『きょとん』とは世界とキャラの位相のズレである
1、『きょとん』とは何か?
『きょとん』とは何かというと、もはやサイン化してしまっている感があるので、この「小説家になろう」に入り浸っている方々にとっては、言うまでもないことであろう。
一応、述べておくと――、
キャラ(多くの場合は主人公)が何かしら『すごいこと』をやっているにも関わらず、そのキャラ自身はすごいことをやっているという自覚がないことを『きょとんとしている』というポーズで表現するわけである。
この『きょとん』であるが、強弱の差はあれど、なろう小説の多くでは取り入れられている。
なぜなら、なろう小説の多くは『異世界転移』『チート』『ハーレム』の三要素で成り立っており、とりわけ『チート』というのは、過ぎたる力のことを指すので、『すごいこと』を成しやすいという構造にあるためだ。
2、なぜ『きょとん』とするのか?
しかし、チート能力を持っているため、事実上『すごいこと』を成し遂げやすいからといって、なぜ『きょとん』としなければならないのかの答えにはなっていない。
そもそもの話、『すごいこと』をやったのであれば、そのまま淡々とその評価を受け入れるという手法もあるはずなのに、あえてそのポーズをとらないのはなぜなのか?
わたしはその理由を世界とキャラの位相のズレにあると考えている。
どういうことか?
世界はパラノ的構造を有するのに対し、キャラはスキゾ的な構造を有するからだ。
その構造的な差異が『きょとん』につながっている。
世界とキャラについて別々に検討する。
3、キャラはスキゾ的である。
前にわたしはなろう小説ではサイコパスが多いと書いたことがある。サイコパスというと暴力的だという認識が多いかもしれないが、ここではそうではなく、単純に他者に共感しない程度の意味に捉えてもらってかまわない。
スキゾとはスキゾフレニアのことを指し、一般的には分裂気質という意味だ。
つまるところ、なろう小説の一部においては、キャラの統合精神機制が弱い(ように見える)と考えられる。
4、世界はパラノ的である。
しかし、他方で世界そのものはパラノ的である。
というのも、なろう小説とは基本的にはエンタメであり、より多くの人に楽しんでもらうことを是とするからである。つまり、読まれるためには最大のボリュームゾーンに引っかかるようにする必要があり、読者の多くはスキゾ的ではなくパラノ的である以上、世界そのものは『パラノ』であることを求められている。
定型発達、いわゆる普通と呼ばれる人は精神構造的にはパラノイアである。
これは例えばのところ、クラスの友人が数人でなにやら言い合っていて、その中で偶然自分の名前だけが聞こえたときに、どういうふうな心理状態になるのかを考えれば、自分がパラノイアかそうでないかが判別がつく。強がりのポーズでもない限り、自分に対して何を言いあっていたのか気になるのではないか。
そういう精神構造を有しているのが多いのが、この世の中である。
そうである以上、小説の世界観についてはパラノイア風味にならざるをえない。なろう小説がエンタメであるということを前提にするならば。
パラノ――、パラノイアの世界観とは何かというと、自己反省的な世界観である。
もっと言えば、被害妄想的な世界観である。
被害妄想の世界においては、被害妄想にさらされているがゆえに抗弁もまた数多く生み出される。
したがって、キャラの行動原理について、絶えず言い訳を用意することになるだろう。
典型的な例としては、SIDE使いである。
同じ場面を違うキャラの視点で描くことで、多くの場合、主人公が『肯定』される。
5 世界がパラノで、キャラがスキゾだからこそ生じる『きょとん』
典型的な例として、ギルドで的を適当な魔法で打ち抜くという例を考えてみよう。
主人公キャラは、最弱とされる魔法で打ち抜くのだが、的は完全に消滅してしまう。
周りは言う。
あの最弱魔法でありえねぇ。
そこで、すかさず地の文は述べる。
『主人公は知らなかった』のだと。
仮に世界がパラノで、キャラもパラノだったら、先のギルドでの例はどうなるだろうか。
『主人公は知らなかったのだ。
(やべー。目立つことしたくなかったのに。これ普通じゃなかったのか?)
主人公は乾いた笑いを浮かべながら言う。
「あの的、ボロボロだったから。すぐに壊れちゃいましたよ」
(絶対に嘘だー)』
――というような感じになるだろう。
パラノイア的な人格は自己の評価に敏感だ。
なので、周囲が『すごい』と思ったことに対して理解することができる。
対して、世界がパラノで、キャラがスキゾであればどうなるのか?
周囲が『すごい』と思ったとしても、それを理解できないのである。
スキゾ的な人格は、他者はもとより自己もいない(と言い切るのは雑だが、あえて断定する)。
そういった視点に欠けているのである。
したがって生じる『きょとん』。
6『きょとん』の効用。
ただ『きょとん』になるのはわかったが、
しかし、どうしてキャラの設定をスキゾ的にしなければならないのだろうか。
この点については、拙作の『なろう主人公はサイコパスが多い』でも述べたが、要は、読者の要請に答えた結果だと思っている。コミュニケーションすることに対しての忌避感というべきものか、他人に対する煩わしいという気持ちを捨象するシステムとして、スキゾ的な人格は有用なのだろう。
結果として『きょとん』となるのだろう。
ちなみに、この『きょとん』の効用は、他人に対する煩わしさを捨象する機能のほかに、世界とキャラのギャップによって生じる笑いの効用もあると思われる。勘違い系も同様の構造がある。
7『きょとん』の応用。
勘違い系向にうまく誘導すればエンタメ力は上がるかもしれない。
勘違い系の肝は勘違いから生ずる『コメディ要素』ではないと、わたしは見ている。
その核心部分は、はっきり言うと、善行であろう。
善なることを成したいという読者の要請を、『主人公の内心はどうであれ』『結果として善行になる』という要素に置換するのが勘違い系の真髄であろうと思う。
主人公の内心はどうでもいいので、要はサイコパスだろうが、スキゾフレニアだろうが、勘違い系として機能する。当然、『きょとん』としていても機能する。
ただ『きょとん』は、良いも悪いもなく、いわばゼロであるから、勘違い系としての機能性はパラノ的人格に劣後するとも思える。