人に忘れられた時点から、あれらは死んだも同然だった。
それでもいつか、思い出して貰えるのではないかと命をつなぎ、生きてきた。でも、もう……」
彼は微笑した。全てを悟り、それでいて全てを許す微笑みだった。
「人は忘れても、夢は人を忘れていないよ」
彼はゆっくりと私の側から遠ざかりながら言った。私は彼に手を伸ばしかけ、その手を止めた。駄目だ。今の私には、その資格はないのだ。
「とても強力な夢の中では、生き延びる為に人に害を成すようになるものも、いるけどね」
柔らかい声。静かな声。遠ざかる。遠ざかる。彼が。ずっと私の側にいた、彼が。
「私もそうしようかと思った……今夜は本当は、そうするつもりだった。
でもできなかった。
行っていい。もう、行っていいよ……私は忘れないけどね。あなたは私を愛したけれど、私もあなたを愛したんだよ。忘れてしまっていいよ。私は……」
その姿が月光の中に消えてゆく。
「……この中に入るからね」
* * *
月は夜空に凛然と浮かび、月光は指先が青ざめて見える程に冷たく、不可思議な力を秘めて地上に降り注いでいた。
私は物思いからふと我にかえった。何を考えていたのだろう? 思い出せなかった。何か大切な事のような気がしたが。
「月の光に当たったんだな」
呟くと部屋に戻って窓を閉めた。気を引締めなければならない。明日から、新しい生活が始まる。今度の仕事はきっとうまくいくだろう。高望みさえしなければ。
ふと机の上に出しっぱなしになっていた手帳が目に入る。微笑が口元に浮かんだ。学生時代、とりとめもなくつけていた日記帳だった。あの頃は随分、いろんな夢を見ていた。
手に取ってから引き出しの一番奥へとしまい込む。誰かの影が脳裏をよぎった気がしたが、それが何なのか、もう私には思い出す事もできなかった。
この時のお題は「海の生き物」でした。かろうじて、シーラカンスが入っています…。同時に掲載したギャグバージョン(?)、「逆襲の課題作品」(←それぞれのお題で書いていた穴埋め短編。なぜかシリーズ化してしまった)の方の受けが、こっちと比べて妙に良かった事を覚えています。
…で、ここで確認してみたら、なんて事だ。この作品は、逆襲の課題作品」を書いた後、作品をまとめる作業中に、新しく書き起こした作品と判明しました。…あっちが先だった…。
課題作品シリーズについては、この「小夜曲集」の最後におまけとして載せる予定ですので、よろしければ読み比べてみて下さい。




