90.耳飾とイヴ
城の中しか知らない耳飾からすれば新鮮なことの連続ではあったものの、イヴという娘の過ごす日々のほとんどは、他人からすればおだやかで単調なものだっただろう。
彼女の視界に映るものは、彼女が魚を釣る青い海、細工する白い貝、餌をやる猫、雪に埋もれた風景、それくらいのものだった。何事も繰り返しである日々。そのすべてが浜辺の小さな家の中で完結している。それでも彼女は退屈というものを知らないようで、それを楽しげにこなしていた。それは、彼女の日課である日記からも知れた。たとえば掃除一つにしてもそこに工夫を凝らし、面白さを見出すような人間であることが。それを見て、長らく王族という身分の人間に携わった耳飾は、その一端であるコーラリアとこのイヴは、双子でありながらまるで違うと判断した。もっとも、育ちがこれほどまでに異なれば当然の結果なのかもしれなかった。ただ、常に人に囲まれたコーラリアも、ひとりで生活するイヴも、同じくらい孤独なようではあった。
陽気な性質であるらしいイヴだったが、時々、ぼんやり遠くを眺めていることがあった。それはひたすらに降り続ける雪であったり、海の向こうであったりした。長い時間そうしているので、眠ってしまったのではないかと思われても、その顔が上げられたままであったから、彼女は起きて物思いに沈んでいたのだろう。
コーラリアはやはり来ないまま、幾月も過ぎたある日のこと。あまりに外が吹雪くので一日屋内で過ごすことにしたらしいイヴが、どこから仕入れたものか滑稽な挿絵つきの物語を読んでいた最中、どんどん、と粗末な扉を無遠慮に叩く音がした。彼女の答えも待たず、誰かが凍てついた風と共に飛び込んでくる。
「イヴ、久しぶり!」
「シオン」
現れたのは一つにくくられた金の髪、印象的な濃い青の目をした、どこかのほほんとした青年だ。少しとがめる響きを持ったイヴの声に、彼は抱えていた大きな荷物を下ろして少し肩をすくめてみせた。
「今日はちゃんと入る前に合図しただろ?」
「……そうだけど。まあいい。本当に久しぶりだな」
悪びれない様子の青年に何か諦めたようにイヴは笑ったようだった。読み止しの本を片付けると、青年に座るように勧めてから茶を淹れだす。
「無事でなにより。機嫌がいいところを見ると、前に話していた大仕事とやらは首尾よく運んだのか」
「もちろん。悪徳商人からまんまと頼まれてたものを取り返してやったさ。俺がしくじるわけが無い」
「たいした自信だ」
「それはまあ、世界一の腕と称される義賊だから」
「盗みは盗み。犯罪の腕を褒められてどうしてそう誇れるのやら」
「そう言ってくれるな、俺のとりえはそのくらい……。いや他にもいろいろあるさ、異国の言葉も大体分かるし、その流儀を真似ることも得意。変装もまあお手の物だし。イヴにはあっさり見破られちゃったけど」
そう言って、青年は髪に手を伸ばすと器用に鬘を外し、手ぬぐいで乱雑に顔を拭った。すると彼は全くの別人の顔となった。その漆黒の髪の似合う、凛然とした顔つき。これが本来の顔なのだろう。
「声は変えていなかったし。そもそもここに来る生身の人間はシオンくらいのものだから、分かっただけだ」
そう言いながら、どこか安堵の息を漏らしたイヴに、青年はくすりと微笑んで見せた。
「この顔の方が落ち着く?」
青年と同様椅子に腰掛けたイヴは、その言葉に少し首を傾げたようだったが、考えるように茶を啜って間を置いてから答えた。
「慣れているからね」
「それだけ?」
どこか不満げに青年が問うと、いつの間にやらイヴの足の上に乗ってきた猫が、威嚇するような声で鳴いて青年を睨んだ。それを見て、青年が少し顔色を変える。
「イヴ、そいつはどうした?」
「拾った」
「……ここで?」
「ここで」
彼女の淡々とした受け答えに、青年は苛立ったようだった。
