89.耳飾とコーラリア
「よし、別嬪に仕上がった。これならあの口うるさい注文屋ももう文句は無かろうよ」
一番最初に見たのは、満足げな青年の会心の笑み。
その後すぐ、暗く静かな場所へと密封された。けして動かぬように固定されたまま、どこかへと運ばれていくのだけ感じていた。人から人の手へわたり、やがて遠くへ、まるで浮遊するように運ばれていく気配がする。
どれくらい、そのままだったろう。やがて自分をしまっていた覆いは外されて、持ち上げられた先はほっそりとした、上品な年配の女性の掌の上。それが、彼が今いる場所だった。自分と同じ真っ青な瞳が、彼を見下ろして微笑む。ころり、とそのまま転がされた彼は、自分と似た形の同胞たちと微かに触れ合い、涼しげな金属の音を立てた。
「ジル」
柔らかな声で彼の持ち手である淑女は傍にいる誰かに呼びかけたようだった。
「これよ、今届いたの。ごらんなさいな、なんて素敵なのでしょう。まるで私の好きなあの花の姿と魂をここに封じ込めたよう。しなやかな花びら、優しい夕暮れの色」
「実際に、花とそれは通じてるみたい。そう聞いた」
どこか気だるげな娘の声が応じる。
「まあ、そうなの。竜に認められた細工師というのは本当に素晴らしい才をお持ちなのね。ありがとう、あなたとの証だもの、大切にするわ、ジル」
「くれぐれも、無くさないように」
「もちろんよ」
念を押すような心配そうな声に、気軽に淑女は請け負ってみせる。
「冠にすればよかったんだ、貴女が重いのはごめんだ、なんて我侭を言うから大変な目にあった」
そんなふうに、よく響く低い男の声がしたかと思えば、ジルと呼ばれたけだるげな娘が言った。
「エウリアは何もしなかったじゃない」
「俺は反対していたのだから当然だろう、姉上。アリエルは?」
「出かけてる」
「こんな差し迫ったときに」
長いため息の後、エウリアと呼ばれた男は淑女に向き直った。
「クロリス、即位式では我々にももう少し威厳のある話し方をしないと祭司連中がなんというか」
「大丈夫。これからはちゃんとするから。それよりあなたたちは後悔しないのかしら? もう後戻りは出来ないわよ? 特にジルフェ、あなたは……」
「問題ない。……もっともあなたが女性でよかったけれど」
遮るようにそう告げたジルフェの言葉の後、口々に生真面目な声で精霊は述べた。
「己が自由な魂にしたがって選んで後悔などするものか。赤い月の時代を、我らと共に誰よりも伸びやかに駆け、誰よりも弓と歌に長けた娘よ」
「人と精霊の垣根にとらわれない寛い心の娘。風を束ねる我らはあなたに惚れたのだ。この国を風の止まり木にしてくれるのだろう?」
「……ええ。任せて」
初めに感じた淑やかさはどこへやら、高らかに笑うと気風のいい女将のようにどん、と胸を叩いて淑女は頷いた。
そして小さく呟いた。ありがとう、と。お互い様、と精霊たちは笑った。
それから、淑女の耳に、ほっそりした風の精霊の長の手によって彼は取り付けられた。クロリスと呼ばれた彼女は女王になった。そして彼女の統べる国は、シンセと名づけられた風の住まう国となった。
何代も、平和は続いた。王になった者たちの耳で彼は揺れ続けた。優しい風はいつも王を守っていた。
しかしいつからか城には不穏な気配が漂い始めた。権力やら富といったものは、人の尊厳を簡単に荒廃させていくものらしい。平和だからこそ飾り物になりつつある王位は、権勢を得るための道具として、あたかも祭司たちの気に入りの玩具のように弄ばれるようになっていた。彼が風の国の王が何代目になるのか数えるのを止めた頃のこと。産声と共に新たな命が産まれた場でそれは起きた。
「一体何をなさるの!」
「黙ってその子を寄越しなさい、イコラ。今の情勢では、双子であることがどんなに危ないことか分かるだろう。片方を今諦めねば、いずれは殺し合いになりかねない」
剣を持った男と、両腕に赤子を抱えた女が、酷い顔色をして向き合っている。赤子は母親の悲鳴にわあわあと泣き続けている。どこか困った顔でエウリアがその傍に佇んでいた。
「ほら、急いで」
「いやです! この子を殺させなんか絶対にしない。あなたは狂ってしまったの……? ジルフェがいなくなったから、」
「違う!」
