6話
ポツポツと語り出した正樹の話を、ヤマトは座卓の前で正座しながら真剣に耳を傾けていた。
「あの日は雨が降っていたんです――」
正樹はどこか遠くを見るような目で語り始めた。
その日、正樹は仕事終わりの帰宅途中に本屋に寄っていた。
気になる新刊があったので、試し読みしていると、いつの間にか数十分と過ぎていた。
長居しすぎたと慌てて外に出ようとした時、胸ポケットの携帯から着信を知らせるバイブ音。
正樹は外に出るのと同時に携帯を取り出した。
『あ、もしもし? あなた?』
「あぁ」
『ねぇ、今どこにいるの? さっきから急に雨が降ってきたのよ』
「あぁ、今知ったよ。本屋に立ち寄っていたんだ。傘は持っていたんだけどね」
正樹は憂鬱そうに空を見上げた。暗たんとした雲からシトシトと雨が降り注いでいる。
正樹は傘立ての自分のモノを探したのだが、見つからない。
「傘が盗られている。参ったな……」
『智樹に傘を持って行かせましょうか?駅前の本屋でしょう?』
「いいのか?それじゃ、息子に甘えるとするか」
正樹は通話を切り、再び店内へと入った。
息子はちょうど反抗期に差し掛かっていた。今回のおつかいも嫌々に違いない。何か美味いモノでも買ってやろう、そんな事を考えながら本を手に取った。
それから数分後、胸ポケットから着信を報せる音が響く。
正樹は店の外へと出ながら携帯を取り出した。
「もしもし――」
『あぁ、あなた!』
妻のただならぬ声に正樹は驚いた。
「いったいどうしたんだ!?」
正樹の追及に妻は半ば叫び声で答えた。
『雫がッ! 雫がいないのよッ!!』
「なっ――!?」
正樹は言葉を失った。
妻が言っている意味がわからない。
「いないってどういう事だよ?なんで――」
『たぶん、あなたのところへ傘を届けに行ったのよ!』
妻のその言葉に正樹は目眩がした。
「どうして雫が? まだあの娘は一人で出歩ける歳じゃないだろ」
「それが――」
妻が言うには、息子の智樹は傘を持って行く事を渋っていた。おそらくそれを聞いていた雫が自分で持って行く事に決めたらしい。
妻が気づいた時には既に娘は傘を持っていなくなっていたらしい。
「とにかく、落ち着くんだ! 智樹はどうしている?」
『雫は捜しに行ったわ』
「よし。俺も捜すから、何かわかったら連絡してくれ!」
妻の返事も聞かずに正樹は通話を切った。
自宅の方に向けて駆け出そうとした時、
「おとうさん!」
愛する娘の声に正樹は振り返る。
そこには笑顔で走り寄って来る雫の姿。真っ赤な傘を差し、空いている方には黒い大人用傘を持っていた。まだ体が小さい娘は、引き摺るようにしている。
大事な愛娘の姿に、正樹は安堵するどころか、その身を硬直させてしまった。
なぜなら、彼女は反対側の歩道から車道を走り寄って来ていたのだ。父親に傘を届けるという使命に夢中のあまり、他の事に気が回っていないらしいかった。
鳴り響くクラクション。
舞い飛ぶ赤い傘。
その後の事は、断片的にしか思い出せない。
周りの人々の悲鳴。
地獄の底から響いてきているようなサイレンの音。
思わず妻と息子を責め立ててしまったこと。
責任が彼らだけにある訳ではないと本当はわかっていたこと。
悪いのは自分だ。
傘を盗られた自分なのだ。
雫を死に追いやったのは……。
正樹の話を聞き終えたヤマトは、神妙な面持ちで部屋の中を見回した。
「立花さん、雫さんの赤い傘は?」
ヤマトの質問に、正樹は押し入れを指差した。
「私が引き取りました。あの押し入れの中にあります」
ヤマトはゆっくりとした足取りで押入れの前に立つ。
一息つき、一気に押し開いた。しかし――
「……ありませんね」
ヤマトの視線の先には綺麗なタオルが敷かれているだけだった。傘などどこにも見たらない。
「そ、そんなバカな! さっきまでここにあったんだ!」
ヤマトの背後から覗き込んだ正樹が狼狽えた声を上げる。
その様子を眺めながら、ヤマトはスマートフォンを取り出し、タケルに連絡を取った。
「もしもし、タケル。傘が姿を消した。そっちに現れるかもしれない」
タケルの声が聞こえたのと同時に、ヤマトは捲し立てた。
また犠牲が出るかもしれないのだ。
だが、タケルの声は非常に冷静なモノだった。
『あぁ、知ってる。目の前にある』
◆
タケルが赤い傘を見つけた場所は、正樹が傘を捕られた本屋の前だった。
傘を差していたのは30台くらいの男性だった。
「見つけた。男が差していた」
タケルはスマートフォンを耳に当てたまま男性の後を追った。
『タケル、気をつけろよ』
ヤマトの心配げな声はタケルの耳には入っていなかった。今回の怪異の元凶がすぐ目の前にいるのだ。一定の距離を置いて追跡する。
そして、男性がちょうど裏通りへと曲がって一瞬姿が見えなくなったところで、
「うあああぁぁッ!!」
男性の叫び声が辺りに響く。
「野郎ッ! 早速襲いやがったか!」
タケルは持っていた傘を放り投げ、スマートフォンをポケットにしまい込んで裏通りへと駆け込んだ。
角を曲がってすぐに目に入ったのは、赤い傘を頭に被った奇妙な男の姿だった。それが意味する事を瞬時に理解したタケルは、より加速する。そしてジャケットのポケットに両手を突っ込み取り出すと、その手には白金色のメリケンサックが装着されていた。それは純鉄でできている。鉄には魔を祓う力があるのだ。
「こっんのぉ!」
タケルは男に覆い被さる赤い傘に拳を叩き込んだ。
「うっ!」
と呻き声を上げたのは傘の下の男だ。
「あ、ごめん」
と思わず謝るタケルだったが、赤い傘には尚もメリケンサックを押し付けていた。
すると、赤い傘は身悶えするように震え始めた。それを見とめたタケルはもう一方のメリケンサックも押し付けた。
瞬間、赤い傘は男を解放し、空中にフワリと浮き上がった。
「ひあぁぁっ!」
男は尻餅を突いてブルブルと震えている。しかし、対して怪我はしていないようだ。少なくとも、首は繋がっている。
タケルは男に手を貸して立たせた。
「大丈夫か?」
「あ、あれは一体」
「あー……っと、早く逃げろ!」
タケルは男を庇うように背を向けた。そのタケルの正面には赤い傘がまるで鳥のようにその身を羽ばたかせながら宙に浮かんでいる。
その内側にはメタルフレームの骨組みがあるはずだが、今目の前にある傘にはポッカリと大きく開いた口があった。口の中にはズラリと並んだ鋭い牙が生え揃っている。
「あ、あ、あああぁぁぁっ!!」
男は靴が脱げるのにも構わず裏通りを駆け抜けていく。それを見咎めた赤い傘はその背を追おうとするが、
「行かせるかよ」
タケルはさの傘の柄をむんずと掴み取った。男に向けて突進しようとする力は予想以上に強力だったが、離すわけにはいかない。
赤い傘は苛立たしげにタケルに向かって牙を向けた。それに負けじとタケルも挑発的な笑みを浮かべる。
「へっ! こちとら、オメェーのせいで鬱憤が溜まってんだ。覚悟しやがれよ」
タケルはその拳を赤い傘に振るった。