「なんで警戒しなかった? おかしいだろ、結界を通ってこんなところまで入ってくる普通の動物なんているわけがないのに」
「シオンだってこいつと同じに『こんなところ』で倒れていたじゃないか」
「俺はいいんだ。『倒れてた』って、もしかしてまた癒してやったって言うんじゃないだろうな」
「いけないか?」
しばらく青年はイヴを睨んでいたが、やがてどこか悔しげに目をそらした。
「……いや。イヴのそういうところに俺も救われたんだから。でも、君が危ないなら話は別だ。エウリアは何か言っていなかった?」
「エウリア? そういえばあいつが来るときいつもこいつはいないから、人見知りだと思っていたが、シオンのことは平気みたいだから違うのかな」
「なるほど、あいつが役に立たないことはよく分かった。ジルフェ」
すぐさま、淡い色彩の精霊がその姿を現した。
「なに、シオン」
「この猫を見てくれないか」
イヴの傍に寄り、猫をその膝から持ち上げようとして引っかかれながらシオンがそう言うと、精霊は珍しく表情を動かした。そこに浮かんだのは違えようの無い嫌悪。
「するとこいつは魔、か。精霊ではなさそうだと思っていたけど」
猫を持ち上げるのを諦めた青年がそう呟いても、イヴは何も言わない。静かに膝の上の猫の顎をくすぐっている。
「本当は拾う前から知ってただろう、イヴ。こいつが魔だということをどれだけこいつが巧妙に隠していても、君が気づかないわけが無い。それなのに、どうして魔なんか助けたんだ」
イヴは問われて黙っていたが、やがて口を開いた。
「確かにそのことには気づいていた。でも私には分からない。どうして魔というとみな顔色を変える? 別にこの猫は、拾ったあの日から今まで、好き嫌いをする以外で悪さをしたわけでもない」
「それはあくまで今までの話じゃないか。歴史が証明しているだろう、魔と関わると碌なことにならない。何かあってからじゃ遅いんだ」
「なにか、か。腹が減ると鳴きわめいてうるさいとか、家が毛玉だらけになるとか?」
「イヴ……」
イヴは肩を落とす青年を見て笑った。
「人も精霊も、時に過つ。正しくあれるかどうかも、何事も、何者に生まれついたかが全てではないはず。風の王族として生まれついて、たいして術力の器を持たない私のような者もいるし」
王の元に生まれつきながら、まったくそれと関わりなく生きてきた娘の言葉に青年は口を閉ざす。それを見ながら、イヴはごろごろとのどを鳴らす猫を軽く撫でてやった。
「精霊と契約は出来ないが、その代わりに、私には癒しの力があった。こんな場所だとたいして役に立たないものだけれど、それで助けられるものがいるなら助けたい。それに、『可能性』で誰かを見殺しにすることは出来ないよ。どうか、こいつのことはいなくなるまでそっとしてやって欲しい」
そう言って俯く彼女の頭に、ぽん、と手が乗せられた。
「ジルフェ?」
「あなたの言うことは分かった。風の精霊は何もしない。あなたに害が無い限り」
精霊はけだるげな様子でいながらも、話はきちんと聞いていたらしい。
「あと、あなたのことが大切だからシオンは口うるさいだけ。嫌わないでやって」
「嫌いじゃないよ」
ジルフェの口をふさごうとした青年は、その言葉に目をしばたく。
「シオンは私にとっても大切な友人だ」
「ならよかった」
続けられた一言に苦く笑った青年をよそに、精霊は嬉しげにそう言うと消えてしまった。猫はどこか嘲笑うように鳴いた。
それからひとしきりイヴに会わなかった間の冒険談をしながら、異国の本などの土産をシオンは彼女に渡していた。そのなかで、装飾品の類を拒まれた彼は、ためらいがちにイヴの耳に手を伸ばした。耳飾はその大きな手に触れ、その瞬間、彼が大きな力を持っていることを悟った。そのことはおそらくジルフェが彼の元にいる理由の一つなのだろう。