王はそう叫んだが、実際、ジルフェはいなくなった。今の代の王位継承者候補は男しかいなかった。代々血脈に産まれた一番上の娘が王に選ばれてきたこの国でそれは異例なこと。先代の女王が倒れ、ジルフェの意向を無視して彼が王位についたとき、彼女はどこかへ消え去った。その理由については硬く口を閉ざしたまま、「契約は決して破棄されたわけではないけれど、今のここにはいられない」とそれだけ言い残して。常に王の影にあった神秘的な風の精霊の長の姿と力が無いことは、術力のあるもの達の目には明らかであった。それは今の王が『認められていない』ことを意味するのだと祭司たちに目されてしまう。今まで放っておかれたような今代の王の弟たちに白羽の矢が立ち、密かに彼を担ぎ出そうとする者たちの画策が渦巻きだすと、城内には殺伐とした空気が漂うようになる。その渦中のものの精神を蝕むほどに。
「私のようにその子らを、兄弟の間柄なのに争うようなことにはさせたくない、それだけなんだ」
「あなた……」
悲しげに顔を歪ませる王の振り絞るような声を聞いて、王の妻は意を決したように彼の元へと立ち寄った。王の剣はみっともないほどに震えている。
「どうか未来をそのように決め付けないで、他の方法を探しましょう? 大丈夫、風はきっと守ってくださる。そうよね、エウリア」
「ああ。不精の姉の分まで、必ず」
ようやく声をはさめる機会を喜んだように、頼もしげに精霊は応えた。ぐったりと剣を下ろし、崩れ落ちるように座り込んだ王を精霊は慌てて支える。
「分かった……だが片方は、『いなかった』ことにする。いいな」
これ以上は譲歩しない、という口調に、腕の中の我が子らをぎゅ、と抱きしめた母親は涙を流して頷いた。
「コーラリア陛下! ああ、どちらへいらっしゃったのだ……いくら人見知りをなさるとはいえ婚約者である私を相手になんという仕打ち。私は貴女に語りたい言葉のために息の詰まるような思いをしているというのに」
「婚約者ですって?」
聞こえよがしに叫ぶ青年の声に対して少女は顔を顰めているらしいのを、その耳を飾る彼は感じた。
「もう決まったことでも、あの人がそうだなんて認めたくない。欲しいのはただ王配の座、それだけのくせに」
即位式はとうに済み、残すは婚儀ばかりという状態で、その日は刻々と近づいてきている。少女の父の代の王位を巡る狂乱騒ぎは風の精霊の不興を買ったものか、再びの女王が現れても城に滅多に寄り付かなかった。だからだろうか、少女の老いた父と母、そしてエウリアはともかく、城内には味方と呼べる者など彼女にはいなかった。そういう境遇の中、次代女王の自分が、肩書きだけ背負った人形のようなものなのだと少女はよく分かっているようだった。あるいはただの、風の女王の力の器。誰も一個の人としての彼女は見ない。婚約者と定められた男の愛を語る耳通りのよい言葉の中身が空っぽであることも、すぐに彼女は悟ってしまった。
逃亡の末にしつこい追っ手を撒いたコーラリアという名の少女は、半ばやけを起こしたようにけして入るなといわれた城の地下に潜り込んだ。王族だけが存在を知る迷路のようなそこは、城と国の何箇所かを結ぶ道であると言う。彼女は適当に歩いてその出口を目指すことにしたらしい。
ぼんやりと光る壁に照らされた赤煉瓦の道を勘に任せて進み続けて、幸いにも彼女は出口を見つけた。行き止まりに見える道の奥にははしごが備え付けられており、その先を見上げると人一人ようやく通れるくらいの黒い扉がある。やけに真新しい滑らかな感触の梯子に少し訝った様子ながら、彼女はそれを登って天井を目指した。
「眩しい」
扉を開けてすぐ、外の白い昼の光が彼女の瞳を刺す。ようやくそれに慣れてきたものか、彼女は目を覆っていた手をはずして辺りを見回した。
「う、み……?」
一面の真っ青な海がそこにはあった。ほとんど城に閉じ込められたようにして暮らしてきた彼女にとっては、遠めに見てきたそれがすぐ傍にある現実は信じがたいものなのだろう。まるで魅入られたように浜辺へと身を乗り出して足を進めた。しばらく初めて触れる海を手で掬ったりそこに浸したりしてその冷たさを味わった少女は、ようやく満足したのか浜辺の造りを観察しだした。人気の無い小さな浜辺。ここには確かに、城と同じくらいの精霊の守護の力が溢れている。幻術の気配のするこの浜辺は、部外者が外から覗いても、見つけることすら困難に違いない。一応は王族の緊急避難先なのだから、当たり前といえるかもしれない。だが、浜辺の内側にいてなお、何かを執拗に隠そうとする気配を彼女は敏感に見出したようだ。
「あれは」
崖に切り取られたようにして半円を描く浜辺の端に、巧妙に隠された力の凝った場所がある。
だが、たとえ飾り物といわれようと、平和である限りただ守るという地味な役割のみこなすために目立たなかろうと、仮にも風の精霊の長と契約を結んだだけの力を持っている少女にとって、大抵の幻術は意味を持たない。少女の視界を半ば共有することもできる耳飾にもそのことはよく分かっていた。
「小屋、かしら。わざわざ隠すようなものには見えないけれど」
幻術を透かして見えたのは、粗末なつくりの小屋だった。首を傾げながらそこへ近づこうとした少女は、ちょうどその小屋の扉を開けてでてきた相手を見てぴたりと立ち止まった。
相手もコーラリアを見て動きを止めた。……二人は鏡を覗きこんだかのようにそっくりだった。
コーラリアは愚かではなかったので、自分と瓜二つの少女が他人の空似ではなく、自身の片割れなのだとすぐに悟った。彼女をここに隠したのは両親であるということも予想できた。
「なんてことを」
女王となったほうの少女は、震える声で呟いた。
名乗りあって、お互いのことを語り合った。まるで生まれたときからそうであったかのように打ち解けた二人は、小屋の暖炉の前で並んで座り、揺れる暖かい炎の色を見つめながら様々なことへ思いをめぐらせている様子だった。小屋の中にはエウリアもいた。幻術は彼の仕掛けたものだったらしい。彼はやって来たコーラリアを見て酷く驚いた顔をしたが、何かに安堵した表情でもあった。黙ったまま姿を消してどこかへ行ってしまった。
「ごめん、コーラリア」
イヴと名乗った少女のぶっきらぼうな言葉に、コーラリアは首を振った。最低限のものだけ置かれた小屋の中で身を抱えるようにしている半身を彼女は見つめた。
「どうして? 謝るなら私のほうよ。貴女がこんなところに閉じ込められてしまってるのも気づかずに、私は不自由なく城で贅沢に生きてきた。生まれが少し早かったか遅かったか、たったそれだけの違いで……」
「私は確かにここから動けないけど、ここはあなたが思うように閉じられてもいないし豊かだ。こんなところと思うかもしれないが魚や貝はいっぱい取れるし、エウリアの他にも、遊びに来る子もいる。最近はやかましい猫も拾った。日々変化があって、退屈しない。でも、あなたはとても寂しそう。そしてあなたは重い役割を負わされて生きているけれど、私はただ生きるだけ、それだけなんだ」
コーラリアは黙り込んだ。ややあって、彼女は悩むように小さな声で言った。
「それでも、貴女も、縛られているじゃない」
「そうかもしれない……お互い厄介なところに生まれついたな」
二人は顔を見合わせて苦笑を漏らした。
それから、コーラリアは結婚式の日まで、イヴの元へ密かに通い続けた。二人は共に育たなかった分を埋めるように、遊びまわった。話し、笑い、喧嘩をし、仲直りをした。シンセにしては珍しく、よく晴れた穏やかな天気の日々が続いた。海も空も、目映いくらいに青く透き通った。
そして、とうとうやって来たコーラリアの結婚式の前日。
その日は、珍しく夜遅くになってから彼女はイヴの元へ向かった。結婚式の準備に追われたのだ。地下を抜けてでると、外は久々に吹雪いていたが、寒さをまるで感じずに麻痺したように少女はぼろ小屋の中に灯る黄色い明かりを目指した。
「ああ、コーラリア……どうした、泣いているのか?」
ノックの音に、白い息を吐きながら小屋の扉を開けたイヴは驚きに柳眉を寄せた。彼女に向かって言い募るようにして、泣きすぎて掠れた声で、イヴとそっくりな顔をした少女は叫んだ。
「明日私、結婚するのよ。結婚なんて、したく、ない。どうして望まない相手と結婚なんかしなきゃいけないの、その人の子どもを産まなきゃいけないの、どうして私だけっ……!」
悲痛に響くその言葉に衝かれたように、イヴも涙を零した。
「ごめん、コーラリア。ごめん……」