「いつもいらないって言われるのに細工物を持ってくる身で聞きたくは無いけど……。イヴ、これ、貰いもの?」
「そう」
心底嬉しそうに、自慢げにイヴは笑った。
「そうだと思った。会ったんだ」
誰に、と言わないあたりを鑑みるに、彼はどうやら耳飾が何であるか見抜いているらしい。
「綺麗なひとだった」
「それ、自賛になるんじゃないか。君の言うとおりだけど」
「望まない相手と、結婚してしまったんだ」
「そうらしいね」
吹雪の轟々という音が、暖炉の火が爆ぜる室内にくぐもって響いた。城も町も遠い、ここはいつも静かだ。
「もう会えないかもしれないって」
「そう」
「たくさん話して遊んだんだ、楽しかった。姉妹っていいなと思った。ずっと今まで二人でそうしてきたみたいに感じた。父上にも母上にも、会ったことが無くて、家族ってずっとどんなものか知らなかったから、私は嬉しかったんだ。だからここまで来るのが大変だろうに、しょっちゅう会いに来てくれることに少しでも礼がしたくって、カメオを作って、出来上がって、喜ぶだろうって渡すのが楽しみで、でも渡せたその日に」
「さようなら、か」
一気に言い募った彼女の言葉を継ぐように、シオンが言った。彼女が震えるのを、耳飾は感じた。嵌った部分が熱を持っている。泣いているのだろうか。だが、彼女が俯いた先に広げられたその両手に、涙は零れ落ちることが無かった。イヴの手は、ほっそりとしてひとつも瑕疵のないコーラリアの手と違う、労働を知る者のそれだ。
「どうして、同じで、こんなに違うんだろう。どうしてコーラリアだけ、そんな目に遭わなくちゃいけない。どうして私は代わってやれない。あんなに嫌がっていたのに」
どこか淡々とそう話す彼女は悲しむより、怒っているようだった。多分、彼女自身に。
その彼女の耳元から頬をなぞるように手を動かし、細い顎を持ち上げたシオンは囁くように彼女に訊ねた。
「イヴ。いつか君に言ったように、君が本当に望むならば、俺は何だって持ってくる。女王陛下を盗んできてあげようか」
暖炉の揺れる火を映し、妖しい輝きを帯びた青い目はしかし、少しも冗談を言っていない本気の色を宿していた。だが、耳飾の持ち主は首を横に振った。そうして顎を掴んだ彼の手をそっと外す。
「私は彼女をそういうふうに盗んできたりできる物として欲してはいないよ、シオン」
「じゃあ逃がす?」
「そういうことじゃない」
それに再びイヴは首を横に振る。
「それに、彼女は女王だ」
「君は生まれつきが全てでないと言ったけど?」
「ああ。でもどう生きたかはそうじゃない。そして、彼女がいなくなったらこの国はあっけなく瓦解する」
「そのために犠牲になるしかない、と」
「いや……、ううん、その通りだ。助けたいと思っていても、結局こうして納得してしまう私は、酷だ」
青年は首を傾げた。
「どうだろう。君だって犠牲になってる」
「そんなことは」
「ある。
思うままにここから動けない。他者と接することが出来ない。何者になることも許されない。隠れて生きることを強制されて、どうしてそんなことはないって言える? イヴ、俺は君をいろんなところに連れて行きたい、いろんな世界を見せてやりたい。ここでは咲かない花の咲き乱れるのを見せて、びっくりするくらい香辛料の入った料理を食べさせて、面白い人間にたくさん会わせて、君がどんな顔をするか見てみたい。でも君は今に満足しているって断るし、女王陛下を諦めるのと同じ理由で納得してしまうんだろう。
ねえイヴ、俺は時々昔の聖人の話を見たりしていると思うんだけど、一人の人間が国や世界のためだからって犠牲になるのは、なら仕方ないって済むことじゃない。その上で救われたって、本当に人々は幸せなのか? それをもし是とするんなら、そんな世界は見捨てたっていいじゃないか、ってね」
「そうかもしれない。……ただ、私みたいな聖人と程遠い人間は、何事も自由で定められた役割がひとつも無いなら、迷いに迷って無為に過ごしてしまうだけかもしれない」
「イヴは違う。仮にそうなってもいいじゃないか。それすらできないことが問題なんだから」
イヴはシオンの断固とした口調に笑った。
「なあ。私、あのひとを一度、姉上と呼んでみたかった」
「……うん」
「シオンは優しい」
「やっと惚れてくれた?」
イヴはそれに答えず、ただ言った。
「ありがとう」
と。
夜になってシオンを迎えに来た風の精霊は、イヴに、「ねえ、イヴ。その耳飾、女王の証なのよ」、とだけ告げて去っていった。
客のいなくなった部屋は、いやに寂しく静かだった。一人暖炉の前にしゃがみこんで、耳元に手を伸ばし耳飾に触れたイヴは小さく吐息を漏らした。
「悩み事か?」
そこに、低い声が響いた。耳飾がイヴの手に渡って以来、初めて聞く声だ。客ももう去ってイヴ以外に人はいないはず。だが、それに動揺もせずイヴは『彼』を見やって答えた。
「なんでもないよ。ようやく力が戻ったんだな。ええと、」
「イヴォルザーク」
「イヴォルザーク。ちょっと呼びにくい名前だな。その姿を見るに、元気になったみたいでよかった」
「ルザークで良い。なにせお陰様で命拾いしたからな。感謝している。もっとも、そのせいで少々力が戻りにくくもあったが。『神聖な』術は我が身には応える」
「それは悪かったな、ルザーク」
ルザークと呼ばれた男は尊大な様子で許す、と首肯した。
「イヴ、あれに惚れたのではないか」
「唐突だな。シオンのこと?」
イヴは問いに問いで返す。
「そう、奴だ。義賊を気取り、ここの盗賊を率いて諸国を荒らす男。相変わらずと思えば、愛しい女の前に立てばああも変わるものかとよい見世物だった」
「シオンのあの態度は冗談交じりだ。それにしてもルザーク、シオンを知っていたのか」
「ああ。もっとも猫の姿ではないときに、だが。とある品を巡って長らく争った。始終、どこか人を食った陰険な態度をしていたな。その時には随分荒みきった輩だと感心したものよ」
「きっと、思春期だったんだろう」
「お前こそ思春期であろうに若くないことを言う」
くつくつと魔は笑った。
「思うさま、好きに生きればいいものを、今の世の人間はつまらぬことにやたらと拘泥する。そして本音を誤魔化すようにたくさんの仮面を被り、そのうちに愚かしくも自分の元の顔を忘れる。そうならぬよう、ひたすら望むままに、愛し、憎み、邪魔なものは殺し、面倒なら逃げればいい。それが自由だ」
「それはまた、重たい自由だな。誰かを傷つけてもそう生きるべきだと?」
「人を思いやったためなどと口にするような、自分のためでない理由など何の価値も持たない」
「そうだな。どれだけ格好をつけてみても、突き詰めれば自分のためだから。ただ、思うまま誰かを殺し、憎むことは、私は遠慮したい。きっと疲れきってしまうし、悪くすると罪人になるし」
イヴはそれきりなにかを考え込んでいた。それを見ていた魔は訊ねた。
「聞かないのだな」
「うん?」
「何故俺がこんなところに、血塗れで行き倒れていたのか」
「言うなら聞くよ」
「成る程。ならば聞け。とある国の王に実に瑣末なことで付け狙われて、えげつないやり方で捕まえられ、あらゆる手管で拷問された末に死にかかった。辛くも逃げ延びたときに、魔が到底見つけられもしなければ入りたがらない一角に通りかかった。即ちここだ」
「……大変だったな」
魔は頷いた。
「ああ。危うくあらゆるものが信じられなくなるところだった。だからお前のことも最初に会ったとき殺そうとした」
「おい」
「生憎指一本とて動かせなかったので諦めたら、見る間に傷が癒えた。そうして拾われてからも何度か隙あらば殺してやろうと思っていた。なにせお前がかの王の手下でない証拠はどこにもない」
「……そうか」