「あなたのせいじゃ、ない」
イヴは、縋りつくように抱きついて嗚咽を漏らす少女の背中をとんとん、と叩き、中に入るように促した。ようやく椅子に突っ伏していた彼女が泣き止むと、温かい香草茶を出して、イヴは困ったように口を開いた。
「まさか明日結婚なんて。いっそ、コーラリアと代わってやれたらよかったんだけど、私はこんな話し方しか出来ないし、女王らしい威厳のある上品な振る舞いも、何も出来ない」
「……そんなの必要ないわ。私の身代わりになるのは簡単、ただ、いるだけでいいのよ」
「そんなことはない。教養も、社交術も、治世の方法も、全部身につけるには相応の時間と努力、ある程度の才能が必要だ。あなたはそれを素晴らしいことに十分身に着けているだろうに、どうしてそんなに卑屈になる」
コーラリアは俯いた。
「貴女こそどうして何も出来ないなんていうの。生きていく知恵があって、身の回りのことが出来る。上辺の処世術なんかよりそういうことの方が尊いものなのに」
「そういうのは、必要に迫られたら誰でも出来るようになる」
「そうかしら」
「そうだよ。コーラリアも」
イヴに頭を撫でられて、くすぐったそうにコーラリアは笑った。気持ちは随分と落ち着いてきていた。
「おかしいわ、私のほうが貴女の姉なのにこれじゃあ逆ね」
「一日も違わないだろう。明日には同じ17だ」
そういえば、とコーラリアは頷いた。元から彼女の誕生日を迎えると共に結婚する手はずとなっていたのだ。
「双子なのだから、当たり前のことなのに、なぜか不思議に感じるわ。ねえイヴ、あなたは恋とか結婚とか、しないの」
そう問われたイヴは、静かに微笑んで答えた。
「しないよ」
「そうなの?」
「ああ」
「そう」
どこか力の抜けたように呟いた後、コーラリアは顔を背けた。
「私ね、結婚してしまったら、今より身動きが取れなくなってしまうの。多分、ここに来られなくなる。そしたらもう、私、誰も」
また泣き出しそうな彼女の手をイヴはそっと掴んだ。コーラリアが顔を上げると、掌に何かが載せられた。茶色と白の、円形をした小さなもの。
「これって……カメオ? ひょっとして貴女が彫ったの」
イヴは少し照れたように頷く。
「ちょうど、カメオ用のいい貝をもらっていたから。誕生日祝いに、これくらいしかあげられるものを思いつかなかった」
「すごい。何の花かしら?」
細やかな五弁の花が集って咲く様子が、小さなカメオに白く浮かび上がっている。
「ライラック。あなたの肖像を描くことも考えたけど、お祝いにはふさわしくない気がしたんだ。それにいつも綺麗な花の形の耳飾をしているから花が好きなのかと思って、結局これにした」
「とても嬉しい……ありがとう。大切にするわ。私も何か貴女にあげたいけれど」
その落ち着いた空気から、すっかりイヴと自分が同い年で同じ誕生日であることを失念していたコーラリアは、何も持ってきていなかった。一瞬途方にくれかけた様子の彼女だったが、「そうだ」、と何か思いついたように呟いた。
その言葉と共に彼はコーラリアの小さな耳からはずされ、同胞たちから引き離されると、イヴの掌に乗せられた。
「これを、貰ってくれない?」
「こんな見事な細工物……、大切なものなんじゃないのか?」
「お願い」
双子の姉の、どこか逼迫した声に、イヴは受け取ることに決めたようだ。すぐに耳飾を耳へと着けてみせた。それを見て、コーラリアは微笑んだ。
「ありがとう、イヴ」
「お礼を言うのは私のほうだ。ありがとう、コーラリア」
コーラリアが小屋を立つ頃には、夜明けが近づいてきていた。扉の前に立った二人は少しの間抱擁を交わしていたが、「どうか元気で」という言葉と共にゆっくりと離れた。小屋を去る背中をじっと無言で見ていたイヴだったが、やがて堪えかねたかのように叫んだ。
「私はずっと、ここにいるから! だから辛くなったなら、いつでもおいで、コーラリア!」
その言葉を受けて肩を震わした少女は、振り返らなかったが立ち止まった。やがて、小さく頷いた後、駆け出していく。吹雪にその姿がかき消されてしばらく経っても、イヴは雪の降りこむのも構わず扉を開いたまま立ち尽くしていた。
こうして耳飾である彼の持ち主は、コーラリアからイヴへと移った。