「だが、お前はいつも俺をただの傷ついていた猫として扱った。触れるときは慎重に触れ、魚を毎日食わせ、のんきに話しかけた。生来怠け者の身には、お陰でここの居心地は悪くなかった」
「ならよかった」
そう言って少し笑ったイヴは、隣に座り込んだルザークに向き直った。
「ここを出て行くのか?」
「今すぐ、と思ったが寂しかろう? この吹雪の止むまで『お前のために』いてやろう」
そしてそのまま、欠伸をした金の色を纏った魔は猫の姿に戻って丸まると眠り込んでしまった。
「助かるよ」
彼の言葉に少し目を丸くしていたイヴは、微笑んで呟いた。
それから、吹雪の日々がしばらく続いた。あれ以来、本来の姿をとることはなく猫の姿のままだったが、魔は人の言葉で話した。また、悪天候の中でもやってくるシオンと猫はよく喧嘩していたが、そのために彼女の小屋はにぎやかだった。笑う娘の耳元で、共に笑うように耳飾も揺れた。この所有主が楽しげであることは、実際耳飾にとっても楽しいことだった。
イヴは一日の終わりに欠かさず耳飾を手入れした。そして毎日その耳に耳飾を丁寧な手つきで飾った。耳飾はそれを義務感から生じたものでない理由でこなす娘の様子が気に入っていた。同胞達が傍にいないのが残念だった。きっと口を揃えて、初代の女王の耳元にいた頃を思い出すと言うだろう。残念ながら口は無いのだが。
そんな愉快な日々は、ある朝終わりを告げた。その朝、とうとう吹雪がやんだ。しかし、耳飾が予想していたように魔が去ったために、その日々が終わった、ということにはならなかったのだ。なにもかもが同時に起こって、その全てのめぐり合わせは悪かった。それに不似合いなくらい、珍しく晴れ渡った朝であった。
「晴れた」
朝、イヴがカーテンを開けると、燦燦と太陽の光が小さな家に差し込んだ。
「そのようだ」
イヴの隣で伸びをした猫は、眩しげに目を細めてそれを見た。その様をじっと見つめていたイヴは呟いた。
「ルザーク、魔は陽の光を浴びると溶けたりしないのか」
「……イヴ。お前は魔に対する偏見が無くて実に結構だとつい先日思ったが、撤回しよう。大体今までもそんなことにはならなかったろうに」
「すまない、なんとなく」
「なんとなくも何も」
呆れた様子で何か言いかけた魔は、イヴの表情を見て押し黙った。
「世話になった」
「どういたしまして」
一度その姿を見ていても、相変わらず魔をただの猫として扱っていたイヴがその頭を撫でるのを、ルザークは抵抗せず受けていたがやがてぴん、と尻尾を立たせるといきなり裏戸のほうへ行ってしまった。
「ルザーク?」
訝るようにその名を呼んだイヴは、表の方の扉を叩く遠慮がちな音に飛び上がった。エウリアでも、シオンでもない、それは。
「イヴ」
「コーラリア!?」
扉の向こうに、イヴとそっくりの娘の姿があった。だがその姿を見ないうちに、コーラリアの方はひどく大人びていた。
「ごめんなさい、イヴ。こんな朝に、急にやって来て。もう会えないかもしれない、なんて貴女に言っておいて……。でも、私、貴女しか、こんなこと」
「いつでもおいでと私は言ったよ、コーラリア。なにがあったんだ?」
まるで最後に会った日と同じに、曇りきった表情をしたコーラリアへと、そっとイヴは問いかけた。
「私」
彼女は言い淀んだ。寒さのためか震えながら、一度深く呼吸すると、コーラリアは言った。
「最近体調が悪くて、お医者様に見てもらったの。そしたら……あの人との……子どもができてしまったんだって分かった。どうしよう、イヴ。あの人も、みんなも、喜んで、おんなじ表情でおめでとう、これで安泰だって言うの。これで女の子だったら素晴らしい、とかそんなことを。でも私、ちっとも嬉しくない、喜べないの! どうしよう、このままじゃ私、この子を愛せない、きっと酷いことをする。それにもし、双子だったら? 男の子だったら? そんなことになったら、この子……!」
その手を腹の上に乗せながら、青い顔をしたコーラリアは泣き崩れた。
「コーラリア……」
かける言葉も見つからず、ただしゃがみこんでしまったその傍に寄って彼女を立たせると、家の中に連れこんでイヴはその背を撫でた。
コーラリアはずっと俯いていたが、やがて真っ赤に泣き腫らした目をして口を開いた。
「ねえ、イヴ。どうしたらこの子を愛せるかしら。私そんなこと分からない、愛してもらったことの無い人間が愛し方なんて分からない、抱きしめればいいの、口付ければいいの? 優しく言葉をかけて、愛してるって言って、名前を呼んであげればいい? そんなの、あの人みたいに何も思ってなくたって出来るのよ。心が伴ってないなんてそんなこと、きっと私と同じにこの子にも分かってしまう」
本当に分からない、と言う顔で惑う彼女に、イヴは同じように迷ったように言った。
「コーラリア。あなたは、もうその子を、愛しているんじゃないのか」
「え……? イヴ、何を言って」
「あなたの王配になった人のことを、あなたは確かに愛していないのかもしれない。その人との子どもだから、愛せないと思うのもしょうがない。でも、そんなふうに、その結果生まれてくる子が傷つくことを心配するのは、その子を大切に思い始めているからじゃないのか。私も『愛している』って言うのはよく分からないけれど、相手を案じ、その幸せを願うのは愛してるって言えるんじゃないかな」
それに、とイヴは続けた。
「双子だからか、私はコーラリアが悲しいとなんだか悲しくなったりするんだけど、今、それに混じって優しい、誰かを想うような気持ちもかすかに感じているんだ。もう一つ」
「何?」
「さっき言った意味では、私はあなたを愛しているよ、コーラリア」
「イヴ」
言葉をなくすコーラリアに、イヴは笑いかける。
「双子で生まれて、あなたに会えてよかったと思っている。ただ、こうして話を聞いたり、その幸せを願うだけで、何も出来ない身だけれど。コーラリアも私と同じように思ってくれるなら嬉しい」
「貴女が……」
「ん?」
首を傾げたイヴに、コーラリアは頬を赤らめて目を反らした。
「貴女が私と同じ顔じゃなくて、殿方だったら迷わず王配に選んだのに、と思ってしまうくらいに大好きよ」
「それは残念だった」
「大体、そうじゃなければ耳飾なんて……、なんでもないわ」
何かを言いかけつつ照れたように止めるコーラリアに苦笑して、「少しは落ち着いた?」と問うイヴへ、こくりと彼女は頷く。その時、今度は乱暴に扉を叩く音がして、コーラリアは止めるイヴに構わず、あわてたように衣装棚へと身を隠してしまった。
それと僅かな差でいつものように飛び込んできたのは、シオンである。
「イヴ!」
「おはよう。なんだ、朝から」
「だって君が……、あれ? イヴ、香水持ってたっけ」
「いや、持ってない」
その答えを聞いても納得がいかないように、シオンは柳眉を寄せた。
「おかしいな、花の香りがする。君は雪の匂いなのに」
「気のせいじゃないか。それよりなんだ、雪の匂いって」
「説明すると長くなるけど、聞く?」
にやりと笑ったシオンに、イヴは首を横に振る。
「遠慮しておくよ。それより用事はなんだ」
「忘れた」
「なら、もう帰ったほうがいい」
「どうして?」
「もう魔もいないし、することがないだろう。それにシオンの塒の者たちも、朝から頭がいなければ騒ぎになるんじゃないか」
いつの間にかイヴの目の前にやってきていたシオンは、彼女をじっと見つめた。
「イヴ」
「何?」
「なんか隠してる?」
「……隠してない」
「そう? 一つ教えておくけど、イヴは嘘がうまくない。魔は確かにいなくなったしそれは喜ばしいけど、他の気配がするな。隠すのも、物なら構わないけど、人なら」
そこで彼は言葉を区切り、芝居がかった仕草で重々しく腕を組んだ。
「人なら?」
「こうする」
腕組みを解いた彼は、イヴを抱きしめた。
「放せ」
慌てる様子もなく拘束を解こうとするイヴに構わず、耳元で彼は囁く。
「いやだ。どうしてこうしてると思ってる? イヴ、俺にも愛している、って言って」
「シオン、まさか」
「耳がいいから外にいても聞こえてた。どうして? 姉妹だから? 双子だから? それだけで、あんなにあっさりその言葉を貰えるわけ? 俺は何度も君に好きだって言って、一度もその言葉を返してもらったことがない」
「応えられないと何度も言った。シオンと同じ想いは返せない」
「彼女に君が言ったのと、同じ意味でもいいから俺は聞いてみたいのに」
彼は彼女を離す。
「それに、さっき教えた。君は嘘が下手だって」
「嘘じゃない」
「わかった。言ってくれないなら君の嘘を言うときの癖は教えないでおこう。また来るよ、イヴ」
そうして去っていく彼に、力が抜けたようにへたり込んだイヴは頭を抱えた。
「イヴ」
「……コーラリア」
名を呼ぶ自分と同じ声にぐったりとイヴは応えた。
「貴女はあの人に愛することを教わった?」
「そんなことはないよ」
「イヴは嘘が下手なのね、私はちっとも気がつかなかった」
イヴが顔を上げると、隠れていたせいで髪がぼさぼさになり、服も乱れたコーラリアは泣いてこそいなかったが、泣きそうな顔をしていた。
「結婚は……、恋はしないっていつか貴女が言った時、私どこかで嬉しかった。安堵した。貴女も私と同じようにそれが自由でないのだと思ったから。酷いでしょう。さっき、そのことを後悔していたわ。謝ろうと思った。でも私、今はそう思えない。だって、あの時貴女は嘘をついたのでしょう」
「あの言葉は、嘘じゃない。私は、恋はしないよ、生涯」
「どうして偽るの? 自分にまで嘘をつくの?」
「嘘じゃ、」
「貴女は私が悲しいと悲しくなるとそう言った。私は、貴女がさっきあの人に抱きしめられているとき、私が自分の気持ちと関係なく何を感じたか分かる?」
「コーラリア」
鋭い声をあげたイヴに怯むことなく、コーラリアは言った。
「あの人が愛おしかった。私は初めてその気持ちがどんなものか分かったわ。貴女はどうして、それを否定するの。やっぱり私と貴女は全然違う、一言言えば全て叶うくせに、何故」
そこまで言ってからようやく口をつぐんだ彼女は、やがて小さく「ごめんなさい」、と言ってイヴの顔を見ることなく去っていった。
入れ替わるようにして、ぼんやりとしていたイヴの元に再び猫が現れる。
「認めてしまえば楽だろうに。あの晩言ったであろう、好きに生きるべきだと」
イヴは猫に向かって力なく微笑んだ。
「ルザーク。少ししょうもない自己憐憫に付き合ってくれるか。私はどうしてここにいると思う?」
「お前のためだ」
「そう、私のため。
エウリアにいつか聞いたんだ。会ったことのない両親が、私に唯一つ強く望んだのは『天寿を全うすること』だ。物心つく前からここにいるよう手配したのは、ひたすらにそのためだ。姉妹で憎みあって傷つけあい、殺しあうようなことがないように。私はそれに応えたくて、その思い故にこうして暮らした。それなのに、私が誰かと好きあって、万一子どもを授かって、遠からぬ未来にその子どもが火種となったなら? 身内で済めば……まだいいが、もしそのために紛争でも起きたら? 私がここで隠れるように生きてきたことも、女王であるコーラリアをその檻から救う手立てを持ちながら見捨てたことも、すべて水泡に帰す。私はそのことで後悔をしたくないんだ、けして」
「臆病だな」
「それに卑怯だ。どんなに否定してみても、自分がシオンのことを好きだなんて、本当は知っていた。だから、シオンに応えないくせに、彼が会いに来てくれることを喜んでいたんだ。
いつからか、シオンは私にとって、窓みたいな存在だった。彼を通して、外の世界が確かにあって、それがどんなものか初めて知れた。この国の人々の暮らしや生き様もそうして知った。そして、どこであれ、いかにも楽しげに動き回る彼を、飛ぶ鳥にそうするみたいに見上げて、眩しく思った。でも、彼のくれる想いも訪れも、本当は、拒みきるべきだ。分かっていた。それなのに卑怯にも拒否することが出来ないでいたから、結局コーラリアをあんなふうに傷つけるようなことになった。ただでさえ彼女はあんなに傷ついて、動揺していたのに。最低だろう、私みたいな馬鹿はいない。なあ、ルザーク?」
人の姿をとった魔はかすかに笑った。
「助けられた礼に、去る前に何かしてやろうと思っていたが、決めた。お前を逃がしてやろう」
「……ルザーク、ありがとう。でも、やめて欲しい。私はこの美しい雪の降る国に骨を埋めたいんだよ」
「悪いが、我は魔だ。ここの風の信条とするよりはるかに『自由』なのだよ、イヴ。他者の思いよりも、人の理よりも、自身の望みを誰より優先する」
その手が、イヴの頭に乗せられる。耳飾は警告するように彼女の耳元で鳴ったが、それはなんの力にもならない。
「ルザーク、待って、」
「お前の檻を全て、忘れてしまえ、イヴ」
「どこへ行くつもり」
赤い夕暮れの中、一人の娘を抱えて家を出ようとする男を睨みつける、色の淡い目があった。そのどこにも、いつもの気だるげな様子はない。いつの間にか四方に強く張られた結界の中、いくつも小さな竜巻が精霊を中心に起こっている。娘がいるためか攻撃できないことを苛立つように激しく吹き付ける風の中、男はまるで応えない様子で飄々としていた。
「イヴに何をしたの?」
「この耳飾のせいか、忌まわしい。気づくのが早かったな。我はただ、この娘の不必要な記憶を封じただけだ」
「なんて……惨いことを。あなたに彼女にとっての何かが必要か否かを決める権利はないのに」
「『お前たち』はそれを勝手に決めなかったと言うのか」
美しい風の精霊は答えなかった。
「言えないだろう。ここにこの娘を縛り付けた分際で。風の住まう国か、笑わせる。くだらない椅子のためにお前たちの愛するという自由がどれだけ犠牲になったのだろうな?」
「……イヴを返して。耳飾は彼女を持ち主と認めた。彼女がこの国を出れば、花が枯れてしまう」
「清清しいくらいに身勝手な理由だな、シルフィード。どこに行くかとお前は訊ねたな。お前のように我侭に、この娘が生きられるところに、だ」
そう言うと、魔はイヴを抱えたまま、音もなく大地に溶けるようにして消え去った。
魔は、イヴは、それからどうなったのか、耳飾は知らない。
魔に壊されてしまったわけではない。竜細工師の手で作られ、風の契約の証でもある耳飾を壊すことは、風の精霊の長の結界すら通り抜けて見せた魔であっても叶わなかった。ただそれゆえに、風の精霊と繋がり、彼女の記憶を揺り起こす可能性のある耳飾は、けして彼女に再び身につけられることのないよう、魔の手によって異界の不浄な地に捨てられてしまったのだ。
相容れない魔の力、歪みと混沌の溢れる地で、少しずつ耳飾はそれに染まっていった。それでも、侵食してくる歪みに軋み悲鳴を上げる自身から逃れるように、懐かしい思い出を繰り返し、繰り返し、思い描いた。壊れてしまえば自身とつながる花が枯れてしまうことを耳飾は知っていた。歪みに囚われた末にそうなれば、どのような結果を呼んでしまうかと恐ろしかった。花から、あの国の人々が花を大切にし、風を祀る様を耳飾は見ていた。耳飾は、長く守ってきた国を、花と同じに守りたかった。
だが、限界はやって来る。
ある日とうとう、耳飾は、ぱきり、と音を立ててあっけなく壊れてしまった。耳飾は一瞬、繋がっていた花の悲鳴を耳にした気がした。
あの娘は、あれからどうしただろうかと、耳飾は最後までそれが少し心配だった